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2011年06月30日

『災害ボランティアの心構え』村井雅清(ソフトバンク新書)

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「ボランティアの背中を押してくれる良書」


 いい新書だと思った。


 新書ブームの昨今、新しい事象に関する手短な分析を手軽に読むことの恩恵をこうむってきたのも確かだが、安直な著作の多さにうんざりしかけてもいた。

 だが本書は、まさに新書にふさわしい内容だと思う。


 あえて述べるならば、3・11の大震災の直後に本書を読みたかった。そうすれば、もっと多くのボランティアが被災地の手助けをすることができたのではないかと思う。

 だが、もちろんそれは100%不可能である。というのも、本書は2011年6月25日に初版が刊行されたばかりであり、むしろ3・11以降の災害ボランティア活動の実態を克明に記録しつつ、そこから得た知見に基づいて、これからのボランティア活動に求められることを提言している著作だからだ(著者の村井雅清氏は、被災地NGO協働センターの代表を務めておられる)。


 最も心に残った提言は「ボランティアは押しかけていい」(P54)というものだ。


 震災発生当初、あまりの被害規模の大きさに、被災地以外の人々が一体何からどう助けたらいいのかと呆然としていたのは事実である。そのうちやがて、「ボランティアが殺到するとかえって現地の食糧不足を招いたり迷惑になる」といったまことしやかな情報が流布し始めていった。そして、「支援金を送ったほうがいい」「いや、食料品などの現物のほうがいい」といったように、支援の仕方をめぐっても混乱が続いていった。


 だが著者がいうには、「ボランティアは押しかけていい」のだという。むろん、上記した様な問題点が多少は生じるのかもしれないが、それよりも「行き控え」のような現象が起こって、慢性的に人手不足になってしまうことのほうが恐ろしいという。


 あるいはこれと関連して、社会学的に言うならば、ボランティアをめぐる「意図せざる結果」のような現象が起こっているという記述も興味深かった。


 すなわち、阪神・淡路大震災の経験が元となって、震災時にはボランティアを有効活用すべきだという認識は広まりつつある。だが、そうしたボランティアをめぐる一定の「成熟」した状況が、むしろボランティア活動のマニュアル化であったり、あるいは「指揮をするコーディネーターがいないのならば、かえって混乱するだけだから行かないほうがよい」といった思考を招いてしまっているのだという。


 それに対して著者は、「ボランティアは何でもありや!」だとして、以下のように述べている。

 「非常時に行政がやることのすき間を埋めるのがボランティアだから、ボランティアは「十人十色」「多種多彩」であるべきで、自発性・独立性・創造性を併せもつ存在でなくてはならない」(P27)


 つまりボランティアとは、マニュアル化された行動を、誰かに統括されてやるようなものでは決してなく、むしろ現場の状況に応じて臨機応変に、その場その場での支援をしていくものなのだろう。だから、「これが絶対の正解だ」といえるようなものは存在せず、常にトライアンドエラー方式の試行錯誤をやっていくしかないものなのだろう。

 それゆえ本書には、成功談ばかりではなく、失敗談も合わせて織り交ぜられており、だからこそ今後の支援活動を考えていく上で非常に学ぶところが多くなっている。

 震災以降、(当然のことながらボランティア活動をしながらと思われるが、)これだけの短期間で重要な著作をまとめられたことに敬意を表しつつ、このコンパクトな書籍を、通勤・通学の電車内であれ、家の中であれ、それこそボランティアに向かう途中でもいいので、できるだけ多くの人に読んでほしいと願わずにいられない。

 私自身も、遅ればせながら今夏には被災地を訪れる予定である。



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『必要か、リニア新幹線』橋山禮治郎(岩波書店)

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「今、求められるべき思考法を教えてくれる良書~リスク社会論の実用的な好例として」


 いい本に出会ったと思った。論ずべきテーマについて、今まさに求められるべきスタンスから論じている良書だと思った。

 昨今、ワンショットのテーマについて、面白おかしく極論めいた結論だけを抜き出したタイトルの新書が巷にあふれている。それらの多くは、新しいテーマを分析しているという点では価値があるものの、見方が偏ってしまっていることが多い。いわば、結論ありきなわけだ。それに対して本書は、筆者の主張を明確に打ち出してはおらず、むしろ以下のように記されている。


「本書はリニア中央新幹線の建設構想に対して、一義的に「賛成」とか「反対」を主張することを意図したものではない。筆者の強く望みたいことは、国民にとって最善な判断がなされることである。」(はじめに)


 むろん読み進めていけば、その立場はおのずと明らかになっている。だが、本書においては、それが「明言」されることはなく、徹底的に賛否両論を併記し、それぞれの可能性を十分に比較検討したうえで、そこはかとなく自らの主張を提示されているのである(もちろん説得的な理由を添えて、である)。


 翻って、いつの頃からかこの国の社会(科)学者たちは、マックス・ウェーバーのいう「価値自由」の意味を取り違え、「学者たるものは自分の意見を入れずに、淡々と事象のみを観察すべきである」と思い込んでしまってきた(事実、私もそうした教育を受けてきた)。


 いまだにそう思い込んでいるものも多い中で、本書は、今日の数々の社会問題に対して、社会(科)学者がまさに取るべきスタンスを教えてくれている。


 
 さて、肝心のリニアの問題である。この文章を記している2011年6月末の段階では(そしてそれは本書が書かれた段階でも同じだが)、もちろんまだ本工事は始まっていないものの、すでにJR東海が建設費の自己負担を打ち出したことで実現に向けて動き出しているといった状況である。


 本書を手に取った本当の理由が、鉄道に関する書籍なら何でも一度は立ち読みしてしまうというファン心理であったことからしても、あるいは、新幹線に代表される高速鉄道が戦後日本のナショナルシンボルであったことからしても、リニア新幹線の開通に心躍る気持ちがするのは事実である。
 

 だが日本社会は、「もう一度、世界一の技術力を見せつける機会だ!」といったロマンティックな夢を抱く段階から、現実的な選択肢を冷静に比較検討するような、成熟した段階へとすでに突入しているのではないだろうか。
もちろん、徹底的な両論併記をなした上で、本当に必要だと思われるものならば堂々と作ればよい。だが、高度成長期もバブル経済もはるか昔に過ぎ去った今日においては、よりシビアにその「費用対効果」を検討する視点を多くのものが持ち合わせていなくてはならない。

 この点では、本書で取り上げられているいくつものデータが役に立つし、さらに重要なのは、原発事故以来、ようやく人口に膾炙し始めた「リスク社会論」の思考法である。

 すなわち、高度な科学技術や複雑な社会システムが発達した近代成熟期の今日において、われわれが直視すべきは「危険」よりも「リスク」である。前者は科学技術の発達においてゼロにできるかのように思われてきたものだが、「リスク」はいかなる選択をした後においても付きまとう潜在的な可能性のことである。

 リニア新幹線の例で言えば、それを建設しようがしまいが、ネガティブな結果が持たされる可能性は潜在的には存在し続けるのだ。


 仮に建設したとしても、当初の需要見込みどおりに旅客数が伸びなければ、大幅な赤字に陥り、やがて利用者の料金が上がったり、その分を補填するために、地方における在来線が廃止されたりすることもありえよう。仮に、現在、東海道新幹線を利用している旅客数を全体として維持できたとしても、新しいリニア新幹線と既存の新幹線とを同時に維持していくコストがかかり続けることは代わらない。
 
 だが一方で、もちろん建設しなかった場合にも「リスク」がつきまとう。静岡県は近い将来に東海地震の発生が予測されており、もし東海道新幹線が長い間不通になれば、東京と大阪を結ぶ大動脈を失うことで日本経済は大きな打撃がこうむることは間違いない。

 あるいは妥協策として、中央新幹線をリニアではなく現状と同じ新幹線方式で建設することも考えられるが、この場合とて、最先端の鉄道技術の開発から徹底する覚悟が必要となる。


 本書は、「100%絶対の正解」を提示するのではなく、それぞれの選択肢が抱えた問題点を比較検討した上で、「まだまし」なベターな結論を志向しようとする点において、まさに「リスク社会論」のすぐれた実用例と言える著作と思う。

 ただ一点だけ、社会学者として気になるのは、以下の記述である。

「筆者が確信を持って言えるのは、
▼目的と手段が両方とも正しければ、必ず成功する 
▼しかし目的と手段のいずれにか欠陥や誤りがあれば、必ず失敗する
という経験則が存在することである」(はじめに)


 もちろん、一般読者向けにあえてわかりやすくした記述であろうことは差し引くとしても、やはり社会現象に「必ず」はないのではないかと思う。むしろそのことが「リスク社会論」の根幹でもある。社会学者の立場からするならば、社会現象は押しなべて「意図せざる結果」なのであって、むしろ人智を超えた社会的なメカニズムが思わぬ結果をもたらしてきたからこそ、社会学者は社会を研究し続けるのだと思う。

 リニア新幹線もそして原子力発電所の問題も、今、日本社会にいる人々が、突きつけられている重要な問題であり、「100%絶対の正解」もないが、いずれ何がしかの決断をしなければならないことになろう。本書は、こうした重要な決断をする際に、大いに示唆に富む一冊だといえよう。


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『鉄道と日本軍』竹内正浩(ちくま新書)

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「鉄道は国家なり」


 学問上の恩師とも言うべき人にこう言われたことがある。「社会(科)学を学ぶものは、一度は軍隊と戦史について学んでおくべきだ。なぜなら、軍隊は合理的な近代組織の一つの典型であり、戦史はその実地における活動記録に当るものだからだ」と。その方は、かの小室直樹氏からそう言われたのだという。


 しかしながら今日の日本社会では、軍隊や戦史に詳しい者といえば、「ごく一部のミリタリーマニアのことだろう」といったイメージしかもたれないかもしれない。希有な例外として、東京工業大学の橋爪大三郎氏が「軍事社会学」の講義をされているという話を聞いたことがあるが、そのシラバスにも「おそらく日本で唯一の講義」と記されていた記憶がある(橋爪氏も小室門下のお一人だ)。


 だからこそ、この社会では、組織が非合理的な方向に突っ走ったおかしな失敗が、いまだに後を絶たないのではないか、といったら言い過ぎだろうか。昨今の原発を巡る失敗が、第二次世界大戦時の軍部の動きになぞらえて語られるのも、決して故のない話ではない。

 さて、敗戦後、軍が解体された後に、もっとも軍隊らしい組織として残されたのは、実は鉄道ではないかと思う(もちろん自衛隊は今日でも存在しているのだが、人々により日常的でなじみがあるのは鉄道だろう)。別な言い方をすれば、日本ほど、鉄道に携わるものたちが軍隊のように行動する社会も珍しいといえるだろう。制服・制帽をきっちりと着用し、時間には秒単位で正確で、すれ違う時には敬礼をする・・・といった様子は、日ごろは当たり前に感じていることである。

 だが、他の国の鉄道に乗ると、例えば鉄道先進地のヨーロッパでも、鉄道員たちがラフな格好やフレンドリーな対応をしていることに驚くことがしばしばある。


 こうした点からも伺えるように、そして本書がその中心テーマとしているように、少なくともある時期までにおいては、軍隊と鉄道にはきわめて深いかかわりがあったのである。


 例えば本書でも記されているとおり、日清戦争後の陸軍に、鉄道大隊が創設されたことや、その後の日露戦争が実は鉄道をめぐる争いであったことなどは、今日では忘れられがちかもしれない。特に後者については、日本海海戦ばかりがクローズアップされがちであろう。


 さらには、それ以前においても、国内の幹線鉄道を敷設する際には、比較的平地が多く建設コストを抑えられる海岸沿いを通るか、それとも建設コストはかかっても艦砲射撃にさらされるリスクを避けられる山中を通るか、といった議論が真剣に交わされていた。


 この点に鑑みると、レールの幅だけが異なる中途半端な「ミニ新幹線」があちこちで作られたり、平行する在来線が廃止されたり第3セクター化されて、全国を結ぶ鉄道網がズタズタになっていく今日の状況は、もし明治の元勲が生きていたならばどう思うのだろうか。また国防や安全保障だけでなく、防災という観点からしても、日本経済の大動脈とも言える東海道新幹線のすぐそばに、浜岡原発が立地している現状はどう見えるのだろうか。


 このように、過去を学ぶことの意義は、ただ単に知識を増やすことだけではなく、現状を反省的にとらえ返すための貴重な視点を与えてくれることにあるといえるだろう。


 鉄道と日本社会との深いかかわりが、これまで十分に掘り下げられてこなかったという点は過去の書評の中でも繰り返し述べてきたことだが、本書はさらに進んで、鉄道と軍隊の深いかかわりについて、特に近代化初期段階の明治期に焦点を当てて論じた貴重な著作であり、今日の問題を考える上でも示唆に富むものである。


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2011年06月29日

『「モノと女」の戦後史―身体性・家庭性・社会性を軸に』天野正子・桜井厚(有信堂高文社)

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「ジェンダーを「立体視」する先駆的試み」

ある時期、ジェンダー論とはなんてつまらない学問なのだろうかと思っていたことがある。自分が浅学であることも大きいが、その内容が、とても平板に感じられたのだ。

 例えば、「男は仕事、女は家事」といった性別役割分業に対する批判である。もちろん、改善が進んだとはいえ、それらが未だに解決していない重要な問題でありつづけているということは言うまでもないのだが、正直に言えば「男が悪い」式のありきたりな結論を聞くのに飽き飽きしていた時期があった。


 大学で学び始めた当時は、むしろこうした議論が見開かせてくれる新しい社会問題への視座の気づきに心躍ったものだが、それ以上の目新しい知見を感じることができない日々がしばらく続いていた。そんな折に本書と出会ったのである。


 本書の内容は、さまざまな「モノ」とのかかわりを通して、戦後の女性たちが、いかに自己や他者、そして社会全体とかかわり合いを持ってきたのかを歴史的に描いたものである。「自己/他者/社会」といった3次元から、社会を捉えようとする視点は、はるか昔のドイツの社会学者ゲオルグ・ジンメルにまでさかのぼりうる、オーソドックスなものといえるが、むしろだからこそ確固たるものとなっている。


 本書ではこれを、「身体性/家庭性/社会性」に置き換え、たとえば身体性については、下着類や生理用品、家庭性についてはいくつかの家事用品、そして社会性については、手帳やタバコといった「モノ」を介して、女性たちがいかにそれぞれの社会次元とかかわり合いを持ってきたかという点について、克明に記述している。


たしかに、女性が女性らしく振る舞い得るのは、生得的にその人が女性だからというよりも、こうした「モノ」を介して、それぞれの次元において、女性らしいかかわりを持っているからだといったほうが説得的である。加えて本書が魅力的なのは、こうした「モノ」が一方的に女性らしさを規定していると捕らえるのではなく、むしろそうした規定力と女性たちの意味づけとの相互交渉を克明に記述しているところにある。そこからは、より現実的な手法で、既存のジェンダーを少しづつずらしていくための、建設的な処方箋にもつながっていくことだろう。


これらの点において本書は、これまでの平板化しがちだったフェミニズムやジェンダー論とは、明らかに一線を画す著作となっている。しいて言えば、「家庭性」という次元の設定について、実態に寄り添ったためにそのようなネーミングになるのは理解できるとしても、「(他者との)関係性」「親密性」といったより抽象的なタームにしておいたほうが、この分析概念の応用範囲をより広めることができたのではないかと思われる。


 なお続編にあたるものとして、『モノと男の戦後史』『モノと子どもの戦後史』(いずれも吉川弘文館)もあるのだが、読み比べると、やはり抜群に面白いのは本書である。その理由として、特にひと頃までの男性たちには典型的だが、天下国家や社会のことばかりを考えて、身だしなみや他者との関係性に無頓着でいるような人々については、この立体視のための3次元図式が不要になってしまうからかもしれない。

むしろ、抑圧的な立場におかれてきた女性たちのほうが、それこそ発明王となるカリスマ主婦のように、さまざまに「モノ」とのかかわり合いを工夫しながら、自らの生活を満たされたものとするための着実な知恵をふんだんに蓄積してきたのだともいえるだろう。今後もこうした生活の知恵を克明に記述していく、着実な研究成果が期待されよう。


 本書は平易な文体で読みやすいが、事例が豊富で読み応えのある一冊である。それこそ男女を問わずに、幅広い世代の方に読んでいただきたい。


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