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2013年12月12日

『アメリカの反知性主義』リチャード・ホーフスタッター【著】/田村 哲夫【訳】 (みすず書房)

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「知性主義・脱知性主義・スーパー知能主義」

橋下旋風は、最近は鳴りをひそめているが、氏の言う「ふあっとした民意」がいまの日本になくなったわけではない。ひとつはポピュリズムであるが、もうひとつは「本を読んで」「くっちゃべって」いるだけ、「役立たず」の学者文化人という橋下氏の臆面なき発言に象徴される反知性主義的空気である。

この反知性主義をアメリカ史に探ったのが、本書である。原書の刊行は1963年だが、「赤狩り」(共産主義退治)とあいまって反知性主義旋風をまきおこしたマッカーシズムの恐怖の時代に触発されて書かれたものである。マッカーシズムが吹き荒れていた1952年のアメリカ大統領選挙では、知性的なアドレイ・スティーヴンソンと凡庸な俗物風のドワイト・アイゼンハワーの戦いになった。アイゼンハワー陣営は、スティーヴンソンやその同調者を「エッグヘッド」と呼んでネガティブキャンペーンの種にした。「エッグヘッド」は、もとは禿げ頭を言ったものだが、世間一般の人とかけ離れていて、現実や常識に疎いインテリの蔑称として使用されるようになった。選挙はアイゼンハワ―の圧勝となった。

本書はマッカーシズム・ショックによって書きはじめられたが、そこから半世紀たった二〇〇八年のアメリカ大統領選挙のときにも、クリントンの側近が対立候補オバマのネガティブキャンペーンにおいて「エッグヘッドとアフリカ系アメリカ人だけをあてにしているオバマに勝利はない」と言っていた。反知性主義はアメリカ文化に深く根づいている。

本書は反知性主義とはつぎのような心的姿勢であるという。「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとにたいする憤りと疑惑である。そしてそのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である」。

では知性とはなにか。ホッフスタッタ―はそれを知能(インテリジェント)と区別した「知性」(インテレクト)とする。知能は直接の予測可能な範囲に適用される。ものごとを処理し、適応する頭脳の優秀さである。これに対して知性は頭脳の批判的、創造的、思索的側面をいう。「知能」はものごとを「把握し、処理し、再秩序化し、適応する」のに対し、「知性」は「吟味し、熟考し、疑い、理論化し、批判し、想像」する。「知能はひとつの状況のなかで直接的な意味を把握し、評価する。知性は評価を評価し、さまざまな状況の意味を包括したかたちで探し求める」。知性は当面の実用的価値から身を引き離す能力、いまの仕事への没頭から超越した視点でものをみること。目先の具体的問題を越えて一般的な意味や価値の領域に入り込むことができるものをいう。知的生活とは「真理を所有することではなく、不確実なことを新たに問いかけることにある」としている。

このようなアメリカの反知性主義の歴史的原因は、三つあるとする。ひとつはアメリカの精神の中核を形作った初期のピューリタニズムとくに福音主義が学説や教説ではなく直観や霊感を擁護したことが反知性主義の淵源となった。第二は人民民主主義の政治の唱道にある。福音主義が学問としての宗教や聖職者制度を否定したように、人民民主主義は、富裕階級や知識階級の叡智にもとづくリーダーシップをよしとしなく、一般庶民の常識知を持ち上げたからだとする。第三は、アメリカの教育が実用一転ばりの大衆教育重視であり、思索や書物好きな子どもの居場所を奪ったことにあるとされる。

このようにみてくると、明治以来、いや江戸時代に遡っても、日本にはあからさまな反知性主義の噴出はみられなかったといえる。反知性主義はあったにしても、知性主義と反知性主義をそれぞれタテマエとホンネとして処理し、二つの文化の衝突を避けてきた。しかし、これは日本の知性にとって幸福だったかは疑問である。ぬるま湯におかれた知性主義は脆いものであるからである。強力な反知性主義がないことで、知性主義も練磨されることがなかったからである。だから、日本における知性主義は、「反」ならぬ「半」知性主義(中間知性文化)といったものではなかったのか。その意味では、冒頭に記した橋下氏の反知性主義的発言を奇貨とすべきところはある。

いまおこりつつあるのは、熟考という骨のおれる活動から逃げ出す「思慮のない快楽主義」(unreflective hedonism)( D.Rigney“Three Kinds of Anti-Intellectualism:Rethinking Hofstadter”Sociological Inquiry,Vol.61,No4,1991)、まさに動物化するポストモダンという「脱知性主義」と知性とは区別された知能が技術知として全開する「スーパー知能主義」による知性的なるものへの挟撃である。本書のいう反知性主義という妖怪はきわめてアメリカ的なものだが、いまふれた「脱知性主義」や「スーパー知能主義」は、グローバルなポストモダン現象である。近年の日本における反知性主義的空気は、脱知性主義とスーパー知能主義を背後の援軍としているのではないだろうか。本書は、このようなことを考えるために不可欠な古典である。


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