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2008年08月15日

『同日同刻----太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』山田風太郎(ちくま文庫)

同日同刻----太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日 →bookwebで購入

表紙は原爆ドーム

 没後7年、山田風太郎の人気は落ちない。つい先ごろも『サライ』が「山田風太郎の恬淡哲学」なる特集を組んでいた。風太郎ぐらい寿命の長い作家は少ない。代表作である忍法帖シリーズが『甲賀忍法帖』をもって始まったのが昭和33年、なんと半世紀前である。ここに紹介する『同日同刻』のオリジナル版は30年ほど前の出版である(ちくま文庫に入ったのは2年前)。いま読んでもまったく古びていない。

 山田風太郎という作家の人気の高さはどこに由来するのか。根っからのストーリーテラーとしての才能ということもむろんある。しかし、たぶん、風太郎を愛する者は、彼の作品すべてに通底する、ある種の世界観に魅せられるのだと思う。

 忍法帖シリーズを読んだ人には納得されると思うが、それは忍者たちが奇想天外な忍法を使って壮絶な闘いを展開するだけの物語ではない。忍者たちは権力者たちの命令によって、自分の名誉をかけて忍法を駆使し、無残に、無意味に、死んでいく。忍法帖シリーズのほとんどの作品の末尾は、ただ、死、死、死。忍法のあまりのノンセンスぶりに呆れ、笑いながらも、このシリーズの基調を成すのは明るいユーモアではなく、凄絶な虚無である。身体の弱い医学生であった風太郎は出征することはなかったし、彼の作品に、具体的な戦闘シーンが描かれることはなかったはずだが、風太郎の夥しい数の作品を浸しているニヒリズムには、まちがいなく、戦争体験の影がある。

 山田風太郎が無類の読書家であったことはよく知られている。NHKの特集番組で、風太郎の書斎が映ったことがあった。太平洋戦争についての本が本棚まるまる一つにぎっしりと詰まっていた。その読書体験の間接的な影響が忍法帖シリーズや『魔群の通過』のような作品にあるとすれば、直接的な影響がはっきり見て取れるのが、この『同日同刻』である。この作品は、1941年12月8日の1日と1945年8月1~15日の15日間について書かれた無数の文書や記録を多数引用して、太平洋戦争の全体像を描き出そうとするものだからだ。

 今日は8月15日だから、玉音放送前後の記述を見てみよう。終戦の詔勅を出させまいとクーデターを企画する軍部、敗戦の責任をとって自害する阿南惟幾陸軍大臣の動向を記したあと、風太郎は、天皇の玉音放送を聞いた者たちがその時に何を考えたのか、何を思ったのかを引用していく。徳川夢声は「日本敗るるの時、この天子を戴いていたことは、なんたる幸福であったろうか。…この佳き国は永遠に滅びない!」と日記に書く。高村光太郎は「五体わななきてとどめあえず」と悲歌を歌う。83歳の徳富蘇峰は「永久に記念すべき悪日である」。内田百閒「熱涙垂れて止まず」。高見順「遂に敗けたのだ。戦いに敗れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている、眼に痛い光線。」そして、政府や軍部にいる人、有名作家たちと並んで、まだ無名の医学生だった自身の日記を素知らぬ顔で忍び込ませたあと、文章は一気に加速する。

斎藤茂吉は。---
「たとえしのびこらえしのびて滅びざる命遂げむときおいたてつまる」
 釈迢空は。――
 「戦いに果てしわが子も聴けと思う かなしき御詔うけたまわるなり」
(中略)
 荻原井泉水は。――
 「ああ秋日面に厳し泣くべきものか」
ただしかし、久保田万太郎は、
「何もかもあっけらかんと西日中」

 「×年×月×日、あなたは何をしていましたか。」というようなアンケート形式の雑誌記事はよく目にするところである。この『同日同刻』の読みどころも、その「編集」の巧みさによるところが大きい。上の箇所においても、同じ玉音放送を聞いた日本人たちの、さまざまなレベルでの感慨が、風太郎の編集的な手法によって、俯瞰から一挙に眺められている。夏のじりじりとした暑さのなか、森閑として、いっさいが失われてしまった空無感を凝縮したような万太郎の一節は、いささか紋切型にも見えなくはない、慟哭、悲しみの短歌や俳句と並べられてみると、いかにも異様であり、印象的でもある。風々院風々風々居士(風太郎の戒名)の世界観にも通じるような一節である。

 この作品には、引用してみたくなる箇所がほんとうにたくさんあるのだが、どうしても逸することができないのは、広島に原爆が投下された8月6日である。風太郎がもっとも力を込めて書いたのもここではないのか。エノラ・ゲイから投下された原爆によるキノコ雲を描いた部分を引用してみよう。

一万フィートの円柱は、突如巨大な茸となり、その根もとの周囲三マイルを物凄い塵埃の雲が荒れ狂った。この茸はさらに高く大きく膨張をつづけ、四万五千ないし五万フィートの高さに達するまで昇りつづけると、紫色を帯びたクリーム状の数層の白い塊となった。
 「0の暁」のW・L・ローレンス(注・この人はニューヨークタイムズ紙の記者)は書いている。
 「それは雲の上に屹立した山に、巨大な自由の神様が腕を空にあげて、人間の新しい自由の誕生を象徴しているかのようであった」

 自由の名のもとに、多くの無意味な死体が積み重ねられるというのは、いまも変わることがない。風太郎もまた、アメリカ人のいう「人間の自由の誕生」の神像の足下に積まれた20万人の日本人の死体についての証言を、次々と引用していく。

 「….みな一様に両腕を少し前にさし出し、前搏部から上に曲げ、手首から先を下に垂れて幽霊のようだ。その手からも皮膚がボロボロの衣類のようにぶら下がっている。それがのそのそと続いて来る。まったく地獄絵図であった」
 また蜂谷博士は書いている。
「ピカの一閃に、強い者も弱い者もなくなってしまった。みな一様に精根をぬかれて黙々と郊外に歩いた。聴けばきまったように後をふりむいてアッチから来たという。前方を指さしてアッチへゆくという。出てきたところもいえず、行く先もいえない羊のようなものになってしまった」
 

引用文というものは、どんなにすぐれた書き手であっても、気持ちがふと緩んで、地の文からほんのちょっとだけ浮いて見えるものだ。ところが、引用文にはご丁寧なことにすべて出典まで記されているのに、不思議なことに、どの文章も風太郎その人が綴っているかのように見えるのである。それほどに風太郎は引用文を自分のものとしているということだ。

 風太郎は、テキストのなかで、怒りの言葉を殆ど記していない。ローレンスが誇らしげに使った「自由の誕生」というような言葉だとか、エノラ・ゲイより先に広島に到達した気象観測機「ストレート・フラッシュ」の機体に「日本兵が下水のなかで溺れている」漫画が描かれていたというようなグロテスクなディテールを書き込みつつ、それと並べるようにして、死に行く者たちを記録した書き物を淡々と引用していくだけだ。禁欲的な書きぶりが逆に読者の心を激しく揺さぶる。「聴けばきまったように後をふりむいてアッチから来たという。前方を指さしてアッチへゆくという」という一節は、いま書き写していても、言葉を失う。過去も未来もなく、現在の悲惨のなかをただ歩くほかなかった被爆者を記述するこの箇所を電車のなかで読んでいて、筆者は落涙するほかなかった。

 地獄と化した広島は戦後に奇跡的な復興を遂げる。その広島を舞台にして、忍法帖シリーズのごとき世界を描いた作品があることをご存じであろうか。それは深作欣二監督・笠原和夫脚本の「仁義なき戦い」のシリーズだ。ヤクザの抗争を描くこの作品群は、忍法帖がただの活劇ではないように、ただの暴力ヤクザ映画ではない。下っ端のヤクザたちの無意味な死と、暴力団の上のほうに居座って保身のみに汲々とする権力者たちとの対照を描くこの作品は、戦争をくぐってきた人間のみが描きうるような虚無感に浸されている。「仁義なき戦い」は作品の最後に、原爆ドームを映し出す。原爆ドームはこの映画が広島が舞台であることを示すためだけのものではない。それは、抗争で死んで行くヤクザたちを、太平洋戦争で亡くなった無辜の人々と重ね合わせていることの象徴として存在している。

 風太郎の忍法帖シリーズはいろいろなところから再版が出ている。筆者がいま手元に置いているのは講談社の新書版で、装丁が横尾忠則のものだ。しかし、いま、この風太郎の忍法帖シリーズの表紙に筆者があしらってみたいのは、原爆ドームの写真である。この偉大な大衆作家はじつは昭和最大の戦争作家でもあることがこれによって明らかになるはずだ。忍法帖なら『風来忍法帖』を、時代小説はちょっと、という人ならば、太平洋戦争を描いた日本屈指の作品である、この『同日同刻』をぜひ読んで欲しい。この作品は、風太郎の、(隠れた)傑作中の傑作である。


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2008年08月05日

『若き高杉一郎 改造社の時代』太田哲男(未来社)

若き高杉一郎 改造社の時代 →bookwebで購入

先輩だったかもしれない人

 最近、戦後日本を代表するノンフィクション作品を生み出した2人の作家の伝記が、出版界の片隅で、ひっそりと出版された。1冊は、上野英信の伝記『闇こそ砦』(川原一之著、大月書店)である。みずからも炭坑夫として働きながら、『追われゆく坑夫たち』『出ニッポン記』『眉屋私記』などの傑作を、文字通り地を這うようにして綴った上野には径書房から著作集もあるから、案外、ファンは多いかもしれない。

 その点、今回本欄で紹介する『若き高杉一郎』の主人公、高杉一郎については、いま、どのぐらいの人が知っているのだろう。いささか心配でもあるので、簡単に紹介しておこう。

 高杉の代表作は、なんといっても、シベリア抑留体験を描いた『極光のかげに』(1950年)である。スターリン時代下での収容所体験を描き、左側からは悪質な反共宣伝と批判され、右側からはロシア人民への共感的な視線から親ソ的とも断罪された作品である。また、高杉は戦後になってから、大正期に滞日したロシアの盲目のエスペランティスト詩人エロシェンコの全集を編集したり、アグネス・メドレー、ツヴァイクなどの翻訳でも活躍した。高杉には児童文学者としての顔もある。キャロルの『不思議の国のアリス』や、フィリッパ・ピアスの翻訳があるほか、筆者のいる研究社にも著作が1冊だけある。『クマのプーさん』の注釈本だ。なお、高杉一郎はペンネーム。本名は小川五郎。

 本書は、その高杉が戦争に行くまでの「若き日々」を描く伝記である。高杉は、1944年に応召されるまで、改造社という出版社の編集者であった。 

 高杉の改造社入社は昭和8年。同じ年の入社試験に合格した3人というのがいずれも綺羅星のごとき才能の持ち主だ。ほかの2人とは、慶応からやってきた石橋貞吉、のちの山本健吉と、もう1人は檀一雄(ただし、のちに入社を取り消される)である。俊秀が集まるのは当然のことだ。なにしろ、改造社といえば、昭和初年に「円本」(「現代日本文学全集」63巻)を大当たりさせる一方で、『中央公論』と並ぶ戦前の代表的な総合雑誌『改造』の版元として、自由主義的、ときに左翼的な論説なども掲載するような、花形の出版社であったからだ。改造社は、昭和8年、文芸雑誌『文藝』を出版する。高杉は、最初はその編集部員として、のちに、その第3代編集長として(初代が徳広巌城、のちの私小説作家・上林暁であるというのだから、これまた恐れ入る)、中條(宮本)百合子、中野重治、三木清ら、当時の一線級の作家・知識人と親交を結び、海外の反戦的な作品の翻訳・紹介も積極的に行なった。

 太田が引用している高杉の文章のなかで、いかにも編集者らしい回想だなあ、と思ったところがある。
 

私はあらゆる編集者に特有な、あの同時にさまざまな世界をのぞくことのできるふしぎな複眼を完全に身につけていた。私は、島木健作や村山知義の転向文学も、小林秀雄や河上徹太郎の評論も、中条百合子や中野重治の小説も、おなじような距離からおなじ程度の関心で読む技術をいつのまにか覚えこんでいたし、ソヴェトの同伴者文学にも、ドイツの亡命者文学にも、あるいはフランスの行動主義文学にも、おなじように注目する習慣を身につけた。(中略)だから、保田与重郎が昭和十一年に『コギト』に「戴冠詩人の御一人者」や「日本の橋」を発表したときにも、私はそのとっつきにくいスタイルと耳なれない語彙にすこしの不平も言わないで、謙虚にこれを読んだばかりでなく、あくる年の『文芸』には、三号にわたって彼の「明治の精神」のために大きなスペースをさいた。

保田与重郎は日本浪漫派の批評家。高杉とはあまりに思想傾向において違うはずだが、こういうことを書く高杉の気持ちは雑誌編集者の後輩としてたいへんよくわかるような気がするのである。雑誌編集者はその人が語っている思想の「内容」もさることながら、その人の書く文章や文体、あるいは、その思想が備えているある種の「パワー」や「熱」のようなものに引かれるものだし、またそうでなければ雑誌はやせ細ってしまう。上の一節は、高杉の思想的な無節操ではなく、編集者としての幅の広さや、人間としてのふくらみをこそ表していると思った。

 高杉が編集者として生きた昭和8年から19年は、言うまでもなく、戦争の影が色濃く落ちていた時代である。高杉がその閉塞的な時代に対峙し、それに打ち克ったかといえば、それはそうではなかった。

 編集者にはバランス感覚が必要だと言われる。バランス感覚というと聞こえはいいが、左と右を見て、その間のどこかに自分を位置づけようとする習性のことである。だから、時代が動いて、人びともそれに合わせて動いていくと、人と人の間に自分を位置づける習性が身についている編集者は、結局は、時代の動いていく方向へ流れていく。

 本書で筆者が興味深い箇所だと思ったのは、高杉の編集者としての「光」の部分ではなく、じつはそういう「影」の部分である。高杉は、太平洋戦争が始まったときのことをこう回想しているという。
 

日本が中国に侵略戦争をおこなっていたかぎり、私たちは惰性的で無気力なものであったにせよ、抵抗意識をもちつづけたのであった。
 ところが、やがて戦争がヨーロッパに飛火し、それがふたたびアジアにかえって、日本が昭和十六年の暮についにあの絶望的な太平洋戦争のなかにとびこんでいくと、私たちは一夜のうちに自己麻酔にでもかかったように、抵抗意識をすてて、一種の聖戦意識にしがみついていった。

 当時、軍報道部や情報局のおぼえがよくなかった改造社は生き延びるために、戦時体制の指導的な評論家を編集顧問に選んだりしていた。彼らから受けた「再教育」は、ひどい侮辱と感じられたものも多かったが、誰ひとりこれに抗議せず、むしろ、「みずからも仮面を合理化できそうなもっともらしい理論には、よろこんでとびついていった」とも高杉は語っている。リベラルな作家たちにもなんとか誌面を提供しようとしていた高杉までがなぜ、という思いに囚われてしまう。

 太田は、上のような高杉の意識を分析するにあたり、中国文学者の竹内好が戦後書いた「近代の超克」論文を援用して解説している。中国に対する侵略戦争を仕掛ける日本は、多くの知識人にとっては批判すべき対象でありえたが、しかし、泥沼化する中国戦線の「打開」のために、対米英戦争が開始されたとき、その戦争は日中戦争の「侵略的性格をおおいかくすもの」となったという。

 くわえて、高杉は、『文藝』の編集者として、中国と日本の作家の往復書簡を雑誌に掲載するなど、中国文学者には格別の思い入れのある編集者であった。それがゆえに、「義」ではありえない日中戦争は彼にとっては人一倍苦しみの源であったはずである。そして、太平洋戦争が始まり、ほんとうの敵は中国ではなく、中国を支援している米英である、となったときに、高杉はそこに「仮面を合理化できそうなもっともらしい理論」を見、「一種の聖戦意識にしがみついていった」のである。対米英戦争への熱狂の裏側には中国に対する侵略戦争への良心の呵責がはりついており、そこには「二重にも三重にも屈折した」(竹内好)心理があったという。

 竹内は、「一九四一年から四二年にかけての知的雰囲気を今日復元することのじつに困難であるのを感じる」と書き、多くの知識人の当時の屈折した心理を分析するにあたって、ほかならぬ高杉の文章をサンプルとしていた。これは別の言い方をするならば、高杉がみずからの蹉跌をほかの誰よりもきちんと本のなかに書き込んでいるということだ。過去をただ懺悔するのではなく、過去を正当化するのでもなく、なぜ、そのとき、自分はそのような判断をしたのか、と高杉は冷静に問い続けた。高杉の回想は、のちの時代を行く者にとって重要な証言となったと言える。そして、歴史のなかで起こったことに対する謙虚で冷静な観察と反省こそ、出版から半世紀を超えてなお『極光のかげに』を多くの人に読み継がれる名著とした理由であった。
 
 本書で初めて知ったことがある。高杉は東京文理大在学時代、その左翼的な思想を疑われて退学となった。そのため、決まっていた出版社の就職をふいにしてしまった。それで、というので受験して合格したのが改造社であったという。そのことが高杉ののちの人生にとって幸せなことだったかどうかはわからない。しかし、内定を取り消してしまった会社にとって、ひとりの優秀な人材を失ったことは間違いない。その出版社の名前を研究社という。 



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