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2013年12月23日

『考証要集』大森 洋平(文春文庫)

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「時代劇通になれる」

書物を刊行する者にとっては、校正者は頼みの綱である。400字詰原稿用紙でいえば、300枚以上ときには500枚を超える量を書いていると、念には念を入れたつもりでも思わぬところで、勘違いやケアレスミスがどうしてもでてくるからである。重要なところで間違いがあれば、読者も興ざめになるだろう。だから執筆者にとってはよき校正者に当たるかどうかは、かなり重要である。ドラマや映画などの映像では、書物における校正者にあたるものが考証担当者である。

とくに時代劇になれば、調度品、服装、風景など考証担当者にお世話にならなければならない。言葉遣いだってそうである。時代劇なのに「元気をもらった」とか「自信たっぷり」のような言葉が使われていれば、つくりものがすけてみえ、しらけてしまう。

そういえば、評者も時代劇を観ていて、これはちがうだろうと思ったことがよくある。たとえば、人気テレビドラマだった「必殺仕事人」では藤田まこと演じる中村主水が屋台で蕎麦を食べるシーンが定番だが、当時は屋台の食品は下層庶民のもの。主水は下級武士とはいえ、大小をさしている。とすれば、せめて手ぬぐいでほっかぶりぐらいはしているのではないか、とおもったものである。といっても時代劇は歴史そのものの再現ではなくフィクションである。だからまあいいのかとおもったのだが、歴史事実を知っている者にはどうしてもしこりは残る。

そう、時代劇は、元来、歴史事実に仮託されたフィクションであるから、時代劇に考証などいらないのではないか。そう思う向きもあるかもしれない。そこあたりについて著者は、こう言っている。たしかに、時代劇は歴史に仮託したファンタジーである。だから史実にこだわりすぎると面白くなくなる。しかし、架空の世界をよりそれらしく見せるためには、細部でできるだけ、史実に配慮することだ。「完全な史実ではないフィクションだからこそ考証は大事」「万物の根源はストーリーテリングであり、時代考証はその第一の僕(しもべ)である」という。まことに考証が厳密におこなわれることでドラマの虚実皮膜の厚みがでるというものである。

まあそんなご託宣はともかく、用語の解説がおもしろい。どのページからでも用語解説を読み始めるのがよい。時代劇によく出てくる「遠島・島帰り」のところにはこうある。町奉行が「遠島(島流し)〇年申し渡す!」というシーンに出くわすことがよくあるが、これは間違いという。遠島は終身刑、恩赦が無ければ帰ってこれないからである。また「おれは島帰りだ」と二の腕の縞の入れ墨を見せて凄む悪人が出てくるが、これも間違い。縞の入れ墨は「前科〇犯」の印だと解説されている。「鍋焼きうどん」のところでは、明治初期に大阪で考案され、東京の下町に普及したものとある。「鍋焼きうどんをつくるには大火力が必要で、屋台で大量に売りさばくのは難しい」からである。ある時代劇で鍋焼きを出すシーンがあり、著者が「必死に止めた」と制作現場のエピソードも添えられている。

また本書を現代語から引くこともできる。「いなや予感がする」は、時代劇ではどういうべきか。答えは「胸騒ぎがしてならぬ」。物の場合はいつから使われたが大事である。「草履」のところをひくと、すでに平安時代にあったということもわかる。どこから読んでも楽しめる用語集である。読んでいるうちに、時代劇通になったような気がしてくること必定である。


ところで、評者は、本書の著者といささかの縁がある。1996年1月から3月までの教育テレビ(いまのEテレ)の「NHK人間大学」という12回放映の企画(「立身出世と日本人」、のちに『立身出世主義』として世界思想社から刊行)で著者が担当ディレクターだった。雑談の折に、著者の博学ぶりにびっくりしたことを憶えている。趣味は古本屋を覘くことで、将来は考証関係の仕事にしたいと言っていた。念願かなって著者はその3年後に考証の仕事に就いた。しかし、考証という仕事は本を読んだり学者に聞けばよいというものではない。同時代を生きた人の体験談がかなり重要で、本書にはその薀蓄も語られている。その後、著者から本書のもとになる「ネタ帳」の複写を送付していただいたり、NHKの番組で著者の名前をみるようになった。考証と言えば、評者の世代では、司馬遼太郎も感服したという稲垣史生(1912~96)さん。評者は『映画評論』などの雑誌で氏のコラムを愛読したものである。著者に考証の神様稲垣さん再来の「胸騒ぎがする」元へ「予感」がするのである。


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2013年12月12日

『アメリカの反知性主義』リチャード・ホーフスタッター【著】/田村 哲夫【訳】 (みすず書房)

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「知性主義・脱知性主義・スーパー知能主義」

橋下旋風は、最近は鳴りをひそめているが、氏の言う「ふあっとした民意」がいまの日本になくなったわけではない。ひとつはポピュリズムであるが、もうひとつは「本を読んで」「くっちゃべって」いるだけ、「役立たず」の学者文化人という橋下氏の臆面なき発言に象徴される反知性主義的空気である。

この反知性主義をアメリカ史に探ったのが、本書である。原書の刊行は1963年だが、「赤狩り」(共産主義退治)とあいまって反知性主義旋風をまきおこしたマッカーシズムの恐怖の時代に触発されて書かれたものである。マッカーシズムが吹き荒れていた1952年のアメリカ大統領選挙では、知性的なアドレイ・スティーヴンソンと凡庸な俗物風のドワイト・アイゼンハワーの戦いになった。アイゼンハワー陣営は、スティーヴンソンやその同調者を「エッグヘッド」と呼んでネガティブキャンペーンの種にした。「エッグヘッド」は、もとは禿げ頭を言ったものだが、世間一般の人とかけ離れていて、現実や常識に疎いインテリの蔑称として使用されるようになった。選挙はアイゼンハワ―の圧勝となった。

本書はマッカーシズム・ショックによって書きはじめられたが、そこから半世紀たった二〇〇八年のアメリカ大統領選挙のときにも、クリントンの側近が対立候補オバマのネガティブキャンペーンにおいて「エッグヘッドとアフリカ系アメリカ人だけをあてにしているオバマに勝利はない」と言っていた。反知性主義はアメリカ文化に深く根づいている。

本書は反知性主義とはつぎのような心的姿勢であるという。「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとにたいする憤りと疑惑である。そしてそのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である」。

では知性とはなにか。ホッフスタッタ―はそれを知能(インテリジェント)と区別した「知性」(インテレクト)とする。知能は直接の予測可能な範囲に適用される。ものごとを処理し、適応する頭脳の優秀さである。これに対して知性は頭脳の批判的、創造的、思索的側面をいう。「知能」はものごとを「把握し、処理し、再秩序化し、適応する」のに対し、「知性」は「吟味し、熟考し、疑い、理論化し、批判し、想像」する。「知能はひとつの状況のなかで直接的な意味を把握し、評価する。知性は評価を評価し、さまざまな状況の意味を包括したかたちで探し求める」。知性は当面の実用的価値から身を引き離す能力、いまの仕事への没頭から超越した視点でものをみること。目先の具体的問題を越えて一般的な意味や価値の領域に入り込むことができるものをいう。知的生活とは「真理を所有することではなく、不確実なことを新たに問いかけることにある」としている。

このようなアメリカの反知性主義の歴史的原因は、三つあるとする。ひとつはアメリカの精神の中核を形作った初期のピューリタニズムとくに福音主義が学説や教説ではなく直観や霊感を擁護したことが反知性主義の淵源となった。第二は人民民主主義の政治の唱道にある。福音主義が学問としての宗教や聖職者制度を否定したように、人民民主主義は、富裕階級や知識階級の叡智にもとづくリーダーシップをよしとしなく、一般庶民の常識知を持ち上げたからだとする。第三は、アメリカの教育が実用一転ばりの大衆教育重視であり、思索や書物好きな子どもの居場所を奪ったことにあるとされる。

このようにみてくると、明治以来、いや江戸時代に遡っても、日本にはあからさまな反知性主義の噴出はみられなかったといえる。反知性主義はあったにしても、知性主義と反知性主義をそれぞれタテマエとホンネとして処理し、二つの文化の衝突を避けてきた。しかし、これは日本の知性にとって幸福だったかは疑問である。ぬるま湯におかれた知性主義は脆いものであるからである。強力な反知性主義がないことで、知性主義も練磨されることがなかったからである。だから、日本における知性主義は、「反」ならぬ「半」知性主義(中間知性文化)といったものではなかったのか。その意味では、冒頭に記した橋下氏の反知性主義的発言を奇貨とすべきところはある。

いまおこりつつあるのは、熟考という骨のおれる活動から逃げ出す「思慮のない快楽主義」(unreflective hedonism)( D.Rigney“Three Kinds of Anti-Intellectualism:Rethinking Hofstadter”Sociological Inquiry,Vol.61,No4,1991)、まさに動物化するポストモダンという「脱知性主義」と知性とは区別された知能が技術知として全開する「スーパー知能主義」による知性的なるものへの挟撃である。本書のいう反知性主義という妖怪はきわめてアメリカ的なものだが、いまふれた「脱知性主義」や「スーパー知能主義」は、グローバルなポストモダン現象である。近年の日本における反知性主義的空気は、脱知性主義とスーパー知能主義を背後の援軍としているのではないだろうか。本書は、このようなことを考えるために不可欠な古典である。


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