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2008年05月30日

『赤目四十八瀧心中未遂』車谷長吉(文春文庫)

赤目四十八瀧心中未遂 →bookwebで購入

金玉が歌い出した男

 なぜかこれまで縁がなかった作家が車谷長吉。さいきん、車谷を読みなさいと勧めてくださる方がまわりに何人もいて、さて、なにから読んだらいいのだろうと題名を見ると、「鹽壺の匙」「業柱抱き」「白痴群」「錢金について」「贋世捨人」「忌中」「飆風」「文士の生魑魅」といった、なにやらおどろおどろしい題名ばかりである。鹽壺飆風生魑魅などと並べてみたらまるでコンピュータの文字化けみたいだ。

 見当がつかないので、まず、直木賞受賞作『赤目四十八瀧心中未遂』を手に取った。のだが、そもそも、この題名、なんて読むのか、どこで切れるのか。赤目四十八瀧というのが三重県にある名所の名前であるとはこの本を読むまで知らなかった。小説では、主人公の生島与一と、ヤクザ者の兄を持ち、刺青の彫物師の愛人となっているアヤちゃんとが、心中をしようと訪れる場所として設定されている。

 生島は、大学出のインテリだったのに、サラリーマンとしての生き方のぬるさに苛立つようにして会社員をやめ、庶民のなかで、まるで自分を苛めるかのように禁欲的で孤独な生活を送ろうとする男だ。のちに、その生島の部屋へ突然やってきて、「炎の氷がきしむように崩れ落ち」て、激しいセックスをすることになるアヤちゃんは、生島と同じアパートの住む女性で、彫り物師の愛人である。そんな怖い人の女に手を出したらいかん。そう思えば思うほど、死に魅入られるかのようにして、極楽鳥の彫り物をした在日朝鮮人(という設定なのだ)の美女であるアヤちゃんと畜生のごとき性交を行い、ついに生島は彼女と心中までしようと決心する。心のなかの暗がりに感応してくるというのか、読んでいて血が暗く騒ぐような小説だ。

 「赤目四十八瀧」の地名の話に戻ると、心中未遂の場所としてこの地を選んだのには車谷の慎重な計算がある。「赤目」は、まずは、アヤちゃんの男の白目に混じっている「赤」だ。横恋慕しようものならタダでは済まないことを知っている主人公には、この彫物師の目がすごく怖い。それから、この彫物師、休日になると、カミソリを指に挟み、それを鶏に向かってぴゅっと飛ばして、鶏の目を潰すという趣味を持っている。目が赤く染まるのだ。いっぽう、「四十八」にも意味がありそうだ。主人公・生島とアヤちゃんが初めて激しいセックスをするシーンでは五度射精をしたとある。四十八という言葉は性交体位四十八手をも微かに連想させる、というのは邪推だろうか。

 題名からしてこうであるから、作品本体にいたっては、夥しいほどの、血と性と死のイメージが散りばめられている。生島が生業としているのは来る日も来る日も暑くて狭い部屋で黙々と臓物に串を「刺す」作業であるし、ひしゃげた蝦蟇蛙のエピソードは死を、アヤちゃんがお皿いっぱいに入れて持ってくるサクランボを生島が「食べて」しまうのは、生島がいずれアヤちゃんを犯すことになるであろうことを予測させる。作品は、思いのほか精緻に出来ていて、車谷という作家は、つくづく手練れの作家という印象をもった。(こういうタイプの小説をどこかで読んだことがあると思ったら、筆者にとっても意外なことに、宮本輝、だった。)

 この小説でいいのは脇役たちである。たぶん、主役より脇役がいい。生島のところに臓物を運んでくる無口の男の不気味な感じが印象に残るし、なによりも、主人公の生島を雇っている、パンパン上がりで、年のころ、60のセイ子ねえさんが秀逸だと思った。このオバサン、すごい迫力だ。生島に仕事の要領を教えるときのシーン。

女主人は天井から下がった傘電球のスイッチを捻って、あしたからこの部屋で牛と豚のモツ肉をどうさばくかということを説明しはじめた。が、その途中でふっと、
 「あ、こななことは実地に言わな。」
と言葉を切り、不意に私の手をにぎった。
 「あんた、可愛いらしいな。」
 咄嗟に私は手を引いた。ぞっと背筋に寒気が走った。(中略)女は「あはは。」と磊落な声で笑い、
 「あんた、気が腐るほど真面目な人や。」
と言った。真面目、という言葉が押ピンの針のように、私の心を刺した。

この女の前で、生島はまるでヘビに睨まれて射竦められているカエル同然である。「押ピンの針」という言い方、じつにうまい。

 セイ子ねえさんにかかれば、生島の心の動きなどまるでお見通しで、生島がどうやらアヤちゃんに気を引かれているらしいことをすぐに察知して、「あの子はやめとけ」と釘を刺し、その後、どうやら、二人が出来てしまったことを感ずると、

「あんた、アヤちゃんに気があるんやな。」
「えッ。」
「何やいな、そなな声出して。ええ男が涎垂らすような声出しな。みっともない。」
「いや、別に私は……。」
「まあまあ、ええ。あんたの腐れ金玉が歌歌いよるが。」

と言い放つ。

 「えッ。」という短い一言に「涎垂らすような声」をセイ子ねえさんは聞く。そして、彼女にとって、生島の生と性への渇きなんてものは、「金玉が歌い出す」ようなことにすぎないのだ。ただただお馬鹿な男の欲望が、えへらえへらと体から浮かれ出てしまうような、そんな男だと生島は断じられているのである。

 セイ子ねえさんという脇役を置いたこと、「腐れ金玉」という絶妙な言葉を吐かせたことをもって、筆者はこの作品を高く評価したいと思う。以下、その話をもう少ししたい。
 
 この小説は異界めぐりの構造を持っている。小説冒頭、生島は東京で鬱々とした生活を送っている。そして回想シーンということで、このような心中未遂にいたるまでの顛末が語られるが、生島は、ソープに売られてしまうであろうアヤちゃんとは添い遂げることはなく、東京へと舞い戻ってくる。アヤちゃんが「在日」であるというのは、異界性を強調するエピソードでもあろう。考えてみれば、生島はずいぶん身勝手な男である。ヤクザみたいな男の愛人にびくびくしながら手を出して、やりたいだけやって、最後は女のほうからうまい具合に手を切ってくれるわけだ。男にしたら悪くない体験である。

 こういう小説は日本にはけっこう先例がある。鴎外の「舞姫」や川端の「伊豆の踊子」を思い浮かべてほしい。留学先や旅先という異界で美女と出会い恋愛し、女たちの将来はほったらかしにしたまま、「東京」へ舞い戻るというストーリーだ。「捨てたくなかったのに捨ててしまった」というオトコの感傷が作品の抒情を保証する。
 
 車谷のこの小説は、これらの文豪の作品とは決定的に違う。たしかに、生島は、「腐れ金玉が歌い出す」ような美女とやるだけやって、そのあと、うまいことに、アヤちゃんとつながっているところの極道の世界から手を引き、東京での生活に舞い戻った。しかし、作品に抒情は漂わない。生島は、東京へ舞い戻ったとき、このセイ子ねえさんのことを何度も思い出していたに違いないからだ。陋巷へと降りていって彷徨したインテリの生島は、当初、ほんの少し、オレは特別だという反転した特権意識をもっていたと思う。しかし、そこで待っていたセイ子ねえさんは、生島の生と性を身ぐるみ剥いでしまうのだ。生島の意気地のなさも、薄っぺらな絶望も、犯罪のお先棒をちょっとかつがされただけでビビりまくっている臆病さも、みんなこの女に知り尽くされている。えらそうなこと言っていても、所詮、あんたはただの男で、アヤちゃんとのことも、「腐れ金玉」が歌いだしただけのこと、とセイ子ねえさんは言っているのだ。この言葉には、恐るべき諧謔がある。そして、この諧謔によって、小説は明るくなるのではない。むしろ、人間の生はますます暗く、そして陰惨になる。
 
 生島は、心中もまっとうできない男。そして、おめおめと東京へ戻った男。その自覚があるから、生島は作品の冒頭で、あのように鬱々とするしかないのだ。かつて武田泰淳は名作『司馬遷』の冒頭を、「司馬遷は生き恥さらした男である」という一文で始めたが、生島はさしずめ「腐れ金玉が歌い出してしまった男である」。

 この作品は、すでに映画になっていると聞いた。金玉が歌い出すような美女であるアヤちゃんを演じるのは、寺島しのぶ。失礼ながらイメージが違う。でも、セイ子ねえさんのほうは大楠道代である。小説を読んでいるときは絵沢萌子あたりを想像していたが、たしかに大楠のほうがいい。「腐れ金玉が歌歌い出す」という台詞は、映画でも残っているだろうか。


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2008年05月08日

『若者が主役だったころ----わが60年代』色川大吉(岩波書店)

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歴史が文学だったころ

 色川大吉、ぼくにはとても懐かしい名前である。もう四半世紀ほど前、日本史学科に所属していたことがあった。やろうと思っていたのは近代史、とくに自由民権運動あたりで、その頃に読んだ色川の『明治精神史』に大きな感銘を受けたからだった。のちに、ゆえあって(後述する)、日本史からは離れて、英文科に行くことになったが、歴史(学)への興味を失ったことはない。歴史小説も好きで、本欄でも取り上げた江馬修の『山の民』とか、西野辰吉の『秩父困民党』とか、そしてもちろん藤村の『夜明け前』などを好んで読んできたのも、歴史好きのせいである。

 日本史に興味を持った理由は非常にはっきりしている。1965~67年にかけて出版され大ベストセラーとなったシリーズに、中央公論社の「日本の歴史」全26巻があって、この本の文庫版を高校生の頃に1冊1冊読んだことによる。70年代のおしまいに日本史学科に入ったころ、ぼくと同じような経緯で日本史学科に進んだ人も多数いたことを記憶している。

 この「日本の歴史」シリーズというのは、いまの出版不況の時代からすると本当に羨ましくなるぐらい売れたようである。このシリーズの一冊を担当したある著者は、この本の印税だけで東京に一軒家が建ったという。この話をぼくに教えてくれた人は、「都心ではなく高尾だったんだけどね」と付け加えていたとはいえ、このシリーズの『近代国家の出発』を担当した色川も、当時は年収よりもさらに費用がかかった2ヵ月の海外旅行費を、印税から工面したというから、やはり相当売れたのだろう。

 このエピソードにすでに明らかであるが、60年代とは、景気の良い時代であった。この時期はまさに高度経済成長の時期であり、右肩上がりの時代であった。色川は1925年生まれだから、1960年の時点において35歳、70年に45歳という計算になる。研究者にとって35歳から45歳というのは最も生産的な時代である。色川の場合もそうであって、『明治精神史』『近代国家の出発』の出版に向け、家庭をほとんど壊すほどに執筆に打ち込むことになる。くわえて、67年は明治100年にあたったこともあって、明治民権運動研究者としての色川は引っ張りだこになる。秩父困民党や自由民権運動の研究によって、自分の研究スタイルを確立する一方で、60年代安保に熱く激しく参加するあたりの回想が、この本の中心的な話題となる。

 歴史学者としての色川に興味を持つぼくとしては、彼がみずからの学者としての立ち位置をどう見ていたか、そのあたりが面白いところだった。たとえば、色川というと、左翼系の歴史家だと思われがちだし、じっさい、その通りだとも思うが、話はそう単純ではない。かつて岩波新書から出た『昭和史』(遠山茂樹、藤原彰、今井清一共著)がベストセラーになったことがある。当時は唯物史観に基づく歴史学が盛んで、この本もその線に沿った本であったが、亀井勝一郎や松田道雄などからその図式主義的な歴史把握と人間が描けていないことを批判されることになった。色川は、これに関連して、「著者たちの仲間であるはずの私が見ても当否はあきらかだった。亀井らの批判はもっともで、あの歴史叙述では生きた昭和史になっていないと思った」と書いている。

 同じく色川が批判の対象にしている歴史学者のなかに懐かしい名前を見つけた。太閤検地の研究で若くして一躍歴史学界の寵児となった安良城盛昭(のち、沖縄大学学長)である。この名前に個人的な反応をしてしまうのは、安良城の名前が、四半世紀前、歴史学と文学の、どちらを選ぶか迷っていた時代の記憶につながっているからだ。

 この文章の最初のほうで、色川大吉の『明治精神史』を読んで、心を強く揺すぶられたと書いた。それにもかかわらず、歴史学の道を放棄したのは、大学の授業などでは、クローチェがどうの、ランケ史学がどうのという高尚な議論や、あるいは荘園がどうだとか経済史がどうとか、当時のぼくには無味乾燥としか思えないようなことばかりを聞かされたからだ。歴史学にはついていけないかもしれないと思い始めたころ、若くして歴史学界を震撼させた安良城盛昭という人がいるという話を聞いた。同じ歴史学科にいた友人はそれを聞いて「自分もそういう論文が書けたら死んでもいい」と言い放ったのだが、土地所有の在り方などにそんな思い入れなど持てないと感じたぼくは、ますます歴史学が遠い存在になったのである。

 じつをいうと、色川が安良城を批判しているのは、彼の歴史家としての業績にたいしてではなく、60年の安保闘争にたいする姿勢についてなのだけれど、歴史家としての姿勢においても、色川と経済史的な安良城とはだいぶ違っていたのではないだろうか。

 そもそも、色川大吉の『明治精神史』という本は、その題名のとおり、精神についての歴史であった。権力によって伏流を余儀なくされた民衆の精神が「反乱」というかたちで噴出してくる歴史のダイナミズムを描くものであり、それは人間のドラマを描こうとした作品でもあった。北村透谷の妻の実兄で、民権運動に破れたあと、アメリカへ渡り、第二次大戦中に日本人の強制収容所で亡くなった石坂公歴へと思いを馳せるのも、歴史のなかで翻弄される人間への興味からだろうし、遠山茂樹らの歴史の描き方にも不満を持ったのもそうした色川の視線ゆえであろう。この本を読んで知ったことだが、色川はもともと演劇青年であった。経済史や政治史からではなく北村透谷研究から歴史学へ入った人であった。社会「科学」としての歴史学という言い方があるが、色川はもともと、科学よりも文学としての歴史学を志向するところがあったのかもしれない。じっさい、『近代国家の出発』は、こんな文章で始まっていた。

シベリアの荒野を二台の馬車がよこぎっている。一八七八年七月二三日、皇帝に別れをつげてペテルスブルグを出発した榎本は、モスクワよりボルガを下り、ウラルの山脈を超え、トムスク、イルクーツクをへて、シベリア官道数万キロを突っ走った。ザ・バイカルを行くときは、八月末だというのに、すでに満目蕭条、陽が落ちると気温は零下にさがった。

 色川によれば、この部分は、新聞の日曜版に載っていた、厳冬期シベリアの吹雪を突いてくる馬車の写真を見た瞬間に思いついたイメージに由来するという。「とつぜん頭のなかで序曲が鳴り渡」り、モスクワから帰国を急ぐ駐露全権大使榎本武揚が乗っているというシーンを書き出しにしようとひらめくのである。こういう執筆の裏話にも小説家的と言ってもいいような色川の資質の一端がのぞけるような気がしたし、ぼくが色川に惹かれたのも、結局は、歴史よりも文学的なものに惹かれていたからだと、四半世紀を経て、遅まきながら一人合点することになった。

 最後に、違和感をも記しておく。「若者が主人公だったころ」という題名、時代を感じてしまって、かなり気恥ずかしい。また、それ以上に、やるせないような感慨に襲われてしまったのは、政治に対する色川の「熱さ」である。たとえば、色川は、60年安保のデモ隊について「それは、すばらしい命と力のほとばしりであった」とか「かれらの美しさは、その質の深さに関連していた。なによりも打算をこえた自発的な参加の熱情から生まれているように見うけられた」と語る。社会は自分たちの力で変えられるという実感を持っていた時代が確かにあったのだ。そういう時代は、70年代安保の時代ぐらいまで続くわけだが、連合赤軍事件以後、急速に学生運動が退潮していた時代に青春時代を迎えたぼくのような世代の人間には、色川のロマン主義的情熱は眩しすぎ、いささかしらけた思いをいだくほかなかった。そのあたりについてさらに突っ込んで書くためには、一年ほど前に読み、これは自分のために書かれた本だとまで思いこんだ鴻上尚史の『ヘルメットをかぶった君に会いたい』について語らなければならないが、その話は、「若者が主役でなくなったころ」に属する物語だから、ここでは触れるのは控えておこう。


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