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2008年06月29日

『観光』ラッタウット・ラープチャルーンサップ著、古屋美登里訳(早川書房)

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帯はむずかしい

 数年前、ローレンス・ノーフォークの『ジョン・ランプリエールの辞書』〈上〉〈下〉の邦訳が出たとき、帯のキャッチコピーは、「エーコ+ピンチョン+ディケンズ+007!」というものだった。昨年、長年待ち望まれていたアラスター・グレイの『ラナーク』が出たときのキャッチコピーは「ダンテ+カフカ+ジョイス+オーウェル+ブレイク+キャロル+α+….」だ。2作は出版社がちがうが、装丁者は同じ中島かおるさん。このコピーの類似が偶然とは思わない。作家名をだいぶ水増ししたうえ、αを付け加え、それでも足りなくて「…」まで入れているのが可笑しい。

 あまり知られぬ作品を紹介するとき、名作になぞらえるというのは、編集者がよくやる手である。フィリピン系英語作家テス・ウリザ・ホルスの『象がおどるとき』〈上〉〈下〉は、「アジア版『百年の孤独』」というコピーだった。日本軍がフィリピンを戦場にアメリカと絶望的な戦いをしていた頃の話であり、しかもマルケスみたいな作品だというから、興味をもって上下2巻を読んだ。評価は詳しく書かないが、キャッチコピーを信じた筆者がおどらされた、とだけ記しておく。

 さて、同じくアジア系英語作家でも、今度はタイ系英語作家だ。シカゴ生まれ、タイ育ち、現在はイギリスに在住だという。著者にとってこれが第一作になる。翻訳本の帯のコピーは、「人の絆はもろく、はかない。しかし、それゆえに美しい」だ。うーん、どうなんだろう、ちっともイメージが湧かないんだけれども。そもそも、このコピーだと、この短篇集のいちばん最初に入っていて、しかももっともすぐれた「ガイジン」という作品の魅力が伝わらない。著者のデビュー作だというこの作品を紹介してみよう。

 「ぼく」はタイで、観光客相手のモーテルを経営しているタイ人の母親と二人で暮らす青年である。観光シーズンは夏。6月はドイツ人、7月はイタリア人、フランス人、イギリス人、アメリカ人、8月は日本人、オーストラリア人と中国人の観光客がやってくる。

「セックスと象だよ。あの人たちが求めているのはね」とママは言う。ママは、観光シーズンたけなわの八月、島中を走り回っているガイジンに飽き、モーテルの部屋で使用済みコンドームを目にするのにうんざりし、五つの言語で文句を言う泊り客にげんなりすると決まってこう言う。そしてぼくを見てこう言うのだ。「おまえがいくらこの国の歴史や寺院や仏塔、伝統舞踏、水上マーケット、絹織物組合、シーフード・カレー、デザートのタピオカを見せたり食べさせたりしても、あの人たちが本当にやりたいのは、野蛮人の群れのようにばかでかい灰色の動物に乗ること、女の子の上で喘ぐこと、そしてその合間に海辺で死んだように寝そべって皮膚ガンになることなんだよ」
 ママとぼくはモーテルのオフィスで遅い昼食を食べながらテレビを見ている。島のテレビは『ランボー/怒りの脱出』をまた放送している。タイ語に吹き替えられたシルベスター・スタローンが弓矢でベトコンの一個連隊を全滅させる。

 作品の冒頭近くにある一節である。「持てる国」の人びとに一方的に奉仕するほかないタイ人の辛辣な皮肉を畳み掛けるように語ったあと、アメリカ文化に浸された現代のタイの姿といささか物憂げな観光産業の日常へと話を移す呼吸が見事だと思うし、さらにここで、「タイ語に吹き替えられた」スタローンがベトコンをやっつけるというアイロニーをすっと差し込んでくるあたりに、著者の才気を感じる。

 「ぼく」はガイジンである観光客の女の子のお尻をおっかけているような軽薄な青年で、母親は「ぼく」がガイジンとセックスするのを嫌う。なぜなら「その昔ママ自身が両親の反対を押し切ってガイジンとセックスしてしまったからだ。そしてその騒動で得たのは、傷ついた心とぼくだけだった」からだ。つまり、「ぼく」は観光客としてやってきたアメリカの軍人さんとタイ人である母親のあいだに生まれた「ハーフ」である。「ガイジン」の血が半分入っているわけだ。

 「ぼく」は、父親からプレゼントとして買ってもらったペットの豚をとても大事にしていて、どこへ行くのでも一緒に連れていく。ところで、その豚の名前がふるっている。なんと「クリント・イーストウッド」という。この豚、この作品のなかでなかなかいい味を出していて、「今朝早く、クリント・イーストウッドがその女の子(観光客のアメリカ人の女の子)の股ぐらに鼻を押しつけてにおいを嗅いだり」するのだ。

 ポップで、フットワークが軽くて、アイロニーとエスプリもあって、「アジア系英語文学」という言葉から想像される、やや、もったりとしたイメージとは対極にあるような短篇だ。この短篇のラストシーンは、ポストコロアル「猿蟹合戦」とでも言いたくなるような痛快なエピソードで終わるから、帯のコピーを「ポストコロニアル『猿蟹合戦』」などとしてもいいかもしれない。

 「ガイジン」と同様に、「観光」をテーマにした表題作の「観光」も見てみよう。母ひとり子ひとりの物語である。母親が網膜剥離のためにいずれ失明してしまうと医者に宣告されてしまう。そんな母親を伴って、語り手である息子はタイの最南端にある「天国」のような美しい島へ観光に行くのだ。母親は「ガイジンになるの。観光客になるのよ」と言う。「観光」とは「持てる国」の人びと(=ガイジン)の特権であり、タイ人にとっては、失明という事態でも出来しないかぎり手に入れることができない特権である。「タイの国は能なしとガイジン、犯罪者と観光客の天国よ」という母親の認識は、上のモーテルを経営する「ぼく」の母親のそれと、その辛辣さにおいても同質と言っていいだろう。

 ただし、この作品は「ガイジン」とは違って、抒情的でしみじみとする作品である。 そして、合計7篇を収めるこの短篇集の全体を眺めわたしてみると、この「観光」という作品のテイストに連なるような、「しんみり+しみじみ+α…」系で、ペイソスを感じさせる作品が多い。大きな事件が起こるわけではない。カンボジア難民の少女との心の交流を描く「プリシラ」といい、賄賂を使ってもらって兵役を免除してもらった青年の良心の疼きと心の揺れを描いた「徴兵の日」といい、はっきり言って地味な短篇である。息子の住むタイで晩年を過ごすことになった年老いたアメリカ人の孤独と我が儘ぶりを描いた「こんなところで死にたくない」は、視点がタイ人からアメリカ人へと180度変わっていて、本書のなかでは異色作と言っていいが、それとて扱っているのは、ごくごく日常の出来事ばかりであって、説明したからといって作品の魅力が伝わるとは思わない。だから、それらの短篇をまとめて紹介するとなったら、「人の絆はもろく、はかない。しかし、それゆえに美しい」としか書きようがないよなあ、と同情もする。「挨拶はむずかしい」という本を書いた丸谷才一さんふうにいえば、「帯はむずかしい」。

 とはいえ、この短篇集は、間違いなく佳作ぞろいであることは声を大にして言いたい。「アジア版『百年の孤独』」というコピーは羊頭狗肉だったが、『観光』は宣伝文句をはるかに上回る、すぐれた小説である。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』が教えるとおり、「当たり」の箱は、金の箱でも銀の箱でもなく、しばしば鉛の箱である。

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2008年06月23日

『文壇うたかた物語』大村彦次郎(筑摩書房)

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一文芸編集者の回顧録、名著です。」

 大村彦次郎さんは講談社の『小説現代』や『群像』など文芸雑誌の編集長を務めた方である。大村さんの回想記がおもしろいというのは、たしか坪内祐三さんがどこかで書いていらして、気になっていた。文庫本に入ったというので読んでみたら、これが坪内さんの推薦どおり、たいへんおもしろい。日本酒でいったら「上善如水」みたいなもので、すいすいと読めてしまう。抑制がきき、すっきりしていて、平明な文章である。派手さはないけれど、こういう文章も名文といっていいのだと思う。

 編集者の回想録、とくに文芸編集者の回想録に期待されるものといえば、私たちが作品をとおして知っている作家の普段の姿であろう。その期待にも十分にこたえてくれる本だ。

 たとえば、次のような一節など、どうだろう。
 

昭和三十年代なかば頃までの誌面には、舟橋、丹羽の両雄がひんぱんに登場し、観音びらきの目次に、ふたりの名前が並ぶときは、どちらかいっぽうが巻頭に、そして他方が巻末に置かれる、といった編集部苦心の目次作りになっている。
舟橋さんは自分の作品が載った目次の題名や作者名の幅の寸法を、物差しで測るといわれた。芝居の内幕に精通していたので、看板の序列を気にかける役者の執念ぶりに影響されたのかもしれない。

 映画のタイトルロールのどこに役者の名前を置くかに苦心する映画監督の話であるとか、紅白歌合戦のオオトリを誰にするかをめぐって熾烈な争いが行われる、ということはよく聞く。同じ編集者であっても、じつは筆者は上のような苦労をしたことはない。けれど、筆一本で食べているプロの作家たちからすれば、自分の名前がどの程度の大きさで、またどの順番で掲載されるのかは、みずからがどの程度編集部から信頼されているかを測るバロメーターであろう。スポーツと違って、文学作品というのは勝敗がはっきり出るものではない。好き嫌いはあるし、時代に合う、合わないもある。評価が不安定であるからこそ、こういう子供っぽい振る舞いに出てしまうことにもなるわけだ。

 文学賞をめぐっては戦いはさらに熾烈になる。何度目かの直木賞の候補者になった年、名前も知らない地方の新人作家に賞をさらわれてしまった立原正秋のケース。みずからを恃む気持ちのあった立原は、「どこの馬の骨かも分からぬ奴が、とりやがって」と悪態をつくなど、その怒りたるや大変なものだったという。しかし、次回、無事に立原は直木賞を受賞する。立原は受賞の言葉として、「鎌倉のバアで、電話で受賞の知らせを聞いたとき、誰がもらったんだ、と私は訊き返した。誰って、あなたですよ、と家人は答えた」などという。これはむろんおとぼけである。前回の発表のさい、電話口で荒れた立原正秋を知っている大村さんだからこそ書けるエピソードである。

 もう一つ、大村さんが相当に入れ込んでいた作家、野坂昭如が直木賞を取った昭和43年のエピソードも紹介しておこう。

 直木賞受賞発表の日、野坂と著者は伊豆修善寺の温泉宿にいた。温泉街のストリッパーを取材するためであった。取材を終えて宿に戻って、座卓をはさんで向かいあい、東京からの吉報を待つ。ふだんは多弁なのに、このときばかりはただただ沈黙するばかり。しかし、やっと受賞のニュースが届くと、野坂は喜色満面になったという。

その晩、東京からテレビ局が、翌朝出演のためのクルマを差し向けてきたが、野坂さんはこちらの取材を理由に断った。いつも出演しているテレビだから、こういうときぐらいは断ってみたい。テレビ局の迎えのひとの目を盗んで、宿のサンダルをつっかけ、灯りの消えた夜の温泉街をさまよった。満天に星が散らばって見える。気がついたら、ふたりとも素足のままだ。一月の厳冬のさなかである。足の先が凍ったシシャモのようになった。

 星の散らばる寒い夜の野坂昭如と大村さんの、晴れ晴れとした姿が目に浮かぶようではないか。

 良い作品を残しながら伸びなかった人のこと、自分の精神的、肉体的限界に挑戦するかのように作品を量産した作家のこと、周囲の知人に電話をかけまくって借金を申し込んでいた有吉佐和子のこと、小泉喜美子に右頬を平手で打たれてしまった思い出など、いろいろと面白い話があるが、向田邦子の思い出が筆者には忘れがたい。向田の代表作となる『父の詫び状』はもともと大村さんが所属する講談社で出することになっていたはずなのに、向田の不手際もあり、結局文藝春秋で出ることになってしまった。本が出来たとき、向田は本をもってわざわざ大村さんのところにやってくる。

 「これは、あなたへの詫び状です。」 と、してやったり、といった笑みを浮かべた。いまいましいから、私はわざと渋面を作ったが、いまから思えば、そのときの印象は、なぜか苦い、というより甘ずっぱい記憶になって甦る。

 彗星のごとく現れ、名作を残し、飛行機事故で亡くなった向田への、美しい追悼文であるかのようだ。「甘ずっぱい」という言葉にこちらまで胸がきゅんとしてしまう。

 昭和30年代は、松本清張が、井上靖が、司馬遼太郎が、次々とデビューした時代である。中間小説という言葉が流行したのもその頃である。まだまだ小説というのは一般の人の娯楽であった。大村さんは新幹線に乗ったときなど、車内を前から後ろまで歩いてみて、自分が編集している雑誌がどのぐらい読まれているかチェックしたという。『小説現代』は昭和43年の暮れに43万5,000部を発行した、とこの本に書いてあって驚愕した。いまネットで調べてみたところ、2004年の段階で、『小説現代』の部数は4万部程度、より純文学度が高い『群像』は8,000部程度である。時代は大きく変わってしまったのである。

 この本は、いろんな作家の、いろんなエピソードが満載の本である。読んでいるときには、へえー、とか、そんなことがあったんだと、ずいぶんと楽しく読んだのに、一冊を読み終えたときに、不思議に、誰がどうしたのだったかということが記憶に残らない。これは否定の気持ちで言うのではない。この本の末尾には「登場作家索引」というのがついている。200人ほどの作家名が上がっている。いまはすっかり忘れさられてしまった作家たちも多い。

 野坂昭如が直木賞を取ったときに伊豆にいたことは上に書いた。次の日、野坂は、伊豆から東京へ帰る新幹線(伊豆へ行くときは普通車、帰りはグリーン車だ!)の車中、文春手帖を取り出して、歴代の直木賞作家のリストが載っている巻末のページを開き、それぞれの作家を評定した。受賞後、活躍している作家を○、まあまあのひとを△、パッとしないのを×、としたという。

 その評定がどういうものであったかは書かれていない。しかし、半世紀も経たぬうちに、彼らの多くが時の彼方に消えていきつつあることは間違いない。作家は自分の名前が永遠に残ることを願う。しかし、むろん、そういう光栄に浴することができる人間など、ほとんどいない。文壇のなかで、かつ結びかつ消えいく作家たち。まさに「文壇うたかた物語」。この本には、移ろい行くものへの、ある種の透明な諦念のようなものが感じられる。


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