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2011年05月31日

『放送禁止歌』森達也(光文社)

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「「思考停止」に陥らないための一冊」


「バカ! どんな理由があろうとなあ、歌ったらアカン歌なんて、あるわけないんだ!

 この銀河系のどこ探してもなあ、天体望遠鏡で見渡してもなあ、そんなものはどこにもないんだよ!」~映画『パッチギ!』(井筒和幸監督)より


 本書は、映画監督・ドキュメンタリー作家である森達也氏が、とあるドキュメンタリー番組を取材・制作した過程を1冊の本にまとめたものである(当初は、2000年に解放出版社から、デーブ・スペクター監修で刊行されたが、2003年に文庫化された)。

 そのドキュメンタリー番組の名は、書名と同じ『放送禁止歌』、1999年5月22日の深夜、それも関東ローカルのみで放送された。しかしながら、このドキュメンタリー番組の地味さとは対照的に、扱われているテーマはきわめて重大である。


 森氏の主張は一言に尽きる。「思考停止することなかれ」。人間は考えることをやめてはならない。この主張は、現代を生きる全ての人にとって重要だ。なぜなら現代社会は、むしろ人間に思考停止を強いるように変化しつつあるからだ。一言で言えば、「より便利に、しかし考えるのは面倒くさい」社会になりつつある。


 身近な例を挙げよう。例えば街の至る所に設置されている「防犯カメラ」である。寝ずの番をせずとも、365日24時間、カメラが見張りをしてくれる。

 だが、ちょっと考えてみれば、それが我々自身を見張る可能性があることに気づくのは難しくないだろう。いわば、犯罪者に向けられた「防犯カメラ」とは名ばかりで、たちどころに、われわれ自身に対する「監視カメラ」に転じうるのだ。

 しかし、そのちょっと考えてみる・・・のが面倒くさい、という人が多いのはわからなくもない。

 さて、森氏のドキュメンタリーの手法も一言に尽きる。「面倒くさがらないこと」。我々からしてみれば、「えー、そんなこと、不思議に思ったこともなかったよ」というようなことでも次々に追求する。その様子には、思わず「この人、頭悪いんじゃないの?」とでも言いたくなってしまうほどの「物分りの悪さ」を感じもする。でも時にそれが大事なのだ。


 本書が取り上げる「放送禁止歌」とは、マス・メディアが取り上げない歌のことだ。冒頭の台詞は、特A級「放送禁止歌」と呼ばれる「イムジン河」を、ハウンド・ドッグの大友康平演じるラジオ・ディレクターが放送しようとして止められた際、叫んだものだ。実は、森氏が取材から明らかにしたことは、ほぼこの台詞に言い尽くされている。


 「放送禁止」される以上、我々はつい何か原因があるのだろうと思ってしまう。「きっと何か悪い歌だから、知らないほうがいいんだ」と思い込んでしまう。だが、まさにこれこそが森氏の危惧する思考停止なのだ。


 取材で明らかになったのは次のようなことだ。つまり、個々の「放送禁止歌」について、クレームがついた事実はあるかもしれないが、それを「放送禁止」にする公的な根拠などどこにも存在していなかったということだ。しいて言えば、民放連が作成した「要注意歌謡曲リスト」があるが、これとて法的な拘束力はなく、1983年を最後に更新されず、ほぼ効力はないという。

 つまり「放送禁止歌」は製作者側、視聴者側のいずれもが「放送してはいけないと思い込んでいた」だけの共同幻想だったのだ。いわば社会全体が思考停止する中で、いくつもの歌が正当に評価されずに葬り去られていったのだ。

 もちろん「放送禁止歌」の全てが名曲であるわけではない(それもまた新たな思考停止だ)。だが、知らず知らずのうちに、理由もないのにタブーを作り上げ、表現や想像力の広がりを狭めてしまうことは、最終的に我々の得にはならないはずだ。


 こんな時代だからこそ、読んでおきたいおすすめの1冊であるとともに、可能ならば、実際に放映された映像も、あわせてご覧になることをお勧めしておきたい。


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『鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町』青木栄一(吉川弘文館)

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「なぜJR中央線はまっすぐなのか」

 以前、通勤で使っていたJR中央線に乗っていて、いつも思うことがあった。「この線はなんと乗り心地がいいのか」と。ちょうど旧型から最新型へと、車両の置き換えが済んだ時期だったということもあったのだが、それ以上に、乗っていてほとんど揺れを感じないのだ。そのあとで、平行して走る私鉄に乗ると、「ずいぶんと揺れるなあ」と、今まで気づかなかった乗り心地の悪さを感じてしまうほどであった。
 それもそのはずで、JR中央線の線路は、ひたすらにまっすぐでカーブが全くないのだ。特に、新宿を過ぎて、立川に至るまではひたすらに直線が続いている。地図を見ると明らかにわかる特徴である。

 一方で、その沿線には、古い町というのが少ない。府中や調布といった、旧甲州街道沿いの古くから栄えた町は、平行する京王電鉄の沿線となっている。

 こうした現状からさかのぼって、日本社会には長らく「鉄道忌避伝説」なるものが存在してきた。いわく、古くから栄えてきた宿場町にとって、鉄道は商売敵であり、その開通に反対の立場を取ったため、幹線の多くは町はずれに作られることが多かった、というものである。


 本書は、こうした「鉄道忌避伝説」について、歴史地理学の手法に従って、その通説を覆していくものである。資料を丹念にあたりながら、通説の自明性を覆していくそのプロセスは、まさに痛快であり、実証的な学問の面白さが存分に味わえる一冊となっている。
 
 たしかに、開通以前の鉄道に対して、反対運動が全くなかったわけではない。また、日本社会における幹線鉄道の敷設に当っては、たしかに古くからの宿場町を避けているかのように見える路線が多いのも事実だ。


 だが、青木によれば、それらは、古くからの宿場町を避けたというよりも、むしろもっとも合理的なルートを選択して敷設された結果に過ぎないのだという。つまり、急なカーブや上り坂を避けたために、結果としてそうなったに過ぎないのだ。冒頭で紹介した、JR中央線のルートなどはその好例として、次のように記されている。

 「だから、甲武鉄道(現在の中央線)が新宿―立川間を二十数キロに及ぶ緩勾配の直線ルートで建設したのは、甲州街道筋の宿場町の反対でやむなく武蔵野台地上のルートを選択したためであるという鉄道忌避伝説があるが、鉄道側から見ればこれは理想的な線形であり、仕方なく選択したなどというようなものではないのである」(P50)

 なるほどと、うなづける指摘であろう。だから、JR中央線の線路はあれほどにまっすぐで、乗り心地がよいのだ。
 

 他に考えてみても、今日に至るまで、これほどの科学技術大国となり、急速に富国強兵・殖産興業を推し進めてきた日本社会において、鉄道という存在が、「得体のしれない西洋のもの」として、それほど強く忌避されていた、というのも、落ち着いて考えてみるとどこかおかしい話である。むしろ、国外から伝わってきたものを、次々に取り入れていく柔軟性があったからこそ、あれほどの急速な近代化がなし得たのではないだろうか。
 

 このように、我々が生きている社会には、当たり前のものとして疑われないままでいる「常識」がいくつもある。時に、学問はこうした自明性を覆していくが、本書はその実証的なアプローチにも学ぶところが多く、まさに「目からウロコ」の一冊といえよう。


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『一匹と九十九匹と』うめざわしゅん(小学館)

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「2000年代を代表する「生きづらさ系マンガ」」

 久しぶりに凄いマンガを読んだ。知り合いの編集者に勧められたのだが、ただちに他の作品を読みたくなった。だが、まだ2作しか刊行されていないという(単行本としては、本作とデビュー作の『ユートピアズ』の2作だけが刊行されている)。

 私個人の受け取り方としては、「生きづらさ系マンガ」として「ポスト岡崎京子」に位置づけられる気がした。

 ここでいう「生きづらさ系マンガ」とは、絶望感を緩和して、生きづらさと向き合うマンガのことをいう。この絶望感との向き合い方について、うめざわしゅんのそれには、今までの作家との明確な違いを感じた。また、そこに日本社会の変化も感じられるように思われた。

 「生きづらさ系マンガ」として、岡崎京子は1990年代を代表する存在だったと思う。そのスタンスは、希望の中に潜む絶望に気がつきつつも、あえてその希望を生きるというものである。周知の通り、初期の作品である『東京ガールズブラボー』で描かれていたのは、消費社会の記号と戯れることの楽しさであるとともに、どこかでそのはかなさに気づく少女の姿であった。だが少女たちは、それでもあえてそのはかない楽しさを生きていくのだ。宮台真司氏がよく指摘していたことだが、彼がフィールドワークをしていたブルセラブームのころ、女子高生に岡崎京子の読者が多かったというのも、うなづける話である。

 だが、後の『ヘルタースケルター』へと至っていくのに従って、その作品世界は段々と暗さを増していく。いわば、絶望の方が希望をのみこんでいってしまうのだ。この変化は、「失われた10年」とも言われた、1990年代の日本社会ともシンクロしよう。

 この点で、うめざわしゅんの絶望への向き合い方は、岡崎京子の真逆に位置づくように思われる。いわば、岡崎が希望と向き合いつつ、その中に実は絶望が存在していることに気づいていたのだとしたら、うめざわは、初めから絶望と向き合っている。むしろ、絶望感あふれる今日の社会と正面から向き合うことで、その中に希望の一筋を見出そうとしているように思われる。

 だから、本作も大変に暗いマンガだ。援助交際、監禁、校内暴力、不登校、コンビニ強盗、殺し屋・・・と、これだけを列挙すれば、なにもいいことがないような、そんな今日の社会の雰囲気を現したマンガであるように思われる。だが、絶望と正面から向きあうがゆえに、「これ以上、悪くもならない」という開き直りのように、どこかに希望も感じられるのが、本作におさめられたエピソードに共通する読後感なのだ。

 こうした2000年代の「生きづらさ系マンガ」としては、以前にも『ソラニン』を評したように、私は、あさのいにおが「ポスト岡崎京子」の一番手だと思っていた。だが、人によっては、うめざわしゅんのほうを高く評価する場合もあるかもしれない。実は、知り合いの編集者にも、「あさのいにおを面白いと感じるなら、こっちも試してみては・・」と勧められたのだ。


 扱う題材の暗さに、万人向けとは言い難いが(とっつきやすさという点では、あさのに軍配が上がるが)、「生きづらさ」を感じる人たちに、ぜひ一度、お勧めしたいマンガである。


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2011年05月30日

『ブスがなくなる日―「見た目格差」社会の女と男』山本 桂子(主婦の友社)

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「驚くほどわかりやすい「ブス論」」

 あまりに、ひねりがない書評のタイトルをつけてしまった。だが、それほどに本書の記述は明確で、その主張は分かりやすい。
 ブスとは一体何か。 「常識」にしたがうならば、物理的に顔の造作の美しくない女性をブスと呼び、美しい女性を美人と呼ぶものと考えられる。そして男性ならば、前者がブ男、後者がハンサムないしイケメンと呼ぶのだと。

 だが、こうした発想を著者は覆していく。むしろ、メイクの進化によって、こうしたブスは、絶滅しかかっているとすら言うのだ。このことが著作のタイトルにも表れている。

 実は、評者も長年のフィールドワークの中で、うすうすと同じような変化を感じていた。しかし、思いつきにすぎないような概念を温め続けるだけだったのだが、本書に出会って、そうした思いつきがこれほどに明瞭に言語化されていることを知り、思わず、読書中の電車内で「これだ!」とひざを打ってしまった。

 評者がフィールドワークをしてきたのは、男性アイドルの女性ファンたちである。1990年代から継続して行ってきたのだが、よく言われていたのは、「男性アイドルとは、彼氏ができない女性たちが代替として求める疑似恋愛の相手に過ぎない」という解釈であった。もっと、ストレートにいえば、「追っかけにはブスが多い」といった物言いであった。

 だがこの物言いは、フィールドに出てみることで、覆されていくことになった。先のブスの定義に倣うならば、当時の追っかけたちは、物理的にはブスではない女性が多かったのだ。むしろ「顔の造作は悪くないんだから、もうちょっとメイクをがんばったら、きっと美人に見えるのになあ」とか「しゃべり方をもうちょっと明るくしたら、かわいくなるのになあ」という感想を覚えることが多かった。

 そこで、論文や著作には記さなかったのだが、私が心のうちで思いついた概念というのは、「物理的ブス」と「社会的ブス」は違うというものだった。前者は、物理的に造作が美しくない場合だが、後者は「自分がブスだと思い込んでいる(ないし、周囲から思い込まされている)」場合である。

 私が1990年代にフィールドワークをしていたころの追っかけには、実は後者が多かったのである。例えば、「追っかけも楽しいけど、クラスの男の子とデートしたり、遊んだりしたいと思わないの?」と聞けば、「う~ん、なんかそういう“自信”がないから。同じお金だったら、デートより、コンサート代に回した方がいいかなって思う」と答えていた。つまり、「きっと自分はリアルの男子には相手にされない」、「きっと自分はかわいい女の子じゃない」と、思い込んでしまうがゆえに、結果としてブスとしてふるまってしまっていたのである。
 したがって、ふとしたきっかけで「社会的ブス」ではなくなる場面にも多く遭遇してきた。たとえば、生活時間のほとんどをつぎ込むほどに熱心であったのに、彼氏ができたら、たちまちに追っかけを「卒業」していくようなことも多かった。

 近年では、追っかけのフィールドワークに出向いても、あるいは、普通に街中を歩いていても、ブスが本当にいなくなったと感じる。著者も指摘するように、メイクの進化によって、「物理的ブス」はもはや絶滅しかかっているのだろう。
 だが、「社会的ブス」の問題はまだまだ根深いようだ。著者も言うように、100%生まれ変わるかのような変身を遂げずとも、「従来品より20%アップ(当社比)」(P191)するだけで、十分にきれいに見えるようになるはずなのだが、なかなかそう気持ちが切り替えられない場合も多いようだ。ましてや、これだけ世情が暗い社会においては、それも無理ない話なのかもしれない。


 あるいは、少し筆を滑らせるならば、「物理的ブス」が本当に絶滅してしまったならば、その先にはどんな未来が待っているのだろうか。誰しもが美人という社会はあり得るのだろうか。

 もしも、美人という存在が、その希少性においてもてはやされる存在なのだとしたら、絶滅しかかっているという「物理的ブス」こそが、未来においては、美人にとって代わることもあり得るのではないだろうか(そのように考えると、実は、「物理的ブス」という概念も、引いた目で見るならば、「社会的ブス」に含まれると言えなくもない。なぜならば、美醜の概念もまた社会的に異なるし、変化もするからである)。

 なお、最後にお断りしておくが、評者はルックスには全くと言っていいほど自信がない(書評ページの顔写真をご覧いただければわかるだろう)。むしろ、近年でいうところの「非モテ」人生をまっしぐらに突き進んできたくらいだから、人様のルックスについて、あれこれいう資格などないと言われればそれまでかもしれない。よって、ここでに記した内容については、いかようなご批判をも甘受する。だが、そうした批判を想定してもなお、本書は紹介するに足る、面白い著作である。



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『可視化された帝国-近代日本の行幸啓』原 武史(みすず書房)

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「「想像の共同体」ではなく「可視化された帝国」」

「目からウロコが落ちる」という言葉があるが、私にとって、本書を読んだ時の感想もそれに近いものがあった。
 本書の骨子は、ベネディクト・アンダーソン流の「想像の共同体」論を、近代日本の実情に照らし合わせながら、批判していくところにある。 アンダーソンの『想像の共同体』は、近代史や歴史的な文化研究を志す者にとって、いわばバイブルの一つだが、その内容とは、国民国家の成立にメディアが果たした役割を指摘したものといえるだろう。

 すなわち、それまで時空間的に独立していた国内の各地方が、新聞や書籍といった出版メディアが登場したことで、共通の言語を用いて、あたかも一つの問題関心を共有するような感覚を覚えるようになり、それが国民国家としての統一につながっていった、というものである。日本においても、明治期の近代国家の成立過程を批判的にとらえる立場から、よく引用されてきた文献である。

 しかしながら、著者の原武史に言わせれば、明治期における近代国家の成立に、「想像の共同体」論を直輸入するのは、あまりにも当てはまりが悪いという。というのも、アンダーソンの議論は、メディアの中でも特に出版メディア(聖書や新聞など)に着目して、それによる「想像の共同体」の成立が国民国家の制度化に先行していたとするものだが、日本社会においては、それに相当するメディアは存在しなかったのではないかという。

 たしかに近代日本において、新聞の発行部数が急伸していくのは、はやくても1877(明治10)年の西南戦争、もしくはその後の日清・日露戦争時の戦勝報道を欲してのこと、といわれており、やや時代的には後のことのように思える。

 では、何が日本の近代国家の成立に貢献したメディアであったのか。この点について原は、西南戦争時に兵員の輸送手段として注目され、日清・日露戦争時にはさらにその路線網を伸ばしつつあった鉄道に注目をする。

 近年では、メディアといえば、情報を伝達する手段と捉えられることが多いため、鉄道がメディアというのはやや違和感を覚えるかもしれない。だが、かつては、新聞輸送列車や郵便車というものが存在していたように、鉄道も情報を伝達する手段のひとつであったし、そもそも「人々を結びつける技術的な手段」という点においては、鉄道もメディアの一つである(余談だが、メディア論の古典ともいえる、マクルーハン『メディア論』の冒頭にも、鉄道がメディアであるという説明が登場する)。

 その上で原は、鉄道を用いた天皇の行幸啓が、明治期の国民国家成立に果たした役割を分析している。いわばそれは、出版メディアの受容が「想像の共同体」の存在を人々に知覚させたというよりも、むしろ天皇の「お召し列車」が通過する際に、「地元の人々が動員されてきれいに整列し、決められた時間どおりに走る列車に向かって、いっせいに敬礼する」(P68)ようなふるまいが拡がっていくとともに、「帝国」が「可視化」されながら成立していったのではないかという指摘である。
 
 明治期の日本においては、後発的な近代化を急速に成し遂げる必要があったという点からすれば、「想像の共同体」に先行して「可視化された帝国」の成立が急速に進められていたという主張の方が理にかなっているといえるだろう。


 本書では、さらに大正期、昭和期の行幸啓にまで焦点が当てられており、「常識」に従えば天皇制論、あるいは政治学の文献として読むべき著作なのだろうが、私は「鉄道文化論」として興味深く読んだ。著者の原武史氏も本業は政治学者だが、近年では、「鉄道に詳しい大学の先生」ということで有名だろう。

 あるいは、政治学者と鉄道ファンであることが、別々のこととして語らなければならないような今日の社会の方が、どこか間違っているのであって、実はそれほどに、この社会と鉄道との関係が根深い(にもかかわらず、そのことが驚くほど知られていない)ということを教えてくれる一冊でもある。


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