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2009年03月25日

『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール著、大浦康介訳(筑摩書房)

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<流><忘>○」

 原題は「読んでいない本についていかに語るか」。筑摩書房(あるいは訳者?)はこの原題に「堂々と」という副詞を付け加えた。3文字の追加が劇的な効果を生んでいる。編集者も自信があったのだろう、表紙カヴァーの「堂々と」の文字だけ赤くなっている。たしかに、うまい。じっさい、筆者もまたこの題名につられて買ってしまった。

 帯もうまい----という言い方はしかし、すこし変かもしれなくて、というのは、裏表紙にかかっている帯に印刷されているのは本書の目次そのままで、目次を帯の文章に使うのは出版界ではべつに珍しいことではないからだ。しかし、この本にかぎって、帯に目次をそのまま持ってきたのには意味がある。

I 未読の諸段階
 1 ぜんぜん読んだことのない本
 2 ざっと読んだことがある本
 3 人から聞いたことがある本
 4 読んだことはあるが忘れてしまった本
(中略)
III  心がまえ
 1 気後れしない
 2 自分の考えを押しつける
 3 本をでっち上げる
 4 自分自身について語る

 この帯は立派なキャッチコピーになっているうえ、この帯を読むだけで、もう読んだ気になってしまう。「読んでいない本について堂々と語る」ための本の帯として、これほど親切な内容紹介もないだろう。

  「読んだ」ということにもいろいろなレベルがあるように(何度も読んだ、ざっと読んだ、精読した、というように)、バイヤールは、「読んだことがない」ということにもいろんなレベルがあるのだという。なるほど、私たちは「読んだことがない」と一口に言うけれども、ぜんぜん読んだことがない本もあれば、途中で挫折してしまった本もある。多くの人が論ずるものだから、もうすっかり自分でも読んだ気になっている水村美苗の『日本語が滅びるとき』のような本もある。また、筆者は、英米文学についての研究論文を読む機会が多いが、論じられている作品はたしかに昔読んだはずなのに、その具体的なテキストの細部を記憶していないことに唖然とすることがある。そういう場合、その本を自分が「読んだ」と言っていいのかどうかはなはだ不安になる。

 「読んだ」「読んでいない」というのは、だから、はっきりと二分されるものではない。それに、そもそも本というものは、ある均質な読者空間をめがけて生産されるものだから、題名や著者名などから内容はおおよそ推察できるものだし、広告や他人からの噂話などを耳にしていれば、読んでいない本について公然と語ることはだれにもできることなのである。さきに引用した帯だけをもとに書評を書くことだって十分可能だろう。私たち編集者は、読んでいない本について、あれはいい、これはダメだと恥ずかしげもなく断言したりする。『ベオウルフ』からヴァージニア・ウルフまでの主要な英文学作品をすべて読んでいるわけでもないのに、英文学史を講じる英文学者もいる。バイヤールによれば、気後れなどはまったく必要はないことになる。

  「本について語る」こととはつまり批評のことである。しかし、本について語ることで、私たちはいったい何を語っているのか。小林秀雄はたしか「批評とは己の夢を(懐疑的に)語ることである」と書いたのではなかったのか。だとするならば、バイヤールの言うように、本について語りながら、「自分の考えを押しつけ」たり「自分自身について語ったり」するのも全く「アリ」である。部分的にしか読んでいない本ならば、その部分についてのみ熱く語るだけでも、「あの人はそんなところに着目したのか」と感心してもらえるかもしれない。あるいは、まったく読んでいなくても、その本をなぜ手にとったか、どういうところに惹かれたのかを語るだけでも、本について語ったことになる。

 本書には、「本を読んでいない」ことについて言及する小説作品(英文学者にはおなじみのデイヴィッド・ロッジの紹介する「ヒューミリエーション・ゲーム」もむろん出てくる)や作家たちのエピソードが紹介されていて(夏目漱石の『我輩は猫である』やら『草枕』なども引用されている)、本を読んでもいないのに堂々とコメントする行為が普遍的であることも例証される。プルーストを1巻しか読んでいなかったヴァレリーなど、常日頃から本をほとんど読まないことを口外して憚らなかったし、むしろ「自分が本を読まないことをひとつの理論にまで仕立て上げた」という。なるほど、バイヤールが指摘するように、ヴァレリーが作り出したヒーローであるテスト氏のアパートには本が置いてなかった。

 バイヤールはさらに議論を進めて、「読んでいなくても語ることの効用」があるのだと説く。本は読めば読むほど、文章は読むものであって書くものではないという意識を読者に植え付け、読者を身動きのとれない状態にしてしまうという。そういう一面があることはたしかに事実で、本は読めば読むほど自分の無知と無能力を思い知らされることがしばしばだ。読書で忙しくて論文を生産しない、あるいは生産できない学者さんはいくらでもいる。

 しかし、「読んでいない本について語ること」は正真正銘の「創造活動」であって、学生たちに学校で本の読み方や本について語る方法について教えるのに、読んでいない本について語る方法を教えないのは奇妙なことではないかとバイヤールが真面目に語っているのはどうだろうか。筆者はこの本を一種の洒落の本だと思って読み始めたのだが、どうやらバイヤールはかなり本気で「非読」の可能性を信じているようなのだ。この本は、見かけ以上に、まじめな読書論、読者論なのである。

 最近は下は小学校から上は研究者にいたるまで何かについて意見をまとめて発表するのが流行であり義務である。小学校では、本を宣伝するための「帯」を書かせる活動をやらせているし、研究者はpublishすることがなによりも大事な仕事になっている。「創造」が大事なのだ。しかし、そんな「創造」よりも、知識を無駄にため込んでいるような「偉大なる暗闇」的な存在のほうが、筆者には、「発信型」(なんという無残な言葉だろう)の時代にはかえって尊いような気がしてしまう。バイヤールが創造的であることは大事なことだ、と大真面目に言っているのを読むと、みんなが他人の文章をちゃんと読まずにどんどん「創造」しちゃうから、つまらない読み物が増えてしまうんじゃないんですか、とこちらも真面目に反応してしまう。

 本を読んでいないといけませんよ、というような教養主義的読書観に反発する気持ちはわからないでもないが、そんなに振り子を逆のほうに振らなくてもいいのに、と思う。むしろ、この本で楽しいのは、たとえば、読んでいない本について作者自身の前でコメントする羽目になったら、細部に入らず、とにかく褒めることが大事である、なぜならば「作家がもっぱら望んでいるのは、作品が気に入ったと、できるだけあいまいな表現でいってもらうことである」というようなコメントをしているところで、このぐらいの肩の力の抜け方というのか、エスプリに満ちた書きぶりのほうが、読者がこの本の題名から想像するものに近いのではないだろうか。

 バイヤールはこの本で固有名詞を挙げている本について、<未>(ぜんぜん読んだことがない本)、<流>(ざっと読んだことがある本)、<聞>(人から聞いたことがある本>、<忘>(読んだが忘れてしまった本)という4つの記号を付したうえで、とても良いと思った本に◎、良いと思った本に○、ダメな本に×、ぜんぜんダメな本に××の注をつけている。ジョイスの『ユリシーズ』に「<聞>◎」、アリストテレスの『詩学』に「<未>×」とあるのはたいへん納得のゆく評価である。この記号を丁寧に見ていくと、じっさいには存在しない小説なのに、「<未>◎」などという記号がついているのを発見することができる。読んでいなくても面白いとか面白くないとかコメントすることができる、というバイヤールの本書の主張がこんなところにも出ていて、くすりと笑った。ちなみに、本書をじっさいに読むまでの筆者の評価も「<未>◎」。



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2009年03月06日

『江利子と絶対』本谷有希子著(講談社文庫)

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若いということは偉大なことなので

 本谷有希子。1979年生まれ、と聞いてめまいがしそうになった。若い。自分もいまの本谷と同じ年の頃、若いねえ、と言われて、若いのは俺のせいじゃないわい、と内心イラッとしたものだ。だから、若いなあ、なんて失礼な言い草なんだけど、つい、若いなあ、と言いたくなる。

 本谷有希子の名を知ったのは、映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の原作者としてであった。映画がおもしろかったから原作も読んでみた。この作品は姉妹の壮絶なバトルを描いた小説だったが、闘争の末の、ぺんぺん草も生えないような、絶望の荒野の、いっそすがすがしい風情が、非常に新鮮に感じられた。

 この人、自分好みの作家かもしれないと思って、デビュー作『江利子と絶対』も読んでみた。これもおもしろい。それなら、というので、『生きてるだけで、愛。』って、おまえはモーニング娘。か、と思うようなタイトルの題名の本を読み、少しあざとい小説だなと思いながら(葛飾北斎のエピソードはやりすぎだ)、つづいて『ぜつぼう』『乱暴と待機』まで読んでしまった。なにはともあれ、筆者は本谷が好きになったのである。

 どれも読ませてくれる小説だったが、3つの短篇が入った『江利子と絶対』の表題作「江利子と絶対」がとくに好きだ。

 江利子というのは引きこもりの少女である。高校生の頃には、半透明のゴミ袋をかぶって、学校の屋上から飛び降りるというような、壮絶な自殺未遂をしたこともある。半透明のゴミ袋をかぶったのは、死体処理が楽なように、という配慮から。なかなかの娘だ。いまは田舎から上京し、姉と2人で暮らしている。

 ある日のこと、家の近くの電車が横転し、通勤客が多数亡くなるという大惨事のニュースを聞いて、突如、江利子は「前向きになる」と誓ったのだった。「ちゃんと真面目に働いたり学校行ってる人達がああやって死んで、部屋で何もせずに引きこもってる自分が生き残ってしまってすごく申し訳ない気分になった」というのだ。

 若いということは偉大なことなので、傷つきやすい若者はいつも、突如として、前向きになるものである。ライ麦畑で遊んでいる子どもがクレージーな崖から落ちないように見張りをするような人間になりたいなどと誓ったり、江利子のように、死んで行く者になりかわって正しく生きようと誓ったりするのである。世の中の欺瞞に苛立つものの、具体的にステップを踏んで物事を実現するすべを知らない若者が願うのは、いつだって、「絶対的に正しい自分」に変身することなのだ。

 この小説がいいのは、こういう強力な個性を持つというのか、精神的な病を抱えているというのか、そういう妹を、ふつうのOLである姉の視点から語っている点にある。江利子が突然「前向き」になるといったときの、姉とのやり取りを、少し長くなるが、引用してみよう。

「分かんないけど今すぐなんとかしなきゃって思ったんだよ」
「……それで?」
「それで、頑張って前向きになろうって……」
「バイトでも始めるの?」
それは無理、と江利子は早押しクイズの解答者のように言い切った。(中略)
「バイトは始めないの?」
「始めないよ?」
「家から出ないの?」
「出ないよ?」
「だからそれって今までとどう違うの?」(中略)
「引きこもりというハンデを背負いながらポジティブに生きていく。引きこもっているのにポジティブ。…いじけてないところが人生を大事にしてる感じでしょ? ご飯も残さず食べるよ。充実した生活を送るよ。ねえ、どうかな。事故で死んだ人達もちょっと嬉しいよね。なんか喜ぶよね」
 喜ぶかなあと思ったが、この子の目がここ一ヵ月で見たこともないくらい輝いていたので、あたしはとりあえず頑張れと無責任にはげました。バカな江利子はありがとうと頭を下げて握手を求めてきた。
 「ああー、正しい。お姉ちゃん、なんか今、エリすごく正しい感じだよ」

 会話の書き方がうまいなあ、と思う。漫才みたいに言葉が生きている感じがする。早押しクイズの解答者のように「それは無理」と答えるところなんか声が聞こえるようだし、とりあえず頑張れとはげましたら、「バカな江利子はありがとうと頭を下げて」というところなんかも、すごくいいんじゃないか。江利子の輝く顔をあきれたように見つめながらも、姉が妹をのんびりと受けとめている感じがよく出ている。この小説では、姉が語り手になっていることで、江利子の性格の強烈さが和らげられ相対化している。

 「相対化」で思い出したが、大事なことを言い忘れていた。「絶対」というのは、江利子が拾ってきた子犬の名前。「絶対にエリの味方って意味の『絶対』だよ」と江利子は言う(犬に「絶対」なんて名前をつけてしまうところが本谷の非凡なところだ)。胴体のちょうど真ん中に針金が何重にもきつく巻かれて肉に深く入り込んでいるその子犬は、引きこもりの江利子にとって、邪悪なる世界に対して憎しみをいだく自分とは同志になりうる存在だ。江利子はだから、「絶対」に世界が邪悪だと思わせるために、ホームレスのおじさんに頼んで、ゴキブリ退治用のホウ酸団子を押し込んだお握りを「絶対」に食べさせ、自分からしかエサを食べないように「絶対」を仕込む。ここでも姉の語りがいい。

それにしても毎晩、妹が台所で目を輝かせて『前向き前向き』と呟きながらホウ酸をご飯に押し込んでいる姿はまるで我が子にお弁当を作っているように愛情に溢れていてえらく不気味だ。

 ストーリーは、前向きになった江利子が、事故があった路線の電車のなかで出会った、真面目に生きているとはとても思えないようなヤンキー風のバカなカップルに遭遇して、「あんな人間になるくらいならエリは一生引きこもりでいいよ」と呟き、そのうえ、「なんでちゃんと頑張ってた人達が死ななきゃいけないんだよッ? ねえ、もうお願いだから代わってあげてよ? あんたが代わりに死んであの人達生きかえらせてあげて? いいでしょッ?交替! はい交替!」とそのバカップルに逆切れする、というふうに進む。

 江利子にとって世界は「絶対的に」悪であるから、彼女は子犬と自分以外の「外部の世界」をシャットアウトして、内部に引きこもる。自分の世界の「正しさ」に立てこもる彼女は、世界の「正しくなさ」が許せないのである。

 江利子は若者特有の観念の人である。観念の人だから、電車事故で死んだ人間になりかわって正しく生きることを世界のみんなが引き受けなくちゃいけないんだよ、などと考えてしまうのである。それは「絶対」を求める心だ。

 しかし、言うまでもなく、それは江利子の、世界に対する無体な期待にすぎない。そもそも、この世の中には絶対なんかない。○と×に簡単に区分できるものなんてそうそうあるわけでもない。世間は良いところもあれば悪いところもあるだけで、要するに、可もなく不可もない世界にすぎない。だから、江利子の正しくあろうとする「キレイな心」なんて、現実の粗雑な世界のなかではいともたやすく壊れてしまう。

 どんなに心を強くして外部を遮断して、自分と自分が信じられる人や物や動物だけからなる世界を築こうとしても、外部は内部にどんどん流入してくるのだし、内部に住まう者たちが「外」とつながることを防ぐことはできない。「絶対」という名前までつけ、他人の手からご飯を食べようとしなくなるまで仕込んだ「絶対」ですら、作品の末尾で、駅員さんから出されたエサを疑うことなく食べることになるのだ。

 でも、江利子の「前向きになる」といった気持ちのキレイさはやっぱり偉大なことなのだ。「エリのキレイな気持ち返せよ」と言いながら、バカなカップルに逆切れする江利子の気持ちの切実さと、地に足がついていない論理のアンバランスさは、ホールデン少年の我儘さと裏腹の純粋性に通じている。

 小説の末尾。江利子は、姉のある打ち明け話を聞いて、子供のように泣き出す。このラストシーンのすばらしさを筆者はとても文章では説明できない。江利子の気持ちが切なくて、そして姉と妹の、気持ちが別々のようでいて、ちゃんと姉が妹を受け止めてやさしく見守っている感じが伝わってきて、目頭が熱くなる。姉妹の物語としても、この作品は、かなりいいんじゃないだろうか。『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』のクールなテイストも捨てがたいが、こちらもなかなかだ。



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