メイン | 2013年11月 »

2013年10月29日

『Sの継承』堂場 瞬一(中央公論新社)

Sの継承 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「IT社会のクーデター」

戦後日本における、もどきをふくめて革命らしきものをひろうと、まず1950年代の火炎瓶闘争や山村工作隊(農民オルグ)を遂行した日本共産党の武闘革命路線。この革命路線は1955年の六全協(日本共産党の第六回全国協議会)で全面撤回されて挫折した。やがて、空前の大衆デモのうねりとなった60年安保闘争。その直後に、無戦争・無失業・無税の「三無」をとなえた旧軍将校・陸軍士官学校出身者によるクーデター計画が発覚した。

しかし、世の中は新条約批准と岸信介首相退陣によって、所得倍増の高度成長経済を謳歌する昭和元禄と呼ばれる天下泰平時代になる。そのさなか1968年に大学紛争。大学紛争の終りともに、赤軍派など過激派による爆破事件がおきた。1972年浅間山荘事件を最後にして過激派は沈静。ここで革命運動らしきものは途絶えたかにみえた。しかし、それから4半世紀後、とんでもない方向から革命運動もどきがおきた。1996年オーム真理教徒による地下鉄サリン事件である。
 
本書が参照するのは、60年安保とその直後に発覚した三無事件、そして地下鉄サリン事件である。大学紛争やその後の過激派の運動の影らしきものはない。団塊世代には世代的な運動がスルーされたようで、もの足りないかもしれない。しかし1963年生まれの著者にとっては、現代社会の革命や社会騒乱を左翼や右翼のシナリオでは考えられないということだろう。
 
物語は、平成の今に近い日、前橋市で地下鉄サリン事件をおもわせる異臭事件が発生する。65人が病院に運ばれ、2人は意識不明の重体。異臭の発生源の魔法瓶がおかれたところになぜか白骨死体がみつかる。

この事件には、長い助走があった。事件の発端は東京オリンピックの直前の1960年代初期。中心人物は、昭和戦前期に陸軍士官学校を卒業して満州で戦ったことのある、当時40代後半の経営者国重一郎。60年安保を大衆頼みの運動による失敗と総括する。かといって、決められない政治家では頼みにならない。玉川新というもと外務官僚で、衆議院議員にもなったことがある人物を師と仰ぎ、玉川の著作『日本新時代のために』を範とした革命を遂行しようと決意する。

政治家を廃棄し、官僚だけを残し(専官体制)、政策は国民がそのつどチェックするという直接民主主義。ただし、国民全部がチェックするのではなく、民度の高い国民を代表にしてのチェックである。この専官体制への革命のために核に相当する毒ガスの開発を腹心の真面目な理系大学生松島にさせる。戦前の日本軍の毒ガス研究がS号の研究といわれたことから、S号研究とされる。しかし、この革命プランは世間がしらないところで挫折する。S号研究に成功した松島は、故郷で学習塾をしながらこの未完の革命を遂行しようとする。

しかし、いざとなると、松島も国重と同じように、踏切りがつかなくなる。毒ガスを使った革命は、松島の学習塾で薫陶をうけた天野によって継承される。天野は、ついに決行にいたる。国会議事堂裏で毒ガスを武器に、議員総辞職、首相退陣の取引をはじめる。天野は、ハンドルネームSのスレッドを立て、世論の方向づけを狙い、応援部隊を募る。エンディングもIT社会ではいかにもありそうである。事件後、『日本新時代のために』がネット上に永久保存状態にされる。誰かまた目にふれるだろう、と。人気作家の作品だけに、ストーリー展開が巧みで、600頁近い長編にもかかわらず、一気によめる。

しかし、玉に瑕は、国重が範にした玉川新の『日本新時代のために』の改造案である。「政治家を廃絶して「専官体制」をとり、政策は国民の一部の代表者がその都度チェックするといっても、その都度のチェックのための時間は膨大である。代表に選ばれた者は、それぞれの仕事をしている。そんな時間や余力があるとはおもえない。まさにあのウォルター・リップマンが「市民が公的な問題に割く時間はわずか」「輿論は問題の本質に対して何もできない」と言った輿論民主主義の不可能性である(河崎吉紀訳『公衆の幻想』)。

著者もそうおもうからだろうが、「専官体制」は、「机上の空論」で現実離れしすぎていると、小説中にも何回もでてくる。たとえ小説だとしても、こんな稚拙な空論に、経営者として戦後社会を生き抜き成功した国重がころりといくとは想像しにくい。

そこで評者はこうおもった。国重が陸軍士官学校卒業のもと軍人だけに、北一輝『日本改造法案大綱』を思い出したように手に取り、それに示唆を受け、現代風にデザインした計画を立てるというようにしたら、もう少しリアルさがましたのでは・・と。『日本改造法案大綱』に出てくる、財閥を、決められない政治家に読み替えることは十分に可能である。また「財産制限」「土地処分」などは近年の格差社会問題とも重なる。『日本改造法案大綱』の冒頭には、3年間憲法を停止し、両院を解散する、ともある。

とはおもうが、IT時代の騒乱の描出はリアリティをもっていることは確かである。熱しやすく、冷めやすいのは群集の特徴だが、IT社会のツィッターやスレッドでより加速化している様子も生々しい。この事件の発端は1964年の東京オリンピックを前にしたときだった。2020年の東京オリンピックを前にした今、無気味さがじわっとくる。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年10月04日

『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門』吉田 徹(NHKブックス)

ポピュリズムを考える―民主主義への再入門 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ポピュリズムは民主主義の鏡」

ポピュリズムは、アメリカの人民党やアルゼンチンのペロニズムなどのような農村社会から工業社会に移転するときに農民や労働者にあらわれる不利益と不平等の不満を震源地にしてでてくる過度期の政治運動といわれてきた。ところが小泉旋風から郵政選挙までの小泉政権の政治動員がポピュリズムというレッテルで括くられるようになった。さらに、橋下徹やイタリアのベルルスコーニにいたって、ポピュリズムは現代政治の真っただ中の現象となった。

しかし、ポピュリズムやポピュリストという用語はもっぱら敵対勢力を非難排除するための蔑称として使用されている。ポピュリズムというレッテルを貼られたほうがポピュリズムやポピュリストを僭称するわけではない。ポピュリズムを大衆迎合と訳すならば、大衆民主主義時代は、いかなる代表も程度問題で、どんな政治も、文化でさえもポピュリズムを免れない。

そのかぎりヴィ・ナロードはもとより、ルーズベルトも近衛文麿もポピュリストだったといえる。ポピュリズムは程度問題でしかない。いま大合唱のポピュリズム批判も大衆迎合型政治に飽き飽きしている空気や情念に訴えかける否定の政治なのだからポピュリズムである。

誰をポピュリストといい、あるいは何をポピュリズムというかの前に肝心要のポピュリズムとはそもそも何かを考えることが重要なのである。

海外ではエルネスト・ラクラウなど政治哲学者たちが、ポピュリズムとは何かのポピュリズム原論を専門学術書や専門論文で発表しているが、日本ではそう多くはない。一般書はポピュリズムを気に食わない政治家に張り付け、単体の政治家だけで論じているのが大半である。だから、劇場型政治スタイルがポピュリズムであって、社会運動を組織化するのはポピュリズムではない、と左翼の社会運動を例外扱にする都合主義的な記述がまじっている書物もあった。

本書が一般書のなかで傑出しているのは、さきのラクラウをはじめ海外のポピュリズム原論研究をふまえ、海外の政治状況にもふれながら、ネオ・リべの誕生とともにはじまった現代型ポピュリズムそのものの解析にとりくんでいるところにある。ポピュリズムを冠した類書にくらべて、深さと広さが格段にちがう。236頁の軽装本であるが、ずっしりとした読みでがある。
 本書はいう。民主主義は人民主権にあるのだから、「ポピュリストが生じ、ポピュリストが出てくるのは当然」であり、「ポピュリズムを問うことは民主主義を問うことであり、民主主義を問うことはポピュリズムを問うことにほかならない」と。つまり現代政治のポピュリズムを変異体としてではなく、人民主権に構造化されているものとする。そしてポピュリズムを「人々の情念を基盤に据えるイデオロギー」であり、「反資本主義」「反エリート」「反ユダヤ主義」などの否定の思想だとする。
「人民主権」と「自由主義」のズレにポピュリズムが生まれるとしているところは本書の圧巻部である。つまり民主制は共同体の成員の意志を尊重しなければならない。他方で、この権力は個人の権力を守るために「何らかのルール」(法やルール)のもとに置かねばならない。しかし法やルールは人々の意思決定から離れた制度や機構によってつくられ、それが独り歩きする。官僚制の肥大化によって人民主権の理想は歪められ、個人主義的な利己主義はどんどん利益団体を生む。ここに「民主主義の破られた約束」がたえず露呈し、それがポピュリズムを生んでいく。

またボードリヤールを引用しながら、今日の社会が単純なモノの生産関係ではなく記号消費型社会であるだけに、政治という営みもたえず「表出=感情」を組み入れなければ成り立たないところにもポピュリズム社会の所以をみている。

本書の最後の「徹底したポピュリズムこそが民主主義を救う」というのは、ラジカルすぎる結論とおもえるが、本書の読者なら批判的な人民主権であるポピュリズムもまたカウンター民主主義であるとする著者の主張に納得できるだろう。もっと穏当に言えば、ポピュリズムは「デモクラシーの高度の形態でも、デモクラシーの敵でもない。デモクラシーが自らを熟考する鏡」(フランシスコ・パニッザ「ポピュリズムとデモクラシーの鏡」邦訳なし)だとは言えよう。このあたりのスタンスこそポピュリズムをデモクラシーのために飼い慣らしていくことにもなるのではなかろうか。


→紀伊國屋ウェブストアで購入