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2011年03月31日

『最新調査 日本の“珍々”踏切』伊藤博康(東邦出版)

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「踏切のそばで電車を眺めていた幼い日々(=昭和時代)を思い出す一冊」

 本書は、日本全国の中から選りすぐりの面白い踏切について、著者が自ら撮影した数々の写真とともに紹介したものである。2005年に出された前作『日本の“珍々”踏切』に修正を加えたアップバージョンにあたる。

 まさに『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)にぴったりの内容だと思っていたら、著者の伊藤博康氏は、前作の出版後すでに同番組に出演されていたという(なお伊藤氏は、日本を代表する鉄道ファンサイト、『鉄道フォーラム』のマネジャーでもある)。

 本書は、全体を通して読み進める大作のようなものではないので、むしろ時間の空いたときに、楽しみながらランダムに読み進めたい。目次を眺めて気になった踏切の紹介から、読んでいくのがよいだろう。

 個人的には、新幹線や地下鉄の踏切(それぞれ、P104、P62))、あるいは残りわずかになった山手線の踏切(P60)といった存在自体がレアなものや、ローカル私鉄に存在する、きわめてシンプルな「素朴な踏切」(P52)などが興味をひかれた。

 さて、本書はその軽い文体の一方で、示唆しているテーマには深いものがあるようにお思えてならない。

 そもそも、なぜ一冊の本にまとめられるほどに踏切とは面白いものなのか、あるいは、その前に立つと、どことなく郷愁を感じてしまうのはなぜなのか。

 この点について、著者は「踏切の懐かしさ」と題する前書きで以下のように記している。

「それは、一昔前の人間関係に似ている。わずらわしくて、やってられない。だけど、そこで人はあれこれ考え、学び、鍛えられるんじゃないか。それに、何よりその「しがらみ」のおかげで、人は孤独を忘れていられるのだ。」(P3)


 「しがらみ」の多い「一昔前の人間関係」に踏切を例えるこの指摘は、的を射たものといえるだろう。鉄道においても立体交差化が進む中で、少しづつではあるが踏切はその姿を消し始めている。
 
 いわばそれは、システムがより円滑に機能するように改良が進められていくことで、かつて存在したノイズがますますなくなっていくということである。

 だが、ノイズのまったく存在しない社会ほど怖いものもないだろう。いわばそれは作動するシステムに対する想像力を欠いた社会であり、人々が思考停止に陥った社会ともいえる。


 かつて社会学者の見田宗介は、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を分析しながら、鉄道は「想像力のメディア」であると評したことがある。つまり鉄道とは、今ここにある現実の出発駅から、ここではないどこかにある理想の終着駅に向かって、人々の想像力を掻き立てていく存在だというのだ。

 だからこそ、鉄道好きの幼い子どもたちは、いつまでも飽きることなく、踏切で電車が通り過ぎるのを眺めようとするのだろう。幼い日の私も、そして私の息子にもそうした体験がある。踏切は、そんな鉄道にもっとも接近して、もっともリアルに感じられる場所であり、だからこそ最も想像力が掻き立てられる場所なのだろう。 

 もちろん、このように記したからと言って、踏切そのものを残すべきだとか、何か「文化財」のように扱うべきだとかいうような、ベタなことを言いたいのではない。

 そうではなくて、むしろますます便利になりノイズが失われていく現代社会の中で、どのようにしたら我々が想像力を枯渇させずに済むことができるのか。本書が問いかけているのはそうしたテーマではないだろうか。

 だからこそ、鉄道ファンの方にも、そしてそうでない人にも、強く本書をお勧めしたい。


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『妄想少女オタク系』紺條夏生(双葉社)

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「女子も男子も楽しめるマンガ~少女文化のゆくえを考えるヒント」

 面白いマンガである。しいてジャンル分けをするのならば、少女マンガというカテゴリーに位置づくのだろうが、およそそうした既存のカテゴリーを大きくはみ出した作品である。

 恋愛や性をテーマにしたマンガでありながら、女子が読んでも男子が読んでも楽しめるというところに、この作品の最大の特徴がある。そうしたマンガは、これまでなかなかありそうでなかったように思われる。その理由はマンガがジェンダーディバイドの最もはっきりとしたメディアの一つだからであろう。稀有な事例として克亜樹氏の名作『ふたりエッチ』などが思い浮かぶが、それであっても、男性向けと女性向けは別々のシリーズとして刊行されている。

 これは、いわゆる「お色気サービスシーン」がどちらに対しても用意されているというだけではない。性愛をめぐる様々な関係性のパターンが面白く紹介されていて、さまざまな立場の人が読んでも、楽しみながら関係性に対する理解を深めることができるのだ。

 ストーリーは、ある平凡な男子高校生、阿部隆弘を中心に展開する学園ラブコメディもの、といえばありきたりな設定に思われるかもしれない。しかし、彼が恋心を寄せる女子高校生、浅井留美は実はディープなオタクで、クラスの男子たちのじゃれあいを見つめながら、いわゆるBL(ボーイズラブ)系と呼ばれるような、男性同性愛的な妄想を膨らませてばかりいるのである。

 したがって、隆弘が留美に告白した時も、「でも、やっぱり阿部君は千葉君とのがお似合いだと思うの」(第1巻P28)と、筋違いの回答を返されてしまう。というのも、留美にとっては、「「つき合う」とかよくわかんないし「彼氏」とか「恋人」とか想像つかない」(同P140)のであり、さらに「あたしが男子だったら想像出来んの」(同P141)といって、ひたすらBL系の妄想の中に関係性の理解を当てはめようとする。


 かつて、男は「見る性」、女は「見られる性」だとして、メディアにおいて一方的に見世物のように扱われている女性に関する表象を批判的に議論することが盛んであった。もちろん今でもそうした内容を扱うメディアがあることは否定できない。

 しかし、このマンガが面白いのは、女性である留美が、隆弘と美男子の同級生千葉との間に性的な関係を妄想的に見だして、「見る―見られる」関係を逆転させているということだけにとどまらず、一方で、読者にとっては、そうする留美のふるまいそのものが今度は「見られる」対象になっていたりと、「見る―見られる」関係が幾重にも複雑化しているところなのだ。


 もちろん本作はマンガであるため、多少は戯画化されている点を差し引いて考えなければならない。しかしながら、女子学生たちと日頃話をしていると、ここで描かれている実態は決して大げさなものではないように思われてくる。


 先月の書評では、藤本由香里氏の古典『私の居場所はどこにあるの?』を取り上げながら、それと対比させる中で、今や若い女性たちは恋愛の当事者から傍観者へと移行しつつあるのではないかと述べたが、そのことを最もよく表しているのは、やはりBL系のマンガを愛好する腐女子と呼ばれる女性たちの存在だと思われる。

 特に近年の若い女性では、少女マンガや男性アイドルといった疑似恋愛の体験を通して、その後の思春期にBL系へと移行するのではなく、むしろ小学校高学年頃といったかなり早い段階からBL系に接していることも多いらしい。

 つまり、かつてならば、少女マンガや男性アイドル文化などを通して、恋愛の当事者、あるいは実際の恋愛に移行する前の「練習」をしていたのが、むしろBL系を通して初めから恋愛関係を傍観者として見ることを学びつつ、そのままに思春期を迎えるというパターンが増え始めているらしいのだ。本作品のヒロイン留美はまさにそうした典型例といえよう。

 では、疑似恋愛を経ることなく思春期を迎えてしまった少女たちは、果たしてその後、どうなっていくのだろうか。恋愛関係を傍観者としてまなざすことを先に学んでしまった少女たちは、恋愛の当事者になりうるのだろうか。

 まさに、これからの少女文化のゆくえをうらなう意味でも重要な、これらの問いに対する答えは、本作品の最終話において、ある程度示されているとだけ言っていこう。それは、単純に、恋愛の当事者から傍観者になったり、あるいはまた当事者に戻ったりといったようなものではなく、当事者でもあり傍観者でもあるような、新しい関係性のありようを感じさせる興味深いエンディングである。
 

 全7巻、ぜひ最後まで読み通されることをお勧めする。


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『事故の鉄道史』佐々木冨泰・網谷りょういち(日本経済評論社)

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「技術の進歩に関して、歴史観が揺さぶれる一冊」

 技術決定論という考え方がある。いわば軽工業から重工業へ、そしてまた重厚長大型から軽薄短小型の産業へというように、技術の進歩を当然の前提と見なし、それに伴って人間社会も変化してきたという考え方である。

 科学技術大国ともいわれる日本社会に生きている我々は、日常においてこうした考え方をしやすいのではないだろうか。例えば、鉄道ができて離れた町同士が結ばれたからこそ交流が始まったのだとか、今度は飛行機が登場して国同士の行き来がしやすくなったからこそ国際化が始まったのだ、というように。

 だが、改めて考えてみると、そこにはある一つの視点が抜け落ちていることに気づく。それは、そもそもなぜ技術が進歩してきたのかをとらえる視点である。

 本書はむしろ、技術の進歩を当然のものと見なしてしまうのではなく、むしろそれを引き起こした背景や要因に一貫して注目している。そこで、本書が注目しているのは、鉄道事故である。
 
 今日でこそ、鉄道は「最も安全な乗り物」の一つとされ、多くの人々が安心して利用している。とりわけ日本の鉄道においては、新幹線が開業以来、死亡事故を一件も起していない(自殺などは除く)ことに代表されるように、その高い安全性を誇っている。あるいは、車輛内部の素材についても、火災を想定して燃えにくい素材を使うなど徹底した対策が取られている。

 だが、こうした日本の鉄道の高い安全性は、技術の進歩によって当然のようにもたらされてきたのではなく、むしろ事故の積み重ねという負の歴史と、それに対する絶え間ない反省のもとに築かれてきたものなのだ。

 
 例えば、鉄道車両の素材についてである。今日では、丈夫な金属を用いて作られるのが当然だが、戦前までは木造の車両も多かった。これが取って代わられていったのは、技術の発展によって自然とそうなったのではなかった。むしろ頻発する脱線事故の際に、破損した木造車両の破片によって乗客が犠牲になることが多かったため、それを防ぐために戦後、急速に鋼体化が進められていったのだ。
 
 あるいは、他国と比べてもはるかに厳しい基準で徹底した難燃化素材が用いられているのも、トンネル内における痛ましい列車火災事故に対する反省が元になっているという。


 このように、本書が一貫しているのは、「技術決定論的史観」ではなく、いうなれば「事故論的史観」とでもいうようなスタンスである。
 
 鉄道が好きな人はもとより、いやむしろそうでない人に対しても、本書を勧めたい。当然のものとして見なしてきた歴史観が多いに揺さぶられる一冊である。

 東北関東大震災以降、原子力発電所の問題で世の中は騒然としている。そのようなタイミングでこそ、決して技術は万能のものでも、あるいはどこかで一方的に進歩するものでもなく、失敗の蓄積とそれに対する絶え間ない人々の反省のもとに進歩してきたことを忘れずにおきたい。
 

 そして本書が、その続編も含めて素晴らしい著作であるということを記しておくと同時に、願わくばこうした書物の記されることのない、事故のない社会が来ることを願うばかりである。


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2011年03月30日

『ナショナル・アイデンティティの国際比較』田辺俊介(慶應義塾大学出版会)

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「ナショナル・アイデンティティの実証的研究!」

 2011年3月11日に発生した未曽有の震災以降、「日本という国の力を信じている」「いまこそ国が一つになる時だ」といったメッセージを多く目にするようになった。
 その一方で、こんなメッセージを目にすることもある。おおむね先のメッセージには同意しつつ、「でも、できれば”国”と言わないでほしい。そう言われると、在住の外国人からすると排除されてしまったような気持になる。”日本という社会”と言ってくれると嬉しい」というものだ。

 たしかに、今回の震災にしても、あるいはほかの機会にしても、われわれはどこかしらで、国に対する思いや感情を持つことがあるようだ。しかしながら、なんとなく感覚的には理解しているつもりでいて、果たしてこの”国”とは一体何なのか、あるいはそこで覚えている感情とはいかなるものなのか、さらには、それを強くもつものとそうでないものがいるのはなぜなのか、といったことは実証的に明らかにされてこなかった。


 こうした状況を踏まえたうえで、本書はナショナル・アイデンティティの実状について、既存の調査データの2次分析を行うことで、実証的に明らかにしようとしている。これまで、理論的な議論に偏りがちだったこの概念について、その実社会における現状を実証的に明らかにした点において、高い評価に値するものといえる。

 また本書の構成も、十分に説得的なものといえるだろう。

 第一に、これまでの理論的な議論の変遷を丁寧にレビューしながら、ナショナル・アイデンティティの概念の捉え難さ、および本書における定義が明確化されている。

 そして第二に、本書が採用しているのは、国際比較という手法だが、これはナショナル・アイデンティティの現状が、おそらくはそれぞれの国ごとにその背景やコンテクストが異なることが想像される点からすれば、まさに理にかなった手法と言えよう。また、その比較についても、ただ単にいくつかの国の実態を明らかにするだけでなく、互いに関連付けながら適切に結果の解釈がなされている点が高い評価に値する。

 分析対象とする国の選定も本書の目的からして妥当なものである。筆者が明らかにしたいのは、もちろん日本におけるナショナル・アイデンティティの現状だが、それと最も関係の深いといえるアメリカ、後発近代社会という点で共通するドイツ、そして「多文化社会の実験国」ともいえるオーストラリアが取り上げられている。日本におけるナショナル・アイデンティティの現状を理解する上で、適切な文脈化が図られている。

 さらに末尾の11章では、過去の調査結果との対比から、経年変化の可能性についても示唆されている。今後は、さらに分析対象とする国を広げるなど、ますますの研究の進展が期待できよう。

 著者の田辺俊介氏は、実は評者の大学院時代の同期であり、長年来の友人である。そのような人物の著作を、ここで紹介するのにためらわれる部分もないわけではない。

 しかしながら、むしろ本書は、改めて日本という社会そのものの存在が問い直されている今こそ、読むべき一冊だと強く信じ、ここに紹介する次第である。



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