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2014年03月23日

『評伝 野上彌生子』岩橋 邦枝(新潮社)

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「努力型知性という作家ハビトゥス」

 評者は、野上彌生子の小説では、岩波文庫上下二巻の『迷路』を読んだのみである。それも野上彌生子への関心というより、満州事変前後から敗戦直前までの学生やインテリ文化がどう描かれているかを知りたいとおもったのが動機だった。作家野上彌生子に特段の興味があったからではない。

興味がなかったというより意図的にパスしていたようにおもう。では何故、野上彌生子という作家を避けたのか。いまとなってはわかりやすいが、わたしどもの年代の男にありがちなジェンダー・バイアスである。といっても女性作家故に避けたわけではない。林芙美子や佐多稲子などの小説はそれなりに読んだからである。彌生子が英文学者野上豊一郎を夫として、その縁で漱石人脈につらなった理知的作家であるという印象が彼女の作品を遠ざけた大きな理由ではないか、といまにしておもう。体験派でも情感派でもないという印象があったが故に、野上彌生子の作家ハビトゥスを二流の男性作家とみなし、避けたのではないかとおもう。女流作家のおもしろさの所以は、理知的よりも体験的・感覚的という刷り込みのなせるわざだった。

野上彌生子は、夫豊一郎の協力によって作家環境がととのえられ、また地方ブルジョアである実家の援助もあって、他の女流作家のような生活苦とは縁遠い環境にあった。彌生子は3人の子供にめぐまれたが、子供のおしめを洗ったことがないほどだった。お手伝いは2人もいたからである。彌生子は「知的成長」をめざし、類い稀な勤勉さで孜々として創作に取り組んだ。健康と長寿にもめぐまれて、逝去する99歳まで創作を続け、一作ごとに成長を遂げた。初期の芸術肌というより学問肌小説の欠陥をそぎ落とし、歳をとるほど艶も奥行もある作風をもつにいたり、『秀吉と利休』や『森』などの長編小説を完成させた。端倪すべからざる作家なのである。1965年に文化功労者、1971年に文化勲章を受章している。著者は野上彌生子こそ情感主義的「女流」作家・「女流」文学を脱したインテリ「女性」作家・「女性」文学の先駆けだと言っているが、けだし至言であろう。

本書は彌生子(本名ヤエ)が大分県臼杵町の屈指の商家の長女に生まれ、明治女学校に進学したあたりから、晩年の哲学者田辺元との恋愛までの生涯を作品と生活にもとづいて描出している。彌生子の膨大な日記、そして安倍能成や田辺元など関係者の日記や手紙の中の彌生子を合わせ鏡にすることで彌生子の人間像を再現していく。

そこで得られた彌生子像のひとつが、庶民へのさげすみ、亡夫豊一郎にふれたところでの「私立ながらとにかく大学で教え」にみられるような官学インテリ好みを摘出している。そのような彼女の性向が彼女の出自がブルジョアであっても地方の商家であることによるとも言及されている。つまり彌生子にとって上流階級文化は成長して身につけなくてはならなかったからである。女流作家が知的に劣ることをづけづけと日記に書いたのも、彼女自身が努力してインテリにならなければならなかったからであろう。おそらく彼女のこうした他者へのまなざしには彼女の「容貌コンプレックス」も介在していたであろう。こうみてくると、彌生子の知性中心主義には日本の教養主義が農村的であり、都市ブルジョア的ではないとしてきたわたしの主張(『教養主義の没落』、「解説 岩波茂雄・岩波文化・教養主義」村上一郎『岩波茂雄と出版文化』)とも重なってくる。

ところで、この本には、珍しいことだが著者の略歴がつけられてない。昔、なにかでみたことのある名前だと読書の間、喉に刺さった骨のようだったが、巻末に著者が昭和31年に石原慎太郎の呼びかけで集まった「二〇代作家の会」に「学生作家」としてつらなっていたことが書かれている。ここでやっとおもいだした。そういえば、著者の初期の作品が「女石原慎太郎」といわれていたことがある、と。彼女の略歴はウィキペディアにみることができる。1934年生まれだから、いま79歳。中断はあったものの、著者も作品を書き続けている。そんな著者の来歴も生涯現役作家の野上彌生子に興味をもった所以なのかもしれない。

最後にふれておきたいことがある。近年は評伝ブームだが、評伝は資料が多いだけに書こうとおもえば、牛の涎のようにいくらでもだらだら書くことができる。冗漫さに辟易する評伝に出会うことがすくなくない。本書は、評伝ものでは、ページ数は少ないほうである。枝葉末節の部分をそぎ落としたものとなっていて、最後まで倦むことなく読み切ることができる。さすがキャリアの長い作家によるものと、筆力に感心する。



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2014年02月18日

『「つながり」の戦後文化誌』長崎 励朗(河出書房新社)

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「大衆教養主義の顛末」

労音といえば、年配の読者はなつかしいものがあるだろう。わたしは1960年代後半の大学生のとき、3人でないと入会できないからと友人に言われて京都労音に入会した。低料金で音楽を鑑賞できることや友人と一緒に行動できることなどが誘因となり、京都会館で催された音楽会によく行ったものである。クラシックだけでなく、ジャズやシャンソン、ミュージカルはあったが、日本の流行歌はなかったことをいくらか不思議におもったことが記憶にある。

本書はこの労音の発祥地である大阪労音(大阪勤労者音楽協議会)の立ち上がりの1949年から、全盛期、そして衰退(大阪新音楽協会と改称された1974年)にいたるまでを丹念に後づけ、かつダイナミックな分析をしている。大阪労音が成功すると、翌年、京都労音と神戸労音が誕生する。1952年には和歌山労音が発足する。そしてその翌年東京労音が生まれ、全国に労音が広がる。ピーク時の1960年代で労音の会員は全国で約60万人、大阪で約15万人。全国で最大の音楽鑑賞団体だった。

文化の発祥地といえば、多くの場合は東京で、下流文化が大阪発ということになっているが、労音の発祥は大阪で、そのあと京都や東京にできたという経緯がおもしろい。大阪労音の企画やプロデュースが宝塚歌劇とつながっていたからだ。そして、のちに万博ともつながっていく。
本書は、労音の中でも最大の団体だった大阪労音の盛衰を資料やインタビューにもとづいて克明に再現したものであるが、同時に、鋭い分析視角を用意している。それは、労音を戦後の大衆教養主義と人々のつながりの団体という視点からみていることである。わたしが1960年代後半の労音では、日本の歌謡曲はなかったことを不思議におもったと言ったが、労音は戦後の大衆教養主義を地で行った団体だったからこその西洋音楽中心主義だった。

そう、大衆が背伸びすることによる大衆的教養主義の波にのって会員が「文化的上昇感を獲得」できることで労音文化が花開いたのである。労音の衰退はこのような背伸びする大衆文化が没落したときなのだが、著者は会員数と大学進学率とのカーブから大学進学率16%をこえるころから労音の衰退がはじまったとする。労音が大学における音楽文化(若者文化)の代替物を中高卒者に与えてきた構造が変化したからである。さらに若者にとって「背伸びの対象となる文化は単に「高尚」であるだけではなく、「自分たちが新たなものを作り出している」という創造的参加感覚の認識がともなわなければならない。労音衰退の原因を創造的参加感覚がしだいになくなり、教養そのものになってしまったことによるとしている。従来の教養論の虚を衝く指摘である。

同時に労音は人々のつながりという社会関係資本を提供したという指摘も重要である。50年代、60年代は地方からの集団就職の時代であり、都会にやってきた若者には孤独感が大きかった。社会関係資本(つながり)を求める当時の上京青年の寂しさを摘出したことも、当時を同時代で知るわたしには、なるほどとおもえるものだった。当時、『人生手帳』などの人生雑誌がそのような機能を果たしていたが、その音楽版だったとおもうと、腹にストンと落ちてくる。このあたりは感情の歴史社会学としても重要な指摘となっている。こうした創見が柔らかく、読みやすい文章で書かれていて、処女作とはおもえないこなれたものとなっている。

労音を扱った小説には山崎豊子『仮装集団』(新潮文庫)がある。左翼政党「人民党」(共産党)が労音に介入したことによる共産党とノンポリの主人公の対立という筋立ては、本書を読めば現実とは少し違い、あくまで小説仕立てであることもわかる。

と、ここまで書いてきたが、本書の「あとがき」にあるように、実はわたしは著者とは研究会などでたびたび一緒になった。それだけではない。二人ともいまやマイノリティのスモーカー。休憩時間に喫煙場所で、よく雑談をした仲である。その縁(煙)もあって、本書の推薦文をいわゆる腰巻の部分につぎのように書いている。「『つながり』を生み出しうる文化の洞察にいたる技が冴え、見事な筆力。後生畏るべしの作品!」。この書評を、そう書いた理由として読んでいただければと思う。



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2014年01月29日

『新京都学派』柴山 哲也(平凡社新書)

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「学問の世界のフィールドワーク」

 京都学派とは、西田幾多郎、田辺元、和辻哲郎など京都帝国大学の哲学科を中心にして集まった哲学者の学風として、昭和初期に生まれた呼称である。戦後になると、桑原武夫に率いられた京都大学人文研究所の学者たちがジャーナリズムで活躍したことから、京大人文研に連なる人材を「新京都学派」と呼ぶようになった。わたしに新京都学派という呼称の憶えがあるのは、一九六五年の小松左京の論文からだが、もっと前からいわれていたのかもしれない。

 いま一九六五年といったがわたしの大学四年生のときで、河野健二、上山春平、加藤秀俊、井上清、梅棹忠夫などの先生については、学内非常勤で教育学部や教養部で授業を聞いた。もっとも学内非常勤といっても教養課程や教育学部のことであったからかもしれない。同じ京大でも文学部には、京大人文研の、とくにジャーナリズムで活躍していた先生が教育学部ほど学内非常勤で出講していなかったのではなかったか。というのもわたしがあるとき文学部の先生に新京都学派と目される先生について、「おもしろいですね」と言ったときの反応が、「あれは新聞記者だよ」と吐き捨てるように言っていたことを憶えているからである。だから、アカデミズムの殿堂とおもっていた文学部の先生は、もしかすると、新京都学派などという呼称は元来の京都学派を汚すものとして気に入らなかったかもしれない。そんなことも思い出した。

 一九八七年には洛西の地に国際日本文化研究センターが開設されるが、この開設のリーダーが桑原武夫と梅原猛の新京都学派であり、研究員には京大人文研所員や新京都学派の面々がなった。そこで本書は京大人文研と国際日本文化研究センターを新京都学派の牙城として描いている。新京都学派の代表的学者の研究を専門外の人にもわかりやすく説いていて読みやすい。

 新京都学派のルーツである桑原の学問については、「西欧、中国、日本の基層文化の三角形の三つの点を自在に移動しながら(日本の文明について)思考している」という指摘や桑原には「米国の影が薄い」という指摘になるほどとおもった。著作からの新京都学派の紹介だけではなく、著者は学芸部記者としてこれらの学者をインタビューしたことなどで親しくつきあってきた。そのときの話を「あるとき桑原はこんなことを言った」というように織り交ぜている。今西の家にいって、犬にほえられて立ち往生した話なども入っていてリアルである。その意味では、本書は著者のフィールドワークの成果でもある。京大人文研の大衆文化研究班が、岩手県北上山脈の村に出かけていって「農村における美人の調査」などをおこなったことなど、まだまだ硬いアカデミズムが強いときに画期的な研究がなされていたのだとあらためておもう。

 著者は観察者だけのフィルド・ワーカーではなく、ジャーナリストとして仕掛けも用意した。国際日本文化センターが開設のころ、アカデミズム史学者たちがこぞって反対していた。そこで著者は「朝日新聞」紙面に紙上討論会を設けた。ドナルド・キーン氏だけが賛成で、あとは反対の論陣をはった。反対者の中には鶴見俊輔もいた。鶴見はこう言って反対した。国際日本文化研究センターは、「(中曽根)首相に学者たちが直訴して実現した。私は好ましくないとおもう。・・日本人だけに日本が分かるという観念を断ち切ることが必要。(後略)」。しかし、この紙上論争によって国際日本文化研究センター設立をめぐる賛否の流れがかわったというから、著者の仕掛けの功績は大きかったということだろう。

 こうして新京都学派は時代の寵児になった。桑原や梅原、梅棹など類まれな研究組織指導者がおり、所員に才人を集めたことによるが、時代もまたこれに呼応していた。日本が豊かになり、欧米の研究の訓詁解釈学のような輸入学問や先進国の学者の「竹馬(に乗る)学問」にあきたらなくなっていた。まさに昭和戦前期の京都学派が時代の寵児になったのは、「近代の超克」のように日本の独自性やアイデンティティをもとめていたことによってだが、それと同じような状況ができたことによる。さらに、戦後、エリート文化でもなく大衆文化でもない「中間文化」(加藤秀俊)の厚みがまし、成熟しつつあったことをサポーターとしながら、また新京都学派の研究がそうした中間文化を成熟させていくという好循環のもとに花咲いた。新京都学派が凋落し、その欠を埋めるものがないのが、現在であろう。いまとなっては、こう問わざるをえない。いったいあの好循環はなぜ生まれ、何故終焉したのだろうか・・。


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2013年11月11日

『物語岩波書店百年史2 「教育」の時代』佐藤 卓己(岩波書店)

物語岩波書店百年史2 「教育」の時代 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「岩波文化の実像と虚像をたっぷりと描く」

本書336頁(第8章「午後四時の教養主義」)に岩波書店主催の文化講演会についてふれられている。1958年6月後半に新潟市・両津市などで開催された、とされている。実はこのとき(6月22日)、会場両津中学校でこの講演を聞いていた1人がわたしである。高校2年生だった。岩波新書で知っていた清水幾太郎の姿をこの目で見、肉声に接したいと参加した。

大学2年生までは、文庫といえば、岩波文庫、新書と言えば岩波新書、総合雑誌といえば『世界』という岩波ボーイだった。1960年代あたりまでに学生生活を送った人には、岩波書店をめぐるそんな思い出がそれぞれにあるだろう。本書はそんな在りし日の思い出を振り返りながら読め、若い世代には、近代日本の知的文化の歩みをその象徴である岩波文化の実像と虚像から知ることができる格好な書である。

本書の内容に入ろう。本書は、1930年代から60年代までの岩波文化と岩波知識人を描いている。戦中期の出版文化や読書文化、言論統制、そして、戦後の平和問題談話会など、読者が岩波文化として思いだすものに目配りが十分なされているが、論述の焦点は、「教育」である。国民国家とは『教育国家』にほかならず、岩波書店は、「紙上の大学」として「教育国家の中核メディア、帝国大学とその機能を分有していた」からである。

しかし教育をめざしたといえば、岩波書店よりも「私設文部省」といわれた講談社を思い浮かべるだろう。そこで、著者は、大衆教育を目指した講談社は「初等教育局」(同時代用語では「普通学務局」)で、学術書中心の岩波は「高等教育局」(同時代用語では「専門学務局」)に該当するという。量的には前者が多いが、社会的威信では圧倒的に後者であろう、と。「高等教育局」の岩波書店であればこそ、岩波の講座などの執筆者は東京帝大や京都帝大などの官学教授が中心だった。

しかし、東京帝大や京都帝大の教授であれば無条件に執筆陣に加われたわけではない。岩波講座が帝大の講座よりも知識人に権威があったのは、帝大教授であれば、誰でもよいというのではなく、「帝大の無能教授を意識的に排除したためである」という卓見を披露している。たしかに、そうであればこそ、岩波が官学アカデミズムの権威を借用しながらも岩波アカデミズムがそれを上回るかたちで聳え立っていたわけである。

しかし、戦後は、岩波のまなざしは「子どもへ、家庭へ、教育へ」向けられ、「岩波少年文庫」などで講談社をしのぐ岩波「初等教育局」を設置したような恰好になった。戦後最初の「岩波講座」も『岩波講座 教育』(1952~53)全8巻であった。戦後啓蒙とは、大衆啓蒙だったからである。

しかし、こうした教育戦略が奏功したのは60年までではなかったか、と著者はいう。『岩波講座 現代教育学』全18巻が刊行されたのは1960~62年だったが、この講座の読者カードをみると、都会より地方、とくに僻地で読者が多かった。都会の教育関係者には、読まれなくなっていたのである。『世界』や『図書』の読者カードによって読者層をみると学生、教員、公務員が多い。ビジネスマンは少ない。60年代からの岩波文化の衰退は、教育の時代から経済の時代になったからであろう。

本書には、岩波文化に対して人々が抱いている多くのイメージが資料をもとに覆されている。『日本資本主義発達史講座』が売れたのは、左傾学生よりも、大蔵省などの官庁方面だったこと。事前検閲は検閲強化というよりも出版社がリスクを避けるに都合がよかったこと。非常時になって出版事業は1942年までは空前の好景気にわいていたこと。岩波にも、時局便乗出版物も多かったこと。陸軍省は恤兵(じゅっぺい)品(戦地の兵士の慰問品)として岩波文庫を大量注文していたことなどなど。さらに忌憚なく岩波の社史の間違いも指摘している。

丹念な資料収集(「遠心力」)と斬新な解釈(「求心力」)という二物をそなえた著者一流の才覚が通念砕きの速射砲となり、まことに巻を措くあたわずとなる。

本書をよみながら、評者はこんなことも思った。これから岩波文化なるものが持続できるとしたら、経済人などの実務家に訴求力ある本を出せるかどうかにかかっているのではないか。ビジネス書と岩波文化という、「鰻と天ぷら」のように食い合わせが悪いものにどう立ち向かうかであろう、と。

なお、本書でも数か所にわたって引用されている村上一郎『岩波茂雄』は、12月上旬に講談社学術文庫で復刻版(『岩波茂雄と出版文化―近代日本の教養主義』)が刊行される。歯に衣を着せぬところは本書と同じである。解説は評者が書いているが、本書と併読していただくと、幸甚である。



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