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2009年06月08日

『たいした問題じゃないが----イギリス・コラム傑作選』行方昭夫編訳(岩波書店)

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プディングの味は食べてみないとわからない

 1980年代以前の大学受験生たちなら、原仙作『英文標準問題精講』(旺文社)という英語参考書の名前ぐらいは知っているはずだ。かくいう筆者もこの本で勉強した。

 この「原仙」というのはけっこう古い本で、初版は1933年(昭和8年)。やがて名著となる参考書ではあったが、執筆当時、20台半ばにすぎなかった原仙作が高い志からこの本を書いたというふうには思わない。というのは、この本がやっているのは要するに種本探しだからである。原仙作は、明治、大正の入試問題にどういう作家からの英文が出題されているかを突き止めたうえで、その作家の文章を載せ、その読解法を解説したのである。つまり、この本は、「ここから試験が出ますよ」というような、あからさまに実用的な参考書だったのである。

 そこで取り上げられている文章は、「原仙」の改訂のたびにいろいろと入れ替えがあったらしいが、文学的な香りのするエッセイが多かったことでは一貫している。書き手でいえば、ラッセルやサマセット・モーム、そのほかA.G.ガードナー、E.V.ルーカス、ロバート・リンド、A.A.ミルンといった名エッセイストとして知られたイギリス人たちだ。

 チャールズ・ラムの『エリア随筆』やギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』をはじめとして、イギリス文学にはエッセイ文学の良い伝統がある。かつては福原麟太郎など多くの英文学者が滋味あふれるイングリッシュ・エッセイの魅力を倦むことなく語ったものだが、穏和であっても刺激には乏しいかもしれないイギリスのエッセイは前時代的と思われているのだろうか、最近では注目が集まらない。エッセイとか随筆とかいう言葉を避けて「コラム」という名称を採用しているのも、ボブ・グリーンやマイク・ロイコといったアメリカ系のコラムニストのほうが、現代読者には親しみがあると思ったからであろうか。

 英語の入試問題に、こういうエッセイストの文章がさかんに載ったのには理由があった。長すぎない分量で、話にまとまりがあり、しかも読んで楽しいものというと、小説などよりも、エッセイのような部分取りがしやすい文章のほうが都合が良いからだ。そのことはテスト問題を作ったことがある人、あるいは教科書などを作った人なら理解してもらえると思う。たとえば、試みに、ガードナーの「怠惰について」という文章の冒頭の一段落を引用してみよう。

自分が怠惰な人間なのではないかという、嬉しくない疑惑を以前から抱いていた。一人でそう思っていた。たまたま会話で人に言うことがあっても、信じてもらおうとは思っていない。実際、私は怠惰なのです、と人に言うとすれば、そういう噂が出るのを防ぐためである。防衛には攻撃が一番だ。私は自分を攻撃することで自分を防衛し、罪を正直に自認することで、無罪の評決を得ようとする。自分の武器を棄てて、人の武装を解除するのだ。「ああそう、君は怠惰な人なんだね。うん、結構じゃないか」と人が言うのを期待する。そしてもしそう言われなくても、そう思っているのだろうと信じて安心するのだ。

 「無罪の評決を得ようとする」だの「人の武装を解除するのだ」というのは、英語がどうなっているのかわからないけれど、こういう一種の比喩的な表現は英文解釈などでつまずきそうなところだし、このぐらいの分量なら、元の英文を出して、「全訳せよ」という問題を作っても良さそうだ(ちなみに、英文和訳問題は、最近はテスティングの専門家には評判が悪いから、この種の問題は大学入試からどんどん駆逐されている)。

 ただ、入試問題としてはいいかもしれないが、率直に言ってこれだけ読んでも面白くもなんともないのではあるまいか。これだけを読んだなら、もっともらしくて退屈な人生訓が書いてある、という印象しか持たないだろう。そして、この部分だけを読んだ受験生たちは、ガードナーという人はしかつめらしい道徳家のように誤解してしまうにちがいない。

 受験だの教科書だのに載ったとたんに文学作品がつまらなくなるのはなぜなのか。いろいろと理由はあるけれど、文脈を切り離されて、部分だけを見せられるとことにも原因があるのだと思う。その昔、学習参考書にThe proof of the pudding is in the eating.「食べてみないとプディングの味はわからない」という諺が載っていた。上のガードナーの文章についても、ちゃんと全部食べてみないとこのエッセイの深々とした味わいはわからない。

 では、上のガードナーの文章とはどういうものであるのか。少し詳しくみてみよう。

 ガードナーは今朝(このコラムを書いている日の朝)、いつもより早く起きた。季節は緑の美しい五月。彼は「五月の朝のさわやかな雰囲気をフリート街に伝え、ごみごみした街路をヒバリの囀りで満たし、ブナの森の力で緑化しようと意気込」み、野外で原稿を書こうとする。まず「自分の中に太陽をたっぷり取りこむ必要がある」ので、ガードナーは横になって、太陽をいっぱいに浴びながら、雲がのどかに流れて行くのを眺めた。「大きい怠惰な雲は、巨大な羊毛の塊が一つの星から別の星にふんわりと移動して行くようだ」。怠惰な雲とは、ガードナーその人の姿でもあろう。

 さらに、彼には、そよ風の囁き、森の息吹、ハチのブーンという音、ヒバリの歌声、遠い畑のトラクターのうなり、牧羊犬が吠える声といったものも聞こえてくる。「相変わらず横になったまま、見事な雲を眺めつつ、こういう音のすべてを聞いた。見るもの、聞くもの、すべてがどこか夢のようで、彼はいつしか夢の世界へと誘われた…」。

 しばらくしてガードナーは目覚める。もう記事を書くには遅すぎる時間だと一瞬思ったものの、趣向を変えて、果樹園に行ってみようと思いつく。

書くのに一番いい場所は果樹園だ。桜の木の下に座れば、花びらが夏の雪のように足元に降ってくるし、ミツバチが耳元で飛び交い、その声で労働の厳しさを教えてくれる。そうだ。ミツバチの巣箱のそばに行こう。ミツバチの熱意、任務への献身振りを見て、何かを学ぶのだ。ミツバチはふわり浮かんだ雲を眺めて、横たわってなどいない。彼らには、ロングフェローの言う通り、「人生は真実であり、人生は真面目」なのだ。彼らは常に「起き出して頑張る」のだ。ミツバチの中には、怠けている詐欺師の雄バチがいるのは、よく指摘される通りだ。(中略)しかし、こういう怠惰な奴らを、彼(=ガードナー)は無視する。桜の木の下で、働きバチのように孜々として働くのだ。

 むろん、ガードナーは、このあと、今度は蜂の巣箱を観察することに夢中になるがあまり、エッセイを書くことなど、すっかりどうでもよくなってしまう。早く「起き出して」頑張るはずだったガードナーは、孜々として働く働きバチであるよりは、どうやら詐欺師の雄バチに近いらしい。このエッセイの末尾近くで著者は言う、「かくして五月礼賛の記事は全く書かれずじまい」になってしまった、と。

 これはつまり、「怠惰な」人間である私(=ガードナー)が、いかにして、「五月礼賛の記事を書き損ねたか」を綴ったエッセイなのである。しかし、言うまでもなく、そういう形式を通して、彼は五月礼賛の記事を書いているのである。このエッセイはギリシア・ローマ時代から存在する田園詩の伝統にあるのだ。「大きくて怠惰な雲」がゆっくりと空を流れていき、それをぼんやり見つめているガードナーの耳には、森の声や鳥の声が聞こえてくる。なんと、ゆったりとして、ぼかぽかしていて、眠気を誘う季節であることだろう! その一方で、五月は、ミツバチたちが忙しく働く活動の季節でもあり、その生態を観察することもこの季節にだけ人間に許された幸福な愉しみなのだ。だとするならば、文章を書くという義務を放棄して怠惰になることも許されるではないか、そう著者は言っているのである。ガードナーの冒頭の一節は、だから、道徳の話ではなくて、美しい季節を賞賛するための、手の込んだ助走だったのだ。

 文学的な文章が入試から排除されはじめて久しい。それと一緒にすぐれたエッセイストたちの文章も忘却の彼方にあったように思う。彼らはいまやっと、入試や受験参考書の世界から、もともとそこにあったところの、一般の読書人の世界に戻ってきたのである。こういうエッセイ集を出してみようと思った訳者、編集者の目のつけどころがいい。


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