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2007年11月28日

『愛の矢車草』『愛の帆掛舟』橋本治著(筑摩書房)

愛の矢車草
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愛の帆掛舟
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愛の湯豆腐、あるいは昭和の抒情性について

 橋本治のものなら何でも読むという熱心な読者ではなかったので、ぼくは昭和から平成の最初に発表された橋本のこの2冊の短篇集を読んでいなかった。もともと新潮文庫から出たもので、2006年にちくま文庫で再版されたのをきっかけに読んだ。考えてみると、ぼくは最近こんな読書の仕方ばかりしている。作品自体はとうの昔に出ていて、それが新版となっているというものばかりが目に入るのだ。周回遅れの書評で面目ない。

 2つまとめて紹介する。「愛の」と題された短篇が、それぞれ4つずつ入っている。「愛の」は紋切り型の掛詞だ。この紋切り型の題名を堂々と掲げて非凡な小説を書くにはどうするか、というので、小説家としてはまだ駆け出しだった頃の橋本治が考えたのが、「世の中」的には、ちょっとヘン、と思われている題材を取り上げることだった。『愛の矢車草』を例にとると、女子大生が男子学生のマスターベーションを覗く話、中年男が中年女性のパンティを泥棒する話、中年女のレズビアン、そして小学生なのに子供を作ってしまった男の子の話。しかし、読んでみると、びっくりするほど古風で、しかもメルヘン的な作品が多い。冒頭はヘン、最後はメルヘンだ。別にダジャレのつもりもないが、そのあいだをいかにうまくつなぐかに橋本の努力が向けられることになる。

 「ヘン」と「メルヘン」の「つなぎ方」があまりにうまくて、まいりました、と頭を下げたくなったのは、中年女のレズビアンを扱った「愛の牡丹雪」である。主人公は、夫もいれば大学生の息子や適齢期の娘もいる50すぎのおばさん「額田ヤエ」。峠にあるドライブイン「讃岐亭」でアルバイトをしている。そのときに知り合った年下の女性、といってもたぶん30も半ばの、頭を角刈りにしている長距離トラック運転手「笠矧留子」とふとしたきっかけから関係を深めるようになる。ふだん、家のなかで大事にされず、淋しい思いをしていたヤエは、やがて家を出て、二間だけの部屋で留子と暮らすようになる。

 橋本がこのちくま文庫版に寄せた「習作時代のころ」(これがすごくいい文章だ)によれば、この小説を書いたときに念頭にあったのは、菅井きんと園佳也子だという。ヤエの顔にはソバカスがあって、そのソバカスは「堆肥置場の古畳」のようだとあるし、一方、「流星号」(名前がいいでしょ?)というトラックの運転手である留子は、他人の話を聞くときの姿が「全盛期の田中角栄」みたいな女性である。つまり、二人とも全然、美しくない。二人のアパートにやってきた娘からは「白豚みたいなレズビアン」だと周りが噂していると聞かされ、「不潔よッ!!」とまで罵倒される始末である。娘の言葉に傷つくヤエだが、その日の夕方になって帰ってきた留子をお風呂に入れ、背中を流し、いつもとは違って大胆にも、きれいな彼女の乳房を「大根や人参や林檎や葡萄を洗い上げる、誠実以外には取柄のない、専業主婦の熟達した細やかな指先」でもみ上げる。夕ご飯の時間がやってきて、身を寄せ合うようにして二人は暖かい部屋で湯豆腐を食べる。外では雪が降り出している。結末部を引用してみよう。

 牡丹雪はフワフワと折り重なって降り積もって、世界中が白いレズビアンで埋まっていくようなそんな宵にヤエは一人、「私は、留子さんがお嫁に行くまではどこにも行かないわ」と言った。
 留子の箸が止まって、その箸の先がブルブルと震えて、それを見つめる視線も止まって、外には雪だけが折り重なって行った。
 ヤエは黙って箸を動かした。
 「おいしい」
 湯気の仲で、その言葉だけが熱い牡丹雪のように、ふんわりと溶けて行った。

湯豆腐がポイントだ。白くて、すこしぼてっとしていて、お湯のなかでプルプル震える湯豆腐は、このシーンの直前に置かれた二人の風呂場のシーンとつながって、彼女たちの肉体の白さを髣髴させる。そして、外では牡丹雪。牡丹雪は白いはずだが、牡丹の連想から少し赤みを帯びているように思われるし、それはお風呂場で上気した中年女の肌の色をも微かに連想させる。牡丹雪と白いレズビアンたちと湯豆腐。なんじゃそれ、というような組み合わせで呆れてしまうが、橋本は、「白豚みたいなレズビアン」のイメージをここで一挙に背負い投げのようにして反転してしまうのだ。「書いていて、当人が呆れた」というこの圧巻のラストシーンにおいて、橋本は「ああ、これが小説を書くということだな」と実感したというが、同じようにぼくはこのシーンを読んだとき、「ああ、これが小説を読むということなのだなあ」と思った。

 ヤエは夫を捨て、年下の「男女」(「おとこおんな」と読む。そういう言葉が昔あったなあ)の元へ走った女性である。留子とは性的な関係もちゃんとある。そのヤエが「留子さんがお嫁に行くまではどこにも行かないわ」と言っているのが切ない。この感慨は、ヤエが実の娘のために結婚資金用にと通帳と印鑑を旧家に置いてから家出をしていることと対応している。ヤエは、レズビアンになっても、古い道徳に生きる、「誠実以外には取柄のない」オバサンであるから、レズビアンの男役(タチ)である留子についても「お嫁に行くまではどこにも行かないわ」などと呟くのだ。

 「おいしい」というつぶやきも、笑ってしまうぐらい、切ない。ヤエは留子との生活をまるでママゴトみたいに営んでいる。彼女はつまり少女なのだ。たぶんヤエは子供時代から結婚生活を経て、いまの留子との生活に至るまでずっと少女だったのであって、彼女の夢とは、ママゴトの延長上にある、裕福でなくても、しみじみと暖かい、まさに湯豆腐の夕食が象徴するような、家庭的で昭和的な幸福であった。

 こうした抒情的な作風は、『愛の矢車草』の続編として書かれた『愛の帆掛舟』の表題作にも濃厚だ。これは義理の父と娘の、(したがって)血の繋がらぬ親子の近親相姦の物語であるが、おそらく「愛の牡丹雪」と「愛の帆掛舟」を書いてしまったとき、橋本治の「メルヘン」はあまりにも早く頂点を迎えてしまった、とぼくには思える。古風といっていい抒情性は、「愛の帆掛舟」以降の作品においては稀薄になっていく。ストーリーは、ジェンダーの揺らぎ、夫婦関係そのものの揺らぎを描き始める。『愛の帆掛舟』におさめられたほかの3篇、「愛の百万弗」も「愛の真珠貝」も「愛のハンカチーフ」も、最後に、いわば「オチ」らしい「オチ」が来ない。読んでいて不安定な気持ちが残る。決着がつかない。決着のある人生、美しくまとまってしまうようなメルヘンを描くことはもう面白くもなんともない、そう橋本は言っているかのようだ。橋本は、メルヘンの先にあるものへと歩み出ている。

 ただし、「歩み出た」ことが小説にとって必ずしも幸せであったとはかぎらない。ぼくの好みで言えば、「愛の牡丹雪」「愛の帆掛舟」がこの2冊の8編のうちの傑作だと信じるからだ。じっさい、「愛の牡丹雪」については、講談社インターナショナルから出ているMonkey Brain Sushiという日本文学の短篇のアンソロジーに収められているという。アンソロジーの編者は、村上春樹の英訳者としても知られるアルフレッド・バーンバウム。よくぞこの昭和末期の恋愛小説の傑作を選んでくれたものだと思う。


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2007年11月07日

『小津安二郎の反映画』吉田喜重著(岩波書店)

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晴れたお彼岸には小津安二郎が観たい

 映画監督・吉田喜重による小津安二郎論である。初版1998年。いくつかの賞も獲った名著の誉れ高い本である。しかし、名著という言葉から想像されるような、記述の古典的均整といったものからは程遠い本でもある。分析は難渋し重複する。小津映画について語るには「小津さんらしい」という表現を使うしかないと吉田はしばしば告白し、しかし、それではいけないと再び分析と批評を展開する。進み、立ち止まり、そしてまた進む。対象にじりじり、ぎりぎりと迫っていく、その執念に圧倒される本だ。

 本書は、戦前の作品から最晩年の作品まで、小津の作品をほぼ網羅して論じているが、基本的には、吉田が小津の代表作と見る『東京物語』を中心に論じたものである。これ以前の作品は『東京物語』へと至る準備段階として、一方、『東京物語』以降の作品はこの作品の「反復」、あるいはそこからの「ズレ」であると捉えられる。

 小津についての批評に詳しい人なら、「反復」「ズレ」という言葉から、すぐさま蓮実重彦の『監督小津安二郎』(1983)を想起するだろう。じっさい、吉田は参考文献の筆頭として蓮実の本を挙げてもいる。そして、蓮実的な構造分析と、吉田の映画実作者としてのひらめきとの、幸福なコラボレーションをこの本に見てよいように思う。

 それでは、吉田の「ひらめき」の部分はどこにあるか。そのもっとも鮮やかな例は「空気枕の眼差し」を発見したことであると思う。

 空気枕の話というのは、『東京物語』のほぼ冒頭近くに出てくるエピソードである。周知のとおり、この作品は、尾道に住む老夫婦(笠智衆・東山千栄子)が東京に住む息子や娘を訪ねていくお話で、映画の冒頭近くで、夫婦は旅行カバンに荷物を詰めているところだ。ところが、カバンに入れたはずの空気枕が入っていない。そこで、夫は、そちらに入っていないかと妻に訊ねるが、妻はいや入っていないと答え、そうこうするうちに夫は自分の勘違いで空気枕はすでにカバンのなかに入れてあったことに気づく。「ああ、あった、あった」「ありゃんしたか」「ああ、あった」。
 
 そのあとに空気枕の話はない。映画はそんな他愛もないエピソードがあったことすら忘れて先へ進むのだが、吉田はこう言うのだ。
 

それをわれわれは、空気枕の眼差しと呼んでもよかっただろう。もちろん空気枕に眼差しがあるわけではなかったが、老夫婦のやりとりを黙って聴き、われわれ以上に事の成り行きを知り、それを見とどけていたのは、まぎれもなく空気枕であった。

 これだけ読むと、「はて」と首を傾げざるを得ないが、

 小津さんは、老夫婦のあいだであれほど話題となった空気枕を、決して観客にはっきりと見せようとはしない。最後に夫は空気枕を見つけて、一瞬手にするが、事もなげにそれを手ばなし、無視する。それは空気枕を観客に示さないことによって、かえっていっそう空気枕の存在、それが投げかける事物としての眼差しをわれわれに気づかせようする、小津さんらしい表現の抑制、あるいは欠如による逆説としての表現であった。

と続くと、いくぶん、いや、だいぶ分かってくるのではないだろうか。

 この場面と殆ど似た構図を持ち、(蓮実的な言葉を使えば)説話論的にも同型のシーンが、映画の終わり近くに存在する。空気枕の場面の「反復」とそこからの「ズレ」はここに登場する。映画では、東京から故郷へ戻る途中で具合が悪くなった妻は、尾道へ辿り着くとほどなく寝たきりとなり、数日して亡くなる。子供たちが東京、大阪から集まってきて葬儀が執り行われ、葬儀が終わるとやがて子供たちは我が家へ帰っていく。ひとり残された老いた夫は、ひとり団扇をゆらしながら、外の光景を見つめている。その場面は、作品冒頭の、夫婦が並んで座って空気枕について語る場面をほとんど反復するかのような構図であるが、妻のいたところだけがぽっかりと穴が空いたような不在の空間となっている。その不在の空間はそこにいた人の姿を映画を観る者にありありと想像させる。そして、そのことにより、「老人が背にする不在の空間には、まぎれもなく亡き妻の、あの世より送る眼差しがみちあふれ」るのである。

 つまり、小津の映画の要諦は、「不在」「欠如」による表現なのである。「あったものが今は存在しない」ということを表現することを通じて、「今は存在しないものの存在」を表現すること、つまり、不在のものの眼差しをそこに顕現させることなのだ。悲しみ喜び怒り笑う人間のドラマを、静かに、そして誰をも告発せず誰をも断罪しない眼差し。その眼差しは、あるいは空気枕の眼差しであり、亡き妻の眼差しである。眼差しは、人物の側にあるのではなく、人物を取り囲む側(モノ、不在、彼岸)に無数にある。そして、吉田は、こうした「事物の側に立って人間を眺める」映画、逆に言えば「人物の側に立って、事物を眺める」通常の映画の作法とは異なる小津の映画を「反映画」と名付けるのである。

 本書の成功は、ひとえに「空気枕」のエピソードに、小津映画の構造を凝縮して見て取ったところにある。空気枕を発見した吉田喜重の批評的眼力は、とんでもなく鋭い。空気枕とは、モノでありつつ、空虚、不在を含んだものである。人物の眼差しと不在の眼差しのあいだに、「空気枕」は存在する。吉田は、そのようなモノとしての空気枕の眼差しが、やがて不在の眼差し(不在の眼差しとは言い換えれば、彼岸の眼差しということだ)へと、ズレながら反復していくドラマとして『東京物語』を見ているのだ。

 「彼岸」という言葉を書いて、いまひとつ思い出したことがあるので、最後に書いておきたい。むかしから、ぼくは、お彼岸の季節になると、小津映画が観たくなるのである。それも晴れた日に。お彼岸の時期に小津の映画がテレビで放映されていたからかもしれないし、その時期には晴れの日が多いという理由からなのかもしれない。しかし、なぜその時期を選んで小津映画は放映されるのだろう。

 そういえば、小津安二郎の映画には「夏」と「冬」の付く題名の作品が存在しない。『晩春』『麦秋』『早春』『秋日和』『秋刀魚の味』、「春」と「秋」が小津映画において特権的な位置を占めるのである。しかし、吉田の小津論を読んでいると、小津映画とお彼岸の相性の良さの理由が分かるような気がするのだ。春と秋の彼岸の季節、私たちはこの世にいない人たちのことを思う。それは、「不在の眼差し」を感得し、その眼差しでもって自分の存在を見ることでもあるだろう。その意味において、小津映画とは、それが放映される時期だけではなく、その作品の構造から言っても、お彼岸の映画と言ってよいのだと思う。

 わたしたちは、お彼岸の墓参りの折など、空から射してくる陽の光を、彼岸からの、死者たちの聖なる眼差しと考えることはないだろうか。吉田は『東京物語』の最後の場面について次のように語っている。
 

映画の最後に映し出される尾道の海の情景、汽笛を鳴らしながら海峡を遠ざかる船の映像は、陽の光をまばゆく浴び、しかもまばゆく浴び、しかもそれが鳥瞰図的なロング・ショットで捉えられているだけに、遠い彼岸のかなたより夫を見守る亡き妻の、その聖なる眼差しが息づき、宿るしるしにほかならなかった。
 
 



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