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2009年05月11日

『東大駒場学派物語』小谷野敦著(新書館)

東大駒場学派物語 →bookwebで購入

もてない学者

 小谷野敦は毀誉褒貶の激しい人である。この本は、小谷野がその大学院生活を送った東京大学大学院比較文学比較文化、通称、「東大駒場学派」(筆者には、「東大比文」の名称のほうがなじみ深い)の歴史を語ったものだが、この大学院に所属した人たちのたくさんのゴシップが散りばめられている。この本を読んで、傷ついたり、腹を立てたり、顔をしかめたりする人たちもいるだろう。小谷野さん(と「さん」付けにしたのは、小谷野さんを筆者は直接に知っているからである)は、この本を書くことで、また敵を増やしてしまったのではないかな、と思った。

 「あとがき」にはこんなことも書いてある。「駒場学派」出身者で、著書の数で最も多いのは四方田犬彦で、(小谷野の数え方では)合計54冊、2位はアメリカ研究の亀井俊介の36冊、そして3位は本書で35冊目を書いたことになる自分であるが、これほどの著書があり、「学部から生え抜きの東大で、博士号までとって」いるのに、「私大の教授にさえなれない」。「学問としては正統だが社会的地位において異端に追いやられ」ているのが自分である、と。普通の学者さんなら自分のほうからこんなことをあけすけに書くこともないと思う。ほかの人から「彼は不遇な人だ」と言ってもらうのをじっと待つのが一般の流儀である。

 しかし、小谷野の真骨頂はまさに普通の人だったら言わないようなことを書いてしまうことにある。それに、「普通の人だったら言わないようなこと」を書いたり言ったりする、というのは、どうやら、東大駒場学派のひとつの学統であるようなのだ。

 そもそもが、東大比文の初代主任となった島田謹二という人が、伝説的な人物であった。出版界では『ロシヤにおける広瀬武夫』『アメリカにおける秋山真之』で知られる人だが、「学者としては、個性豊か、ときに『わがまま』」であったという。晩年、90近くになってからも、2時間にわたってエネルギッシュに語り続け、「皆さん、ふた言目には、九十近い、九十近いとおっしゃるが、九十になったら書いちゃいけないんですか。私は、まだ、書きたいです!」と叫ぶという精力絶倫ぶりであった。島田謹二の女癖の悪さも相当だったという。

 島田もそうであったが、東大駒場学派は、芳賀徹、平川祐弘、小堀桂一郎、亀井俊介といったマスコミで活躍する学者を数多く輩出した。東大駒場学派の黄金時代の立役者である彼ら4人のうち、なんといっても個性的なのは平川と芳賀だ。

 平川は、ダンテ『神曲』の翻訳や、マテオ・リッチ伝、ハーン論や漱石論でも知られ、最近は『源氏物語』の翻訳者であるアーサー・ウェイリーの評伝を発表したことでも知られる文学研究者であるが、はなはだ気性の激しい人でもあって、学生に電話を掛けて三時間お説教するとか、学生が発表するのを、背中を向けて黙って聞いていて、終わると「君はバカだね」と言ったというような噂もあったという。自著についての批判的な書評に対して過剰に反応する学者は多いが、平川の場合はとくにそれが顕著で、反論のなかで、怒りのあまり、「まだ教職にも就いていないような人になぜ頼んだかと思った」などと、個人攻撃にも似た、じつに大人げないことを書いたりする。留学時代に知り合った外国人女性アニーの思い出を語るにさいし、平川は、「『育ちの良い人は国を越えて仲良くなる』とアニーは言った」と書き留めているという。言ったのはアニーかもしれないが、それをわざわざ書き留めているのは平川である。こういうことも普通の学者さんはあんまり書かないのではないかと思う。

 一方、芳賀徹は『絵画の領分』『与謝蕪村の小さな世界』『平賀源内』といった著作のある人。背がすらりとして闊達かつ都会的な洒落っ気のある人で、筆者もお目にかかったことがある。その芳賀についても、「比較の人はみんな美人だよ。頭の良さは顔の良さとある程度比例するんだ」と言ったとか、出版記念会では、宇都宮大に勤めるさる女性学者に「まだ結婚しないの!?  ユーウツの宇都宮!」などと駄洒落のセクハラ野次を飛ばしたとか、顰蹙発言のいくつかが書き留められている。

 「比較の人はみんな美人だよ」という芳賀の言葉だが、この本には、誰それは美人である、とか、「手の切れるような美人」であるとか、女性の学者さんの容貌に言及する箇所が、異様なほど多い。美人と名指しされなかった人だけでなく美人と名指しされた人にとっても迷惑な話であるにちがいない。ただ、こういう「美少女」好みは駒場学派の初代主任である島田謹二からの伝統であると小谷野は言う。

「女好き」の中には、その容色は愛でても才能を愛でない人というのがいる。対して、駒場学派の女好きは、才色兼備を愛でる傾向があるということだ。もっとも、私がこんなことを書くと、自己の好みを学派のせいにするように見えるだろうが、そうなのである。

 ゴシップでもって語る歴史にこの手のデフォルメは普通であるが、そんなふうにまとめてもらっては困ると思う「駒場学派」メンバーもやはり多いだろう。それでは、「女好き」であること以外の(!)、この学派の特徴とは何か。英文科や仏文科のような各国文学科とはいったい何が違っていたのか。

 東大駒場学派の一般的なイメージとしては、右翼、保守派である。そのイメージは、平川、芳賀、小堀らが「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーであり、保守派論客として活躍してきたという事情と深く関わっている。また彼らは概して、フェミニズム嫌いであり、学問的には批評理論嫌いである。ただし、そのぶん、文学理論を振り回さず、平易な文章を書くことを尊び、また、各国文学の研究者の一部に見られるような、一生涯一人の作家のみを追いかけるというような「狭さ」から解放されている、という美質も備えているように思う。マスコミで活躍する学者が数多くここから輩出されたことも、そのこととは無関係ではない。ここは小谷野の言葉をそのまま引用しよう。

たとえば、俳人として知られた故平井照敏、夏石番矢がいる。ロシヤ文学者として知られた故池田健太郎、川端香男里がいる。英国文化の故小野二郎がいる。哲学の故市川浩、科学史の村上陽一郎や科学論の金森修、ファンタジー研究の井村君江、井辻朱美、脇明子がおり、教育論の子安美知子、ギリシャやフランスの詩の沓掛良彦がおり、デリダの訳者だった故足立和浩や、ドイツ思想の三島憲一、表象文化論の小林康夫、映画批評の四方田犬彦、元ポーランド文学の西成彦、作家で論理学の三浦俊彦、女性文化史の佐伯順子もいる。

 この一節には、すぐれた先輩、後輩をもったことについての誇らしさのようなものがにじみ出ているが、じっさい、まことに綺羅星のごとき才人たちの集まりだと言わねばならない。さらに目を見張るべきなのは、その個性の多種多様ぶりである。国文、英文、仏文、独文、露文というふうに言語別に構成されているのが日本の大学の文学文化研究の伝統である。「比較文学」という学問は、そのどれにも属さないし、裏を返せば、そのどれにも少しずつ属している。駒場学派に所属した人たちの学部時代の専攻も、仏文、英文、独文、哲学、というふうにまちまちだ。そのことがこの学科出身者の就職を難しくしたとも言えるし、学問の方法論自体が制度化されていないために、ときに放恣な「とんでも論文」のようなものも生まれた。しかし、比較文学という学問としての新しさゆえに、ひとりひとりがみずから手探りで学問分野を切り開くことにもなったのだろうと思うし(たとえ、一時期の駒場学派に「日本をやれ」という抑圧があったとしても)、芳賀、平川のようなカリスマが生まれたのも、方法論的、テーマ的混沌のなかで、ある一定の方向へ導く存在が求められたからということも言えるのかもしれない。

 小谷野敦のような異才が生まれたのも、この学統のおかげであったかもしれない。彼自身、「私は遂に比較の天皇崇拝にはついていけなかったが(中略)、もし英文科の院などに行っていたら、異端になればいいほうで、深い挫折感を抱いていたかもしれない」と述べている。

 小谷野は、中沢新一事件を機に東大を辞めた西部邁について触れて、こんなことを書いている。「西部邁先生が東大を辞めて盛んに東大批判をしていた時に、私は、先生の中に、駒場に対するエロティックな感情、いわば片思いの相手に振られたようなそれがあることに気づいた。そうでなければ、駒場の状態がどうであっても、自分さえ良ければいい、と思うだろう」。

 西部をそう評する小谷野は、同時に自分のことをも語っているのだ。東京大学が片思いの対象になるというのは、つまり、東大という大学がジェンダー化されて意識されているということだ。恩師に当たる人たちの、あまり名誉になるとは思われないエピソードを書き連ねたり、業績があまりないくせに東大教授におさまっている人に対して厳しい言葉を投げかけるのは、小谷野の東大に対する単純な恨みつらみからではない。それは片思いのなせるわざなのだ。『東大駒場学派物語』は、「もてない男」ならぬ、「もてない学者」の愛憎半ばする「片思いの記」なのである。


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