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2007年09月03日

『晩夏(上)(下)』 アーダルベルト・シュティフター・著 藤村宏・訳 (筑摩書房)

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偉大な退屈読本

 もう何年前のことだったろうか、アメリカのニュース週刊誌『タイム』だったと思うけれど、有名な小説作品を最後まで読み通すことができた読者の割合を調査してグラフ化していた。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は10パーセントぐらい(詳細は忘れてしまったので数字は正確ではない)、スティーヴン・キングのミステリだったかは70パーセントとか80パーセントぐらいだっただろうか。

 19世紀のドイツの代表的な教養小説として名高いシュティフターの『晩夏』はどうだろう。ぼくの予想では、たぶん100人中98人ぐらいは退屈だと言って投げ出しそうな小説である。つまり、読了率は2パーセントぐらい。

 ぼくがこの小説を読んだのは実はもう3年も前のこと。このブログでは、本の写真としてちくま文庫版を掲載しているが、ぼくが読んだのは集英社版の1冊本だった。ページをめくってはため息をつきながら、1カ月ぐらいかけてやっと、本当にやっと、という思いで読み終えたことを覚えている。『晩夏』は、おそらくぼくが読んだ小説のなかで、もっとも退屈な小説のひとつである。佐藤春夫に『退屈読本』という題名の本があるけれど、『晩夏』は「退屈そのものの本」という意味での「退屈読本」だ。

 とにかく、『晩夏』は、ゆっくりとした小説である。この小説ののろさというのは相当なもので、この本を読んでワクワクドキドキする人がいたら会ってみたいものである。

 それで、お話はというと、こんな話である。一人の若い自然科学者が調査に行った先で雨宿りをさせてもらった縁で、オーストリアのアルプス山麓にある館に隠遁するかのように住んでいる老貴族と知り合う。青年は老貴族の人柄にひかれはじめ、毎年夏になるとその貴族の館を訪ねるようになるが、そのうち、その館でひとりの女性と出会い結婚する。その女性というのは、その貴族と結ばれることのなかった女性の娘という設定である。つまり、親の世代が果たせなかった結婚を、老貴族の精神的息子が実現するというわけだ。

 なにも起こらないのについつい読まされてしまうというので定評があるのはジェイン・オースティンの小説であるが、シュティフターにあっても、オースティンの小説同様、ほとんどたいした事件も起こらない。なお困ったことに「ついつい読まされる」ということもないのである。ほんとうはオースティンの小説ではいろいろなことが起こっている。男女の駆け引きがあり、恋のライバルどうしのさやあてがあり、意地悪な語り手の皮肉がある。たしかに殺人だとか奇想天外な事件はないけれど、話には山もあれば谷もある。緊張と弛緩がある。ところが、シュティフターの場合、そういうものがびっくりするほど何もない。貴族の家の部屋を一つ一つ丁寧に回ったり、館に陳列されている彫刻を見たり、家を取り囲む美しい薔薇の園を経巡ったり、そんなことばかりを、とくに力を込めてという感じではなくて、平板に記していくのである。最後のほうになって、主人公がやっと結婚するあたりになると、老貴族がなぜ隠遁的な生活を送ることになったのか、なぜ愛し合った二人は結婚できなかったのかが語られて、少しばかり筋らしいものが出てくる。それまであまりに事件がなかったものだから(それとも、あともうちょっとで読み終わるから、という期待からか)おお、やっと!と誰にともなく手を合わせて感謝したくなるほどだった。

 シュティフターのこの小説は、「反小説」と呼んでもいいような小説である。この小説には悪人というものが存在しないし、内面の葛藤もない。善と悪、幸福と不幸の落差がなければドラマは生まれないものだが、この小説には、そういう落差がほとんどない。毎日の生活は平穏無事かつ単純かつ質素に過ぎていく。シュティフターにあっては、面白おかしく語ろうというような、そんな俗っぽくて人間くさい欲望は無縁である。夏の薔薇が咲き誇る美しい世界のなかで、殆どドラマとも言えぬような密やかなドラマが無言劇のように展開するのである。盛夏を持つことなく晩夏を迎えてしまった、いまや年老いてしまった老貴族と老婦人。それと入れ替わるようにしてこれから盛夏を迎えようとする若い二人。貴族の館を美しく飾る薔薇の園のなかで静かに進行する生と愛。晩夏は挽歌であるとすれば、生と愛だけでなく、ここには死の影も差している。肉体は滅ぶが、精神というべきものは継承されていくことが暗示されて小説は終わる。

 ゆっくりとした小説だから、ゆっくりとしか読めない。その結果、必然的に長い時間をこの本の読書に投入していくことになる。時間が止まったような小説を長い時間をかけて読み、ふと気づけば、小説内部の世界も、読書をする時間も、確実にゆっくりと過ぎていたことに気づくような読書体験を経て、1年たち、2年が経つうちに、不思議なことが起こる。読んでいるときにはあんなに退屈だったのに、高潔な小説だったなあ、という思いがつくづくわき上がってくるのだ。この本を読み終えてから3年が経過したが、晩夏がめぐってくるたびに、ぼくはこの小説のことを思い出している。『晩夏』は心のなかに住みついていて、この小説を抜きに晩夏という季節を考えることすらできなくなっている。

 こういう読書体験は、本を読むことの意味を改めて考えさせられる。ハラハラドキドキ、ああ、面白かった、と言って読み終わったものの、数週間も経つと中身をすっかり忘れているような小説がある。その一方で、このシュティフターのような小説もある。本というものを、消費すべきテキストとして、知の詰まった情報の箱みたいなものだと思っているような人には、『晩夏』は無縁のままであろうし、この緩やかな小説を読むことはただただ時間の無駄と感じられるだろう。『晩夏』のなかに生きている人たちや、そこに流れている時間と毎日向かい合うことは、テキストの情報を簒奪していくような読書とはまったく違う体験である。ゆっくりと流れる時間を経験することで得られるのは、有意味の情報やストーリーの面白さではなくて、小説とともにゆっくりと時間を過ごしたという体験そのものなのである。そもそも、この小説で起こっている最も重大なことは、時間が緩やかに経過するということだけなのかもしれない。

 『晩夏』は、何事かを学び、何事かに感動するためには時間の熟成が必要であることを教えてくれるような小説である。そのことを納得するために時間を費やしてみる覚悟を決めた方、それは間違いなくthe Happy Few(幸せなる少数者)だとぼくは断言する。

 シュティフターといえば、若き日の北杜夫を感動させた『水晶 他三篇』や、『森の小道・二人の姉妹』といった短篇集も岩波文庫で読むこともできるが、長篇小説には短篇小説では味わえない「時間の体験」がある。だから、敢えて『晩夏』を推薦する。読み始めるのに季節も悪くない。いまは晩夏。

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