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2013年10月04日

『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門』吉田 徹(NHKブックス)

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「ポピュリズムは民主主義の鏡」

ポピュリズムは、アメリカの人民党やアルゼンチンのペロニズムなどのような農村社会から工業社会に移転するときに農民や労働者にあらわれる不利益と不平等の不満を震源地にしてでてくる過度期の政治運動といわれてきた。ところが小泉旋風から郵政選挙までの小泉政権の政治動員がポピュリズムというレッテルで括くられるようになった。さらに、橋下徹やイタリアのベルルスコーニにいたって、ポピュリズムは現代政治の真っただ中の現象となった。

しかし、ポピュリズムやポピュリストという用語はもっぱら敵対勢力を非難排除するための蔑称として使用されている。ポピュリズムというレッテルを貼られたほうがポピュリズムやポピュリストを僭称するわけではない。ポピュリズムを大衆迎合と訳すならば、大衆民主主義時代は、いかなる代表も程度問題で、どんな政治も、文化でさえもポピュリズムを免れない。

そのかぎりヴィ・ナロードはもとより、ルーズベルトも近衛文麿もポピュリストだったといえる。ポピュリズムは程度問題でしかない。いま大合唱のポピュリズム批判も大衆迎合型政治に飽き飽きしている空気や情念に訴えかける否定の政治なのだからポピュリズムである。

誰をポピュリストといい、あるいは何をポピュリズムというかの前に肝心要のポピュリズムとはそもそも何かを考えることが重要なのである。

海外ではエルネスト・ラクラウなど政治哲学者たちが、ポピュリズムとは何かのポピュリズム原論を専門学術書や専門論文で発表しているが、日本ではそう多くはない。一般書はポピュリズムを気に食わない政治家に張り付け、単体の政治家だけで論じているのが大半である。だから、劇場型政治スタイルがポピュリズムであって、社会運動を組織化するのはポピュリズムではない、と左翼の社会運動を例外扱にする都合主義的な記述がまじっている書物もあった。

本書が一般書のなかで傑出しているのは、さきのラクラウをはじめ海外のポピュリズム原論研究をふまえ、海外の政治状況にもふれながら、ネオ・リべの誕生とともにはじまった現代型ポピュリズムそのものの解析にとりくんでいるところにある。ポピュリズムを冠した類書にくらべて、深さと広さが格段にちがう。236頁の軽装本であるが、ずっしりとした読みでがある。
 本書はいう。民主主義は人民主権にあるのだから、「ポピュリストが生じ、ポピュリストが出てくるのは当然」であり、「ポピュリズムを問うことは民主主義を問うことであり、民主主義を問うことはポピュリズムを問うことにほかならない」と。つまり現代政治のポピュリズムを変異体としてではなく、人民主権に構造化されているものとする。そしてポピュリズムを「人々の情念を基盤に据えるイデオロギー」であり、「反資本主義」「反エリート」「反ユダヤ主義」などの否定の思想だとする。
「人民主権」と「自由主義」のズレにポピュリズムが生まれるとしているところは本書の圧巻部である。つまり民主制は共同体の成員の意志を尊重しなければならない。他方で、この権力は個人の権力を守るために「何らかのルール」(法やルール)のもとに置かねばならない。しかし法やルールは人々の意思決定から離れた制度や機構によってつくられ、それが独り歩きする。官僚制の肥大化によって人民主権の理想は歪められ、個人主義的な利己主義はどんどん利益団体を生む。ここに「民主主義の破られた約束」がたえず露呈し、それがポピュリズムを生んでいく。

またボードリヤールを引用しながら、今日の社会が単純なモノの生産関係ではなく記号消費型社会であるだけに、政治という営みもたえず「表出=感情」を組み入れなければ成り立たないところにもポピュリズム社会の所以をみている。

本書の最後の「徹底したポピュリズムこそが民主主義を救う」というのは、ラジカルすぎる結論とおもえるが、本書の読者なら批判的な人民主権であるポピュリズムもまたカウンター民主主義であるとする著者の主張に納得できるだろう。もっと穏当に言えば、ポピュリズムは「デモクラシーの高度の形態でも、デモクラシーの敵でもない。デモクラシーが自らを熟考する鏡」(フランシスコ・パニッザ「ポピュリズムとデモクラシーの鏡」邦訳なし)だとは言えよう。このあたりのスタンスこそポピュリズムをデモクラシーのために飼い慣らしていくことにもなるのではなかろうか。


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