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2011年02月28日

『私の居場所はどこにあるの?』藤本由香里(朝日文庫)

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「今こそ読み返すべき、少女マンガ論の古典として」

 本書は、いまさら改めて紹介するのも戸惑われるほどによく知られた少女マンガ論の名著である。
 個人的な思い出を記せば、1990年代中盤に、私が在籍していた北海道の大学で、女性とメディアに関するシンポジウムが開かれた際、登壇者であった上野千鶴子さんが、少女マンガに関する女性のリアリティを的確に描いた著作として紹介されていたのを思い出す。それからすでに15年ほどが経とうとしているが、今、この著作を取り上げるのは、その後の少女マンガや文化の変遷を捉えるために、あえて古典として読み直す必要を訴えたいからである。


 そのタイトルにも触れながら著者が主張していたのは、「少女マンガの根底に流れているのは、「私の居場所はどこにあるの?」という問い、誰かにそのままの自分を受け入れてほしいという願いである」(P143)ということであり、親密な他者との関係性による自己肯定への希求を満たすために、その2次的な代替物として少女マンガというメディアが発達してきたということであった。
 

 そして、そこでいう親密な他者というのは、もちろん家族である場合も少なくはないが、少女にとっての中心はやはり異性(男性)が占めることになる。いうなれば、「はじめに」において、橋本治の指摘を紹介して述べているように、「少女マンガのモチーフの核心」というのものは「自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に、「そんなキミが好き」だと言われて安心する、つまり男の子からの自己肯定にある」のだという。


 つまり、少女マンガの登場人物の中でも、「ブスでドジでダメだと思っている女の子」に自分を投影しつつ、2次元ゆえに理想化された素敵な「男の子」との関係性に、安心する「居場所」を見出すというわけである。この点において、少女マンガの読者は、まさしくマンガの世界、ないし、そこで描かれた恋愛関係の「当事者」と化していると言える。
 

 だが、近年、少女たちが読んでいるマンガや、あるいは彼女たちの文化を観察していると、どうもここで述べられている主張が当てはまらない事例もみられるのではないだろうか。


 たとえば、やおいやBLと呼ばれる男性の同性愛を描いたマンガが少女たちに人気だという。これらについても、かつては、その同性愛関係のいずれかの男性に少女が自己投影して(いわば「当事者化」して)読み解いているのだ、という解釈が一般的であった。しかし近年では、もう一歩引いた目から、その関係性のバリエーションを楽しむ動きが中心化しているらしい(東園子はこうした動きを「相関図消費」と呼んでいる。詳細は、東浩紀・北田暁大編『思想地図vol.5』(2010、NHK出版)所収の論文を参照のこと)。


 いうなれば、少女たちのマンガを読む立場が、そこで描かれている関係性における「当事者」としての立場から、むしろ一歩引いた「観察者」としての立場に変容しつつあるらしいのだ。


 別な例を取り上げてみると、私自身がフィールドに出向いていた1990年代後半ごろのジャニーズファンの文化で言えば、SMAPの木村拓哉は疑うまでもなく擬似恋愛の対象であった。いうなれば、「あわよくばお付き合いしてほしい異性」であった。しかしながら、近年で言えば、嵐のメンバーは個々人が擬似恋愛の対象というよりも、むしろメンバー5人が全員そろってじゃれあっている姿、その俯瞰図を見ることのほうが楽しいのだという。やはり、擬似恋愛の「当事者」としてファンであるというよりも、関係性の俯瞰図を眺める「観察者」としてファンであることのほうが楽しいのだという。もちろん、こうした動きは、今後さらなるフィールドワークや調査を繰り返していく中で検証を深めていくべきことだとは思う。


 またその中で、仮に少女マンガの読者が「当事者」から「観察者」へと変容を遂げていることが明らかになってきたとしても、そのことは本書の価値を下げることには決してならない。むしろ、本書は貴重な過去の実態を描いた著作として評価すべきであり、その後の変化をこそ、今捉えて行くことが求められているのだ。本書を、古典として再評価すべきだという私の主張の根幹はそこにある。


 いったい、いかなる原因があって、このような少女マンガの変容が起こっているのか。その詳細まで触れている紙幅はないが、おそらくは恋愛に関する価値観が、かつての若者と現在とでは違うのではないかと思う。いわば、(私を含めて)かつての若者が、至上の価値を見出していた恋愛に、今はそれほどの価値が置かれていないのではないだろうか(だが、これももちろん仮説的な見通しに過ぎないので検証は必要である)。


 いずれにせよ、日本社会において、少女マンガを始めるとするポピュラー文化については、十分な歴史的な厚みのある分析があまりなされてこなかった。しかしながら、もし私がここで示唆したような変容が本当に見られるのだとしたら、本書はそうした歴史的変遷を描くための貴重な橋頭保となりうるだろう。

 この点において、過去のポピュラー文化を描いた著作は、これからもっと見直しをすすめて行くべきだし、本書はまさにその代表ともいえる一冊だと思う。


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『漁師の食卓』魚見吉晴(ポプラ社)

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「瀬戸内海の魚と伊予弁を存分に味わえる一冊」

 本書は、夕日が美しいことで知られる愛媛県双海町(現伊予市)で漁師をしながら、季節料理店「魚吉」を経営する著者が、季節ごとの魚の美味しい食べ方を紹介したものである。いわゆるグルメガイドの類いや魚の調理法を紹介した本は巷にあふれている。だが、それらと一線を画しているのは、本書が一貫して著者の語り口調で構成され、なおかつそれが方言(伊予弁)そのままに記されているということである。


 日本列島は海に囲まれ、なおかつ南北に長いため、地域によって好まれる魚の種類もそして調理法も大きく異なる。その中でも本書は、地元の人にしか知られていなかったような魚やその美味しい食べ方がふんだんに盛り込まれ、なおかつ伊予弁で語られることで、現地を訪ねたことがある人ならば、まざまざとその思い出に浸りながら、「味わう」ことができる一冊となっている。

 私ごとで恐縮だが、昨年度まで7年間にわたって愛媛県の私大に勤務していたころは、週末になるたびに魚釣りに出かけ、平日においても夕食の買い出しには必ず魚を買っておいてくれと妻に頼んだのを思い出す。それほどまでに愛媛の魚が美味しかったのだ。

 また「郷に入っては郷に従え」ということわざの通り、現地の魚を最も美味しく味わうには、現地の食べ方に限るということも学んだ。そのことに気づくまでに大分と時間がかかったのを思い出す。


 
 例えば、本書では「ふぐのそっくりさん」(P231)としてカワハギが紹介されている。「ふぐを食べたことがない人にカワハギの刺身や鍋を出して「これはふぐです」というたら、恐らくみんな騙されると思うぜ。・・・旬のカワハギはなかなかのもんぜ。」(P231~233)と記されているとおりの美味である。私もその刺身を頻繁に食べていた。


 当初は、刺身ならばと醤油をべったりとつけて食べていたのだが、これではその上品な味わいに気づくことができていなかった。しかしやがて、愛媛ではポン酢で食べると知り、しまいには自分でポン酢を自作するようにもなって、存分に味わうことができるようになった。


 また、魚の味を表す方言にも独特な言い回しが存在する。カワハギのような白身の魚が好まれる愛媛では、どちらかといえば全国的に好まれる脂の強くのった魚は敬遠されがちであり、その際には「むつこい」と言い表されている。


 例えば、本書でも養殖と天然のウナギを比較して、次のように紹介されている。

「脂、脂というけん、ふだん養殖のウナギを食べよる人は、ものすごいむつこい(脂っこい)ことを想像しよるんじゃない?天然もんにのってくる脂は養殖ものにのってくる脂と違って全然むつこくないんよ。天然の脂はとろけるような甘さを出して、口の中に脂っぽさは残さん」(P55)

 おそらく厳密に言うならば、「脂ののった」と「むつこい」では微妙にニュアンスも違うのだろう。前者はどちらかといえばポジティブな意味合いだが、後者はどちらかというとネガティブな意味合いである。つまり、「むつこい」はあくまでも「むつこい」であって、そのニュアンスが分からない限りは、現地の魚の味を本当の意味で理解したとは言えないのだろう。

 浅薄な知識で専門外の内容ばかり記しても・・・と思われるので、少しだけ自分の専門にもひきつけておこう。
 


 社会学では、よくフィールドワークなどの調査法によって、現場の人々のリアリティを捉えようとする。またその成果を、著作や論文の形にして、世に送り出したりもする。


 だが決して、社会調査は万能ではない。人間には五感と呼ばれる感覚があるが、人々が日々感じているリアリティの全てを捉えきれるものではない。その代表ともいえるのは、本書が取り上げている味覚であろう。写真に写しても、あるいは言葉を尽くしても、なかなか魚の美味しさを読者に伝えられるものではない。


 ましてや、一般的に著作の形にする場合は、広く流通することを想定して、誰もが読みやすい表現や言葉、つまり整った標準語の文体にされてしまう。しかしながら、本書は、あえて方言丸出しの語り口調で一貫して構成されていることで、実物の魚そのものと同じ・・・とまではいかなくとも、かなりの満足感を読者に与えてくれる一冊となっているのである。


 その点では、私はこの本に嫉妬を覚えずにはいられない。フィールドワークは、私も比較的多く使う調査法だが、論文や著作にした場合には、本書ほどに現場のリアリティをうまく表現できている自信がなかなか持てない。もちろん、著作としてのジャンルの違いはあれども、リアリティを表現する手法としても、本書は大変に「美味しい」一冊といえるものと思う。

 私が愛媛を去ってすでに一年がたとうとしているが、本書は、魚と伊予弁が恋しくなったとき、ついつい読み返してしまう一冊であり、また、これほどまでに満腹感を味わせてくれる一冊というのもそうそう存在しないものと思う。


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2011年02月24日

『ソラニン』浅野いにお(小学館)

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「「終わりなき日常」から文化を創造する可能性、あるいは「若者=格差社会論」へのオルタナティブとして」

 本書は、映画化もされた浅野いにおの代表作である。1巻と2巻からなる短い作品だが、今日の若者文化を描いた作品としては、屈指の傑作である。

 ストーリーは、主人公である「東京のどこにでもいるようなOL」(P7)、井上芽衣子のアパートの一室から始まる。芽衣子は、「大学卒業して」「ちょっとブラブラ」(P8)している彼氏、種田成男と同棲中であり、バイトで徹夜明けの彼氏と入れ替えに出勤する。一方の種田は、大学時代の仲間とバンドを結成していて、いつかデビューすることを夢見ているが、やがて社会の波に飲まれていく。そして、夢を断念しようとしたときに「事故」が起こる・・・。

 以降のストーリー紹介はネタバレになってしまうため差し控えるが、全体を通して、とにかく読んでいて切ない作品である。種田の代わりに、芽衣子がボーカルとなってバンドを再結成し、ひたすらに練習に励むシーン、ライブに参加し最後の曲の演奏が終わるシーン・・・などなど、とにかく切ない。個人的な体験で恐縮だが、私はアジアンカンフージェネレーションの名曲『ループ&ループ』を聞きながら、本作のエンディングを涙して読んだ。
 


 切なさのゆえんは、「失われた10年」と呼ばれた1990年代以降、未来の夢も希望も失われた「終わりなき日常」(宮台真司)と呼ばれる日本社会の、その先行きの不透明感の中を、それでも懸命に生きようとする若者たちの姿にある。


 かつて、とりわけ1980年代までの若者文化といえば、ニューメディアの受容や華やかな消費文化の実態など、「時代の最先端」を論じるための格好の対象であった。しかしながら、いまや格差社会やフリーター・ニート問題など、中心的なアジェンダはすっかり移り変わってしまった。


 本作とて、彼氏である種田は大学卒業後も定職につかず彼女の部屋に同棲しており、まわりの仲間たちの社会階層を想像してみても、「格差社会の中で虐げられる若者たち」という読み解きは不可能ではない。


 だが、近年流行のそのような若者論に本作を押し込めてしまうのは、大きな過ちといわざるを得ないだろう。むしろ、格差が拡大し、先行きが不透明化しても、若者文化の創造性それ自体には変わりのないことを本作はまざまざと教えてくれる。やや、引いた目からの解釈になってしまうが、浅野いにおのマンガそれ自体に、そうした創造性が通低しているといってよい(あるいは、アジアンカンフージェネレーションについても、同様のことが言えると思う)。


 『ループ&ループ』の歌詞になぞらえて言うならば、今の若者たち(もちろん、浅野やアジアンカンフージェネレーションもここに含まれる)は、この社会の未来の「最終形のその先を担う世代」にあたる。この社会では夢も希望も失われ、もはや「ペンペン草すらも生えない」ほどに何もなさそうに見える。だがむしろ、そうした社会を生きるという行為そのものを描写することに、浅野は創造性を見出している。いわば、何もかもが失われたかに見える、その現場そのものを描写するということが、何かを生み出す、創造的な営みなのであり、そのことに気づくこと自体がなんとも切なく、それとともにどこか励まされる感じがするのである。 


 本作の紹介として、これ以上、稚拙な筆を走らせるべきではないかもしれない。だが、社会学者としての私の問題関心から、もう一言だけ、述べておきたい。「若者文化は社会のリトマス試験紙」という言い回しがあるように、若者には社会の変化そのものがダイレクトに現れやすい。それゆえに時代時代によって、若者を論じるアジェンダはめまぐるしく移り変わってきた。


 だがそのことは、ともすると若者文化を「落ち着いてきちんと論じること」から遠ざけてきたのではないだろうか。あるいは若者文化を「移ろいやすくて軽薄なもの、真剣に論じるに値しないもの」としてきたのではないだろうか。


 だとするならば、もちろんその時代における中心的なアジェンダはあるだろうが、それだけにとらわれずに、多角的に若者文化を論じる必要がある。今日において、フリーター・ニート問題は看過すべからざる重大な問題だが、それだけにとどまらずに、若者文化の他の可能性を掘り下げる視点があってもいい。


 本作は、私にそうしたオルタナティブな可能性を感じさせてくれた好作でもある。



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『定刻発車―日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?』三戸 祐子(新潮文庫)

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「「あたりまえ」を疑うところから社会を見つめなおす」

 「この列車、ただいま○○駅を1分遅れて発車いたしました。お急ぎのところ、大変ご迷惑をおかけいたしますことをお詫びいたします。」
 これは、ある日の帰宅時に、私が実際に聞いた車内アナウンスである。耳慣れたものとはいえ、この日の内容にばかりは驚きを隠せなかった。  「1分遅れただけで、謝らなければならないものか。仮にこの電車が1分遅れたとして、それでどれだけの人に迷惑がかかるものだろうか」  もちろん、遅れないに越したことはないだろう。しかし、逆に言えばこのアナウンスは、日ごろ、日本の鉄道がほとんどの場合において、“1分”たりとも遅れずに運行しているということを示しているといえよう。

 なぜ日本の鉄道は、これほどまでに正確な運行が可能なのか。誰しもが当たり前のように享受している日常的な事実でありながら、あえて本格的な検証がなされてこなかったこの疑問点に本書は挑んでいる。
 特に高い評価に値するのは、技術的な面だけでなく、社会的な背景にまで踏み込んで検証したという点であろう(ちなみに本書は、第3回フジタ未来経営賞および第27回交通図書賞を受賞している)。

 技術的な面だけで言うならば、遅れが生じ始めたとき、運行するシステムの複雑性を縮減すれば、回復を早めることができる。具体的に言えば、特急や急行などの優等列車の運転を取りやめたり、相互乗り入れを中止したりして、なるべくシンプルな運転パターンにするということである。

 だが、本書がさらに興味深いのは、そもそも鉄道開通以前の江戸期において、日本社会には共有された時間感覚と、それに伴った規則正しい生活パターンがすでに成立していたのではないか、と指摘している点である。いわば、鉄道が開通したことで、標準的な時間感覚と規則正しい生活が広まっていったという通説を否定し、むしろ、鉄道を受容しうる「土壌」がすでにそれ以前の日本社会に存在していたからこそ、今なお正確な運行が保たれているのでないか、という説を展開している。
 事実、鉄道が開通したからといって、どこの社会でも時間に正確になるかといえば、そうではない。よく聞く話だが、日本よりも先に鉄道が発達したヨーロッパ諸国においても、数分程度は遅れのうちに入らないという。あるいは、遅れるのが当然のため、到着する番線もその日によってコロコロと入れ替わるし、駅の案内板には「何分遅れ」かを示すための欄があらかじめ設けられていたりもする。それはそれで、当然のこととなれば、現地の人々には困った様子も見られないものである。

 繰り返せば、こうした事実からも示されるように、鉄道にまつわるテクノロジーの普及によって正確な時間感覚が広まっていったという通説は誤りであり、むしろ、各々の社会に、それぞれに異なった時間感覚が備わっているということなのだろう。

 さて、ではこれからの日本社会はどうなるだろうか、これからのわれわれの時間感覚はどうなっていくのだろうか。具体的な話で恐縮だが、私が日ごろ、通勤で使うJR中央線は、近年よく遅れることで有名である。また、首都圏の鉄道では相互乗り入れをする線区が増えてきて、そのこともまた、各地で遅れやすさの原因ともなっているようだ。
 こうした点と関連してかどうかはわからないが、近年首都圏では、ドアの上部にカラー画面の車内掲示板を備えた車両が増えてきた。他の線区も含めて、遅れが生じたときにはひっきりなしに情報を提供している。
 電車が遅れたとき、われわれが苛立ちを感じるのは、原因および先の見通しの不明さにあるといってよいが、こうした車内掲示板が増えていけば、われわれの苛立ちは解消されるのだろうか。1分遅れただけで、車掌が謝らなくても済むような、ヨーロッパのような社会になるのだろうか。

 あるいは、鉄道と離れてしまうが、近年では時間や場所にとらわれずに利用ができる、ユビキタスな情報メディアの進展も著しい。こうしたメディアの普及が進めば、またわれわれの時間感覚も変化していくのだろうか。それとも、こうしたメディアの普及にもかかわらず、現在のわれわれの時間感覚が「勝って」、むしろそれを時間に正確に使いこなしていくようになるのだろうか(それがどのような使い方かはなかなか想像できないが、例えばツイッターのように、まったく同じ時間を共有することの楽しさに特化したメディアも登場している)。

 いずれにせよ、時間感覚は今日の社会を考える上での一つのホットなテーマであり、本書はこの点について、重要な示唆を与えてくれる一冊であるといって間違いない。



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