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2009年09月17日

『天使の蝶』プリーモ・レーヴィ著、関口英子訳(光文社文庫)

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サナダムシが歌うダンテ

 このところ、アウシュヴィッツ体験者の文章ばかり読んでいた。フランクル『夜と霧』、エリ・ヴィーゼル『夜』、プリーモ・レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』『溺れるものと救われるもの』といったテクストだ。

 それぞれのテクストには書き手の個性が刻印されている。『夜と霧』のフランクルはウィーン大学の大インテリ。記述はきわめて冷静であり、こういう言い方は誤解を生むかもしれないが、アウシュヴィッツという「異文化」を体験した人間の心理学的なレポートを読んでいるような気がする。『夜と霧』の原題はそのニュアンスをよく伝える。『ある心理学者の経験した強制収容所』というのだ。

 一方、『夜』を特徴づけるのは、ヴィーゼルの若さだ。彼が強制収容所へ送られたのはまだ子どものときであった。子どもであったヴィーゼルにとって、不正はただ彼の「外部」にある。だから、この作品には「怒り」が横溢することになる。

 これら2つのテクストに比べたとき、レーヴィのテクストに特徴的なのは、そこに迷いと苦渋と無力感がにじんでいることだ。『アウシュヴィッツは終わらない』の原題を「これが人間か?」という。しかし、それは他者を一方的に告発するような「怒り」の修辞疑問文ではない。レーヴィは、アウシュヴィッツから帰還した自分は他人を押しのけて生き延びたにすぎないのではないかと自問するような人間であった。彼の語りはいつも屈折していて、独特のくぐもった声で語る。

 今回取り上げる『天使の蝶』は、プリーモ・レーヴィのSF的短篇集である。これは純然たるフィクションであって、強制収容所の話が出てくるわけではない。ユーモアのある作品もいくつかある。しかし、この作品には、ノンフィクションでは語らなかったし、語ることができなかった、レーヴィの「こころ」の風景が見え隠れしている。

 たとえば、アウシュヴィッツに収容された人びとが人間以下の存在として扱われたように、この『天使の蝶』においても、人間が人間以下の存在として描かれるという陰鬱なモチーフが繰り返されているということがある。

 表題作の「天使の蝶」がそのひとつだ。芋虫が美しい蝶になるのと同様に、人間が十分に長生きすることができた暁には天使に成長する存在ではないのか。そんな仮説を立てた科学者が研究の結果発見したのは、人間が変態をとげたときの姿とは天使などとは似ても似つかぬハゲタカのごとき醜い存在であった、というアイロニカルな短篇である。

 「人間の友」という作品もある。そこでは、「人間の友」がこんなつぶやきを漏らす。

僕はあなたのもとに到達した。何年ものあいだ、僕はあなたを清く崇拝し、あなたという泉から己の命も知識も汲みあげてきた。僕は己の存在を明かすべきではなかったのだ。これこそ、僕らの哀しき運命。姿を見せたとたん、有害とみなされる。(中略)あなたの怒りは正当なものだが、僕の大胆さも、不徳ではあるものの、おなじく正当なのだ。それを知らぬものなどいようか。僕らの無言の言葉は、あなたの耳には届かない。人間という不遜な半身よ。僕らのような、眼も耳も持たぬ民は、あなたがたの世界では恩恵を受けることもできないのか。

「姿を見せたとたん、有害とみなされ」たとか、「あなたがたの世界では恩恵を受けることもできない」というようなところを読めば、これはユダヤ人の話だと思うだろう。しかし、この「人間の友」の正体とは、じつはユダヤ人ではなく、サナダムシ、あの「眼も耳も持たない」寄生虫なのである。これはユダヤ人がナチス時代に「ヨーロッパの寄生虫」と呼ばれたという歴史的事実に対応するものだろう。

 この短篇はじつに奇っ怪な内容で、サナダムシの表皮細胞をよくよく観察してみたら、その細胞は詩になっていたというお話である。その言語メッセージを解読したら、宿主と寄生するみずからの関係を歌っているのがわかったとか(その歌が上に引用したところ)、雌雄同体であるサナダムシの愛の言葉がそこに解読できたとか、そんなことが書いてあるだけで、ストーリーらしきものはほとんどない。それなのにこの短篇が妙に筆者にひっかかるのは、レーヴィのあるエピソードを思い出すからだ。

 それは、『アウシュヴィッツは終わらない』のなかで、レーヴィが囚人仲間のジャンにダンテの『神曲』を聞かせてあげるというくだりである。レーヴィはイタリア人、『神曲』もイタリア語で書かれているが、ジャンはイタリア語ができない。レーヴィは記憶をたどって思い起こしたダンテの詩行の一節を、つたないフランス語に訳して聞かせる。
 

 きみたちは自分の生まれを思え。
 けだもののごとく生きるのではなく、
 徳と知を求めるため、生をうけたのだ。

レーヴィは「明日はどちらかが死ぬかもしれない。あるいはもう会えないかもしれない。だから彼に語り、説明しなければ、中世という時代を。このように、予想もできないような、必然的で人間的な時代錯誤を犯させる時代を」と書いている。悲惨な状況にあっても、その悲惨な状況はなんであるかについて認識することが、人間にとっての最後の救いになることを教えてくれるエピソードだ。

 筆者には、アウシュヴィッツのなかでダンテを語るレーヴィの姿とは、「人間の友」のなかで韻文で語るサナダムシの姿に重なって見えるし、サナダムシが散文でなく韻文で語る設定になっている理由もそのへんにあるように思うのである。ダンテのエピソードというのは、晩年に発表された『溺れる者と救われるもの』でも繰り返し書いているほどに、レーヴィ個人にとっても大事な思い出であったはずだ。そのレーヴィが、この感動的なエピソードすらも、サナダムシの物語にまで貶めてしまっていることに、筆者は驚きを覚えるのである。しかも、この作品において、サナダムシは、じつにあっけなく駆除されてしまう。そこには同情的な書きぶりも、宿主への怒りも描き込まれていない。そのあっけなさに、目を口も存在しないサナダムシのごとき存在として生きるほかなかったレーヴィの無力感を読み込んでしまう。

 もう一つ、「転換剤」という短篇も紹介しておこう。痛みを快楽に転換する薬を開発した科学者のおはなしである。この短篇で圧倒的なディテールでもって描かれるのは、転換剤を投与された実験用の犬の倒錯した行為である。肉が嫌いになり、泥や小石を飲み込み、新聞紙などを好んで食べるようになる。メス犬を見ると怯え、メンドリやメス猫に求愛する。メス猫が怒って、犬の目に飛びかかると、抵抗するどころか尻尾をふってしまう。喉が乾いても水を飲もうとはせず、しかしいったん水を飲み始めると胃が破裂するほど飲んでしまう。熱くたぎったストーブを舌で舐めたりもする。

 みずからに転換剤を投与した科学者も、実験犬のような行為を止めることができない。無意識のうちに身体じゅうを掻きむしり、掻くとなると、さながら犬のように容赦なく、身体に穴をあける気かと思うほど、炎症を起こしている場所を集中的に掻く。そのために、両手や顔はかさぶただらけだったという。転換剤のせいで、感覚のすべてが転倒し、心地よいことは気持ち悪いことであり、気持ち悪いことであったものが心地よく感じられる。科学者は「甘い」と言うべきところを「苦い」と言ったり、「熱い」を「寒い」と言うようになったりもする。すると――

たいてい、すぐに自分で気づいて訂正するのですが、言葉を選ぶときに彼が一瞬ためらうのを、わたしは見逃しませんでした。すると、わたしが気づいていることに気づいた彼の目に、苛立ちと恥じらいの色が浮かぶのです。そんな彼の目を見ると、たちまち心が痛みました。以前に犠牲になった雑種犬のことを思い出しましたね。倒錯した行動をとっているところをわたしに見られると、耳を垂れてしゃがみこんでいた犬の目にそっくりだったのです。

痛ましいというほかない。この科学者の「恥じらい」の目つきとは、人間以下の存在に貶められ、人としての尊厳をみずから放棄して、実験用の犬同然に成り下がってしまったことへの深い恥じらいの目つきだ。

 レーヴィは、語り手に「痛みをとりのぞくことはできない。…痛みこそ、われらが番人なのだから」と語らせ、シェイクスピア『マクベス』の冒頭の「良いは悪いで、悪いは良い」をとってつけたように引用して話をまとめている。しかし、実験犬は路面電車の音に吸い寄せられるようにして、頭を低くして路面電車へ突っ込んでいき、科学者もまたみずから命を絶つ。アウシュヴィッツでは高圧電流が流れる鉄条網へと身を投げる者が多数いたという。レーヴィはあるいは路面電車へ突っ込んでいった実験犬の姿にそのような囚人仲間たちの後姿を思い浮かべていたのではないか。そして、動物のごとき存在に成り下がってしまうよりは死を選んだ仲間たちをレーヴィはどこか羨望の目で眺めていたからこそ、レーヴィは「痛みこそ、われらが番人」と自分に言って聞かせなければならなかったのではないか。

 『天使の蝶』が発表されたのは1966年。その後もレーヴィは生き延びて本を何冊も書いた。しかし、1987年、彼はアウシュヴィッツから生還して42年を経て自死した。自殺の理由はあきらかではない。



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