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2007年08月27日

『『薔薇族』編集長』伊藤文学(幻冬舎)

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同伴者としての栄光

 職業柄、編集者が書いた本は気になる。名編集者として知られいまは作家となった高田宏さんの『編集者放浪記』。「哲ちゃん」の名前でテレビでもおなじみの筑摩書房の松田哲夫さんの『編集狂時代』。最近のものでは、美しい文芸書の出版で知られた小沢書店の社長だった長谷川郁夫さんの『藝文往来』(平凡社)。それから、ぜひともお勧めしたいのがエロ漫画編集者・塩山芳明さんの『出版業界最底辺日記』。無類の読書家による、ニヒルでシャイな語り口に痺れる。

 ここに紹介する伊藤文学さんは、日本ではじめて男性同性愛雑誌を創刊した方である。『薔薇族』の名前を知らない人はいないはずだ。薔薇族、そしてレズビアンを指す百合族、ともに伊藤文学さんの造語である。この2つの言葉を日本社会に定着させただけでも後世に記憶されていい編集者だ。

 伊藤さんは父親が設立した第二書房という出版社を引き継いだ二代目社長である。この第二書房というのは、豪華な文芸書出版で知られた長谷川巳之吉が創立した第一書房に父親が勤めていたことから命名された(巳之吉については、上で名前を出した長谷川郁夫氏が『美酒と革嚢 第一書房・長谷川巳之吉』(河出書房新社)という本を書いている)。伊藤「文学」という名前はどうやら本名らしいのだが、文学好きの父親ゆえの命名だったのだろう。

 この本はおもしろい本だ。読んでいてほんとうに幸せな気持ちになる。

 『薔薇族』という雑誌はどういう雑誌であるか。むろんそれはゲイ雑誌である。創刊された頃には同性愛は薄汚いものだと思われていたという。ところが、創刊号の相談に乗ってくれた方(むろん、同性愛者である)の家に行ったら、自分の家とは全く違って、趣味のいい、ものすごくおしゃれなマンションだったというのだ。その印象が強いものだから、ゲイ雑誌は薄汚い印象を与えてはいけない、だから費用はかかっても紙はつるつるしたアート紙を使ったという。雑誌1冊の値段は500円。これなら500円札1枚で買える。おつりが要らない。この雑誌を買う人はレジでおつりを待っているちょっとの時間が恥ずかしくて仕方がない。だからおつりの要らない値段にしてある。読者への細やかな気遣いがうれしいではないか。

 この本は、『薔薇族』がどんな特集をし、どんな反響を呼んだか、その栄光の歴史を自慢するために書かれた本ではない。「オレが、オレが」というような自己主張がこの本にはない。淡々と、そして飄々とした書きぶりである。そして、伊藤さんは、自分のことよりも、編集の過程で出会ったさまざまな同性愛者たちを、本当に飽きもせず、こんな人もいた、あんな人もいたといって書き記す。

 投稿から出発して『薔薇族』に数々の傑作を投稿してくれた楯四郎さん。創刊当初からグラビア用の写真をたくさん提供してくれた「同性愛の生き字引」間宮浩さん。そして、数々のイラストを提供してくれた人たち。読者からの投稿もたくさん紹介される。妻も子供もいて、しかも妻は自分が同性愛であることを知っていて、『薔薇族』に投稿を勧められて、こうして書いています、と書いてきた読者。パートナーを見つけられないまま年老いていく孤独な毎日を訴える読者。『薔薇族』を万引きしたことがばれて自殺してしまった高校生のことを書いてきた、同じく同性愛者の書店員。「肉親にホモがばれた時」というアンケート企画への回答の数々。いろんな愛の形があり、小説より奇なり、というほかない、さまざまな生と性の物語がある。伊藤さんの目は常に優しい。伊藤さんはこういう人たちをすごく愛しているんだなあ、と思う。

 いま、ぼくは、「伊藤さんはこういう人たちをすごく愛している」と書いた。わざとこういう微妙な言い方をしたのだけれど、伊藤さんはいわゆるゲイではない。妻もいれば子供もいる。むろん、世間体を保つために、妻も子供もいる同性愛者もいるのだけれど、少なくても伊藤さんは自分は「ノンケ」(=非同性愛者)であると自称する。つまり、伊藤さんは、ついに同性愛者の「同伴者」として留まるのだ。だから、ときに、「ノンケだから分からない」というような批判も浴びせられることになるのだけれど、伊藤さんは彼なりのやり方で同性愛の人たちを愛しているといってよい。これも、ひとつの愛の形である。

 伊藤さんの編集者としての生き方というのは、じつは、編集者という人種の一つの典型ではあるまいか。むろん、趣味が高じて碁の編集者になったとか、詩人でありつつ詩の編集者であるという人もいるだろう。しかし、多くの場合、編集者はその雑誌の著者や読者たちとは趣味も違えば考え方も違うのが一般的だろう。それにもかかわらず、編集を続けることができるのは、そういう人たちの「同伴者」という位置を取ることができるからだ。自分をすべて譲り渡すわけではなく、他人と一線を画しつつも、その人たちへの親しみと敬意から、その人たちの同伴者となること。伊藤さんの編集者人生とは、まさに同伴者としての人生だったのだと思う。
 
 『薔薇族』は数年前、休刊になったことがある。伊藤文学さんはこんなことを言っていた。――この雑誌のかつての「売り」は文通欄だった。同好の士がパートナーを見つける場所として、一時期は1万通以上の投稿があったという。ところが、いまはゲイの人たちが気軽に出会うことができる場所も増えたし、伝言ダイヤル、さらにはインターネットの掲示板などで、気軽にパートナーを見つけられる時代になったため、部数が3,000部を切り休刊にせざるを得なくなった、と。ネット文化の前に、『薔薇族』は、そして「文学」は敗れたのだが、いままたこの雑誌は何度目かの復刊を遂げた。文学は、不死鳥のごとく健在である。

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2007年08月21日

『滝山コミューン一九七四』原武史(講談社)

滝山コミューン一九七四 →bookwebで購入

学園は天国でしたか?」

  作詞家の阿久悠が亡くなった。追悼番組では70年代のヒット曲が次々と流されていて、この曲もあの曲も阿久悠だったのかと驚かされる。さらに驚いたことに、ぼくはそれらの曲をほとんど空で歌えるのであった。70年代は小学校から高校卒業ぐらいまでに当たるが、その10年を象徴するものの一つが阿久悠の歌だったわけだ。

 本書の著者で歴史学者の原武史さんにとって、70年代の思い出は歌謡曲ではなく「滝山コミューン」だ。滝山コミューンというのは、西武線沿線に建設された滝山団地近くにあった滝山第七小学校のことで、当時、そこでは、民主主義的な教育を目ざした教師と子供の親たちによる濃密な共同体ができていたという。しかし、全国生活指導研究協議会、略称「全生研」の指導理念に基づく集団主義的な教育は、少年の原さんにとっては、偽善に満ちたものとして映る。「出来レース」でしかない委員会選挙、競争で行われる班活動と連帯責任、集団の理想に反する行動を取る班や個人の糾弾。それは皮肉にも戦前・戦中の軍隊みたいな世界であった。原さんは、どうしてもなじむことのできなかった滝山での体験を圧倒的なディテールでもって再現していく。

 一般に、1972年が日本社会の転換点であるとはよく言われるところである。その年は連合赤軍事件、日中国交回復、沖縄返還があった記念すべき年だ。井上陽水が、都会での自殺者よりも政治よりも自分にとって問題なのは「傘がない」ことだと歌ったのもこの年。政治の季節はこの年を境に急速に収束していくというのが一般的な歴史観である。しかし、原さんによれば、73年、74年も政治の季節は続いたという。じっさい、この時期、衆議院選挙では共産党が躍進していたし、日教組も権力と鋭く対峙していた。そういう歴史的な連続性を強調しようとしていることと、『滝山コミューン一九七四』という書名が坂口弘の『あさま山荘一九七二』を思わせるものになっていることはおそらく偶然ではない。

 原さんは歴史学者だから、みずからの個人的な体験を歴史的なパースペクティブのなかで描き出すことになるのだが、おもしろいと思うのは、歴史家として語るという意識が、ときに意図せざるユーモアを生み出している点である。たとえば、次のような一節。

「七小で4年5組が台頭する時期は、日本の政治においても革新勢力が躍進し、保革伯仲の状況が生まれることで、変革への期待が高まる時期に当たっていた」(68頁)
 「私の予感は当たった。6年5組の児童は、それぞれの委員会で掲示委員会と同様に立候補の「方針」を読み上げ、十一ある各種委員会委員長のポストを思惑どおり、ほぼ完全に独占したのである。
 春闘はこのころ、最大の山場を迎えていた」(142頁)

 4年5組とか6年5組とかいうのは、滝山コミューンを主導する意欲的な若手教師が担任をしているクラスのことで、このクラスが民主主義の美名のもとに滝山七小全体を支配していくことになるのだが、このあたりを読んでいて、思わず笑ってしまった。4年5組が「台頭」したり、6年5組の児童が「方針」を読み上げ、ポストをほぼ完全に「独占」したりするという言い方には、むろん当時のクラス運営への皮肉が込められているわけだけれど、描き方が少しばかりドラマチックすぎて、なんだか可笑しいのだ。滝山コミューンというと、それらしいが、(こう言っては失礼だが)要するに滝山七小の話にすぎないからだ。滝山七小の出来事が保革が伯仲する政界やら春闘やらと同一の資格で言及されるのは、やはり滑稽だろう。

 原さんが記す滝山コミューンはかなり息苦しい場所である。その点、滝山コミューンという閉鎖空間からの逃れの場として、進学塾で有名な四谷大塚が救いになったことを正直に告白しているエピソードに来ると、原少年の伸びやかな声が聞こえてくるようだ。正確に言うと、原少年が四谷大塚に救われたのは、そこでの勉強が楽しかったというよりも、通学途中、新宿駅を通過するときに「松本ゆき普通423列車」を眺めることができたり、中央線の快速に乗ることができたからだ。原少年は鉄道オタクだったのである。だから、原さんは、滝山コミューンの最悪の思い出となった夏の林間学校へバスを使っていくことになったときに、林間学校成功のための準備に余念のない同級生たちを冷ややかに眺めながら、どうせだったら「松本ゆき普通423列車」で行きたかったのに、などと身勝手な夢想にふけることになる。子供らしい思い出が語られていることに、読者であるぼくもほっとする。そして、じっさい、原さんにとって、滝山コミューンへの違和感の根源は、大人の真似っこをさせられて「子供が子供らしく」いることができないことにあった。

 原さんはぼくと同世代である。ただし、原さんの思い出とぼくのそれとはあまり重ならない。原さんにとっての滝山コミューンがディストピアであったとするなら、ぼくが通った茨城県石岡市立東小学校(という名前なのです)は牧歌的なユートピアであった。そういえば、73, 74年頃に沖縄出身のフィンガー5の歌が流行っていた。ぼくはいまでも阿久悠が作詞した彼らの「学園天国」を歌うことができる。

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