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2008年10月02日

『兄弟(上)(下)』余華著、泉京鹿訳(文藝春秋)

兄弟(上)
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ごった煮の鍋とひんやりした緑豆

 上下2巻で合計900ページほどの大冊だが、こんなに読みやすくていいのだろうかと思うぐらい、読みやすい。作品は「文革篇」「開放経済篇」の2部構成。激動の現代中国を背景にした小説である。一言で要約するとしたら、猥雑で生命力にあふれる喜劇と、吐き気を催すような悲劇のごった煮である。筆者自身、巧みな話術に乗せられて、喜怒哀楽、なんでもありの、ごった煮の鍋を一気に食してしまった。

 文句なく面白いといえるのは、前半の「文革篇」だと思う。主人公は李光頭と、一つ年上の兄・宋鋼である。2人は血がつながっていない。夫を亡くした李光頭の母親(李蘭)と、妻を亡くした宋鋼の父親(宋凡平)が再婚したからだ。文革時代、宋鋼の父は紅衛兵に無残に殴り殺され、その後、李光頭の母親も病で早世し、兄弟2人は身を寄せ合い、助け合いながら生きていく。

 「開放経済篇」になると、大人となった兄弟2人は対照的な運命をたどる。開放経済というのは、日本でいえばバブル経済のようなもの。この時代に成功を収めることになるのは、弟の李光頭である。もともと少年の頃から、妙な商才がある男であった。村の女性用の公衆便所で、村一番の美女・林紅(この人物がやがて兄弟との間の三角関係をつくることになる)のお尻をのぞきにいき、林紅のお尻がどんなだったかを、好色な村の男たちに話をしてあげるといって、高価な中華麺をせしめるような少年であった。大人になってからも、開放経済時代の波にもうまく乗って、日本の古着を大量購入して村人に売って大儲けをしたり、ゴミを大量に買い取って売りさばく商売をして、億万長者の道を歩んでいく。

 一方、成功を収める弟とは正反対に、誠実そのものの宋鋼は、開放経済時代のなかで職を失い、苦しい生活を強いられ、やがて不承不承ながら詐欺師の片棒をかつぐ形で、人工処女膜だの豊胸クリームだの、いかにもいかがわしい商品の行商などで生計を立てざるをえなくなる。

 ストーリーはかなりシンプルといっていいが、とにかくこの小説は、全体のお味がかなりくどい感じである。「こってり感」はとりわけ「開放経済篇」のほうに顕著である。億万長者となった李光頭は、「処女」といたしたことがないことを常々嘆いていた。そこで、彼は、処女膜コンテストなるものを催すことを思いつく。「バカな記者」や「テレビのバカども」や「インターネットのバカども」が集まり、「広告のバカども」や「美しい娘のバカども」が街なかを行ったり来たりする、そのコンテストの当日、村には大量の群衆が押し寄せて、猛烈な熱気を発することになる。

考えてもみてほしい。十万もの群衆が夏の日の夕方、ぎゅうぎゅうに押し合っているのである。十万人の人々が汗を流し、その汗のにおいが我らが劉鎮の大通りを漂いながら発酵しはじめ、我らが劉鎮の空気は酸っぱくなった。十万人の人々が全員二酸化炭素を吐き出すが、そのうち五千は脇のうちの六千にはワキガがあった。十万の尻の穴のうち、少なくても七千の尻の穴を屁をこくが、ひとつの屁ではやまない尻の穴もあった。

 「文革篇」でも悪態言葉やら下ネタがたくさんあったが、「開放経済篇」に至るや、それらの言葉が「開放」どころか「全開」してしまった、という感じだ。食や排泄や性や拝金や権力欲や、あるいは、いかささまやいかがわしさ、インチキ、いい加減なものが、どんどん作品に放り込まれている。

 ただし、この小説には、人間のむき出しの欲望に関する話には事欠かないが、知性や理性に関わる話は、きれいさっぱりない。登場人物たちの繊細な内面などが描かれることはないし、出てくる人はどいつもこいつも(宋親子を唯一の例外として)アタマの悪そうな連中ばっかり。この小説の最後のほうに、日本の小泉純一郎首相の靖国神社参拝に抗議する反日デモに参加しようとする男が登場するのだが、その男に深い政治的意図なんかはなさそうだ。目立ちたい、ありあまったエネルギーをどこかに放出したい、という欲望があるだけである。その男が住む村では、かつて、李光頭が日本から大量に買いつけてきた古着を、みなが喜んで身にまとって、胸の内ポケットの上に縫い取られている「三島」「川端」だの、「松下」「三洋」「豊田」だの、「中曽根」「鳩山」だのといった姓をお互いに見せびらかしたりした時代があった。反日運動も、縫い取られた日本人の名前への熱狂とほとんど同一レベルにしか見えない。

 文革から開放経済へ。そして、親日から反日へ。中国では、極端から極端へと振り子が揺れる。そういう中国を描くには、こってりした味付けをする必要があったのかもしれないが、あまりにもギトギトの油で素材が料理され、しかもなんでもかんでも鍋に放りこむものだから、読んでいるといささか胃もたれがしてくるうえ、小説の結末が、「え、それでいいわけ?」というような後味の悪さもあって、胸焼けまでしそうである。

 しかし、そんななかで、ぜひここを読んで欲しいと思うのは、「文革篇」における少年時代の兄弟2人の「食」のシーンである。

 兄弟の親たちがまだ再婚する前のこと、夏のある日、はじめてのデートをしたあと、みなで食事をするシーンがある。少し長いが引用してみよう。

2人の子供は夏に冷たいものを食べたのは初めてだった。これまでに口にしたことのある一番冷たいものといえば、井戸水くらいであった。今食べているのは冷蔵庫から出してきた冷たい緑豆で、その上に雪のような砂糖がかかっていた。お碗を持ち上げると、お碗の冷たさだけでも井戸水を飲むよりずっと快い。白い砂糖はまるで積雪が解けるように冷たい緑豆の上を濡らし、黒くなってゆく。スプーンを差し込んですくい出したひと匙の冷たい豆が、口の中に入る。心地よくて、嬉しくてたまらない。(中略)一口食べたあと、彼らの口はまるで動き出すと止まらない機械のようになった。フウフウ言いながら食べると、冷たい緑豆がフウフウと入ってきて、冷たさに口がフウフウ痛んだ。2人は火傷でもしたように口を大きく開き、ハアハアハアと喘ぎ、また歯でも痛むかのように、手で頬を叩いた。(中略)彼らの舌はお碗の中をぺろぺろと舐め、残った緑豆もきれいに舐めてしまった。それでも舐め続けているのは、お碗に残った涼しさを舐めているのだった。お碗が舌よりも熱くなるまで舐めてしまってから、ようやく名残惜しそうに手放した。二人は顔をあげ、宋凡平と李蘭を見上げた。 「明日もまた食べに来ようよ、いいでしょう?」 宋凡平と李蘭は同時に答えた。「いいよ!」

 なんて瑞々しくて、美しい描写だろう。緑豆の色合い、ひんやりとした感触、物も言わずに食に夢中になっている少年たちと、そのような体験の共有を通じて近づいていく2つの家族。これと同じ体験があったはずはないのに、自分の子供時代にもこんな体験があったような気がしてくるような、幸福なシーンである。

 ほかにも父親が買ってくれた「大白兎(ホワイトラビット)」という名前のミルクキャンディのよだれの垂れそうな甘さだとか、炒めたり炒ったりして食べたエビの旨さだとか、小説全体のストーリーにどう関係するのかよくわからないが、とにかく、そういうシーンがすごくいいのだ。

 胃もたれがしたり、とてもおいしそうだったりするので、この本をトータルとしてどう見たらいいのか、じつは、今もって判断がつかない。それに、「文革篇」「開放経済篇」という名称からもっと社会小説的なものを期待していたのだが、これまた大きく期待を裏切られた。でも、ミソもクソもごたまぜのこの小説、筆者の期待を裏切りもし、しかもこんな大冊にもかかわらずストーリーがシンプルなくせに、まったく飽きさせない。なんだか妙に後を引くお味の小説であった。




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