• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年05月09日

『デーモンと迷宮-ダイアグラム・デフォルメ・ミメーシス』ミハイル・ヤンポリスキー[著] 乗松亨平、平松潤奈[訳] (水声社)

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金余りのロシア団塊がやりだしたら、ホント凄そうだ

いよいよ残り3回ということになったから、また一段と個人的な思い入れ、偏愛を恣にさせていただこう。となると第一弾はミハイル・ヤンポリスキーの最初の邦訳本たる『デーモンと迷宮』(原書:1996年)を措いてない。

ヤンポリスキー氏については、表象文化論学会が立ち上がり2006年に東大駒場キャンパスで第1回大会が開催された時、基調講演(“Metaphor, Myth and Facticity”)をした人と言えば思い当たる方もいるのではないだろうか。『佐藤君と柴田君』のスター教授佐藤良明氏に呼ばれ、ぼくもパネルディスカッションのコメンテーターという役を振られて出向いた。久しぶりに小林康夫大先生の御尊顔を拝し、新鋭田中純氏の御姿を拝見でき、いろいろ得るものがあった中でも最大の収穫が、ヤンポリスキー氏の講演とその時初めて手にした大冊『デーモンと迷宮』だった。なんだかいろいろやる人物らしいと佐藤氏に言われて読み始めるや否や、あまりに自分の仕事と近いのに驚き、ページを繰る毎に苦笑、やがて阿々大笑してしまった。快著。愉快。特に、トゥイニャーノフとバロックを論じた第6章「仮面、アナモルフォーズ、怪物」。「父なるシレノスの像」という文章で始まって、アナモルフォーズ論に展開する。

288ページに26枚の図版をあしらったヴィジュアルがあって、畸型、歪曲遠近法、ダ・ヴィンチ作のカリカチュア、怪物、フィジオノミーと並ぶ図版は、もうそれだけでこの大冊があるはっきりした文化圏に系譜するものであることを示す。もちろん、まずは『幻想の中世』と『アナモルフォーズ』のユルギス・バルトルシャイティスであり、スラヴ語文化圏ということで、フランスで活躍することになるリトアニア人バルトルシャイティスとロシア団塊世代のヤンポリスキーをつなぐものに関心が向く。あるいは、この図版セレクションは、ロジェ・カイヨワが「澁澤」した名作『幻想のさなかに』を思い出させ、歪曲遠近法とバロック身体論ということでは、『見ることの狂気』のビュシ=グリュックスマンを思い出させる。

そのデモーニッシュな図版集の劈頭を飾るのが、超肥満の醜老シレノスも描かれたポンペイ「秘儀荘の壁画」である。これがユーリイ・トゥイニャーノフのバロック極まる小説『蝋人形』の背景にあるというので、ヤンポリスキーお得意の自我の分身たる醜の主題にと話はぐんぐん広がる。

シレノスはソクラテスのせいでパラドックス的思考の祖型となった。ルネサンスとバロックのパラドックス研究、とりわけR・L・コリーの『パラドクシア・エピデミカ』(1966)において、シレノスの筥(はこ)のメタファーは中核的イメージとなっている。外形の醜悪が内なる善美と表裏である――佐藤氏お得意の表現を拝借すると、フリップフラップする――パラドックスなるものの構造を、ソクラテスが自身の似姿ともした伝説的醜男シレノスが絶妙に象徴した。実に変幻自在に、パラドクソロジーに夢中な20世紀カウンターカルチャーの中に出没するメタボ男の神話であり(どうしてサンダー・ギルマンの“Fat Boys”が邦訳されないのだろう)、たとえば名からしてこれもスラヴ系のポール・バロルスキーの『とめどなく笑う』がルネサンス絵画をまさしくヤンポリスキーばりに反転させた時、やはりシレノス図像を核にしていたことなどただちに思い出される。R・L・コリーに発しバロルスキーにまで辿り着いたぼくは、偶然『デーモンと迷宮』に遭遇したのではなく、早晩出会うべき運命にあったのだと思う。

簡単に言えば、シレノスの内と外の不可分(二分法の拒否)にそっくり精神と身体を代入して展開する(もはやお馴染みと言えばお馴染みの)身体論である。まずは当然バフチーンがあり、人の身振りが妙に機械やマリオネットじみる理由をロシア・フォルマリズムの分析を使って論じるゴーゴリ、リルケ(それにしてもリルケとは)論の山口昌男ばりの骨太の着想から入って、ラカン、メラニー・クライン、ドゥルーズ=ガタリのポスト・モダン身体論の繊細微妙まで、身体論の現在を一大展観してみせる。

「デーモン」とはフロイト風に言えば「不気味なもの」、「迷宮」とはハイデッガーの言う「世界内存在」としてのヒトが経験するであろう世界の比喩である。『迷宮としての世界』再来!

畏友沼野充義(ヌマノヴィッチ)はかつて、ぼくをスラヴ圏バロック研究の泰斗チジェフスキーに譬えたことがあり冷や汗をかいたが、ロシアにもぼくの「分身」がいたという嬉し過ぎる驚愕を、ぼくは『デーモンと迷宮』に感じて、ふるえる。同じ団塊でも、ドイツのミヒャエル・ヴェッツェルやホルスト・ブレーデカンプに感じる熱烈共感よりもはるかに強い共感を、この稀にみる博読奇想のロシア団塊人に感じた。ダブつきマネーが文化の方にも少しはまわり出すはずのロシア、面白そう。

問題の東大での基調講演を含む講演三件にインタビューを足した『隠喩・神話・事実性-ミハイル・ヤンポリスキー日本講演集』が同じ水声社から出ている。新刊書ということではこちらを取り上げるべきだったかもしれないが、やはり本格書を。

視覚文化論を身体論へと開く名手、ビュシ=グリュックスマンの次々出る名著大作ともども、あと7、8冊はあるというヤンポリスキーの魅惑的な著書も邦訳されますよう!本書の邦訳、実に読みやすい。文献一覧も一寸した見ものである。

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2008年04月25日

『近代論-危機の時代のアルシーヴ』安藤礼二(NTT出版)

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著者のいる多摩美の芸術人類学研究所、凄くなりそうね

夏目漱石の1900年代、また萩原朔太郎の1930年代を対象として、未曾有の強度で体感された「近代」をそれぞれあぶりだそうとした博論力作二篇を読んだ後だ。山口昌男流「歴史考古学」の連繋センスと、時にとても中沢新一的な連想誘発型の文体で早くも独自の境地に達した安藤礼二が、「近代」の問題をいかにもというのでない材料で論じた『近代論』を取り上げて、“近代論”書評シリーズの締めとしたい。

日露戦争から戦間時代にかけてといった漠たる表現ではなく、「明治43年(1910)から明治44年(1911)にかけてという、この列島の近代に穿たれた、わずか二年という特異な時空の歪み」のことと断じられては、何ごと、と思わず手に取るしかない。自信ありそう、明快そう。その通り、実に明快だ。意表つく材料の組み合わせながら、読後、「近代」を論じるにこれ以上のものはないと納得させられる目次だ。負けましたっ。

問題の二年間に、博物学者・生物学者の南方熊楠『南方二書』、民俗学者の柳田國男『遠野物語』、哲学者の西田幾多郎『善の研究』が書かれたとすれば、たしかに大変なタイミングである。宗教学者の鈴木大拙は今ではあまり馴染みがないかもしれない。英語で禅を啓蒙し、ジョン・ケージやビート詩人たちの霊感源となった巨人だが、鈴木がスウェーデン最大の偉人、神秘主義思想家エマヌエル・スヴェーデンボリのほぼ全仕事を翻訳する過程で、「西洋の禅」を勉強したことを、ぼくは今頃知ってびっくりし、いろいろ改めて腑に落ちた。そのスヴェーデンボリ最大の傑作『天界と地獄』の鈴木大拙訳も同じタイミングで出たというし、安藤氏に第56回芸術選奨文科大臣新人賞(「評論等」部門)をもたらした驚愕の書『神々の闘争』の主人公である折口信夫は同じ時、卒論『言語情調論』を出しているようだが、安藤氏の紹介から推して、(スヴェーデンボリとの類比で言うなら)ヴィーコの神話論・言語論を思わせる作であるらしい。ともかく大変な二年間だというのは確か。目のつけようが素晴らしい。

こうして各分野から5人の巨人がそれぞれのキーワードを付して、「生命-南方熊楠論」「労働-柳田國男論」「無限-鈴木大拙論」「場所-西田幾多郎論」「戦争-井筒俊彦論」という順に並ぶ。たとえば鈴木大拙と西田幾多郎は高等中学の同級生同士で生涯交友があったというし、鈴木と南方は当時としては珍しく長期にわたって欧米滞留の経験を共有したが、具体的には土宜法龍という学僧を介して交流を持つというふうに、さまざまなレベルで人と人とのつながりが尋常でなく、スリリングに密である。山口昌男『「敗者」の精神史』(〈上〉〈下〉)や岩佐壮四郎『抱月のベル・エポック』にも匹敵する、この意外な人間関係の広がりが、まず本書の魅力と言える。

とにかくアッという「発見」に満ちた組み合わせ、と言ってよいかもしれない。一番驚いたのが、柳田がパレスチナをめぐる国際連盟委任統治委員会の委員を務めたことが、その「常民」観念を深める上で決定的であったという事実。彼が一寸見識ある農林官僚であったことくらいは知っていたが、「アフリカから地中海沿岸にかけて、一神教の故郷を訪ね」歩く見果てぬ夢を抱えていたなんて全く知らなかった。その点にこそ力点を置く著者なればこそ、パレスチナに降り立って砂漠のゲリラたちに共感するジャン・ジュネを柳田と比べる芸当もできるし、イランに赴いたフーコーを井筒俊彦と比較できたりもする。柳田が田山花袋など自然主義作家たちと近いところにあったことくらいは知っていても、おおもとのゾラにまで本職並みに打ち込んだとは普通知るまい。そこにきちんと着目した著者はゾラの『獣人』に対するジル・ドゥルーズの分析へと論を進め、そうした部分がそれぞれフーコー論、ドゥルーズ論としても短簡ながら卓抜という生憎いばかりの贅沢な近代論に仕上がった。

こうして、明治最晩年にできた「危機の時代のアルシーヴ」と呼ぶべき政治と知の一元化への否(ノン)の動きが、当時の「資本主義グローバリズム」への初めての否であり、同様に狂ったグローバリズムの現代への「予言」となって当然なのだから、明治40年代を論じるに、フーコーが論じられドゥルーズが論じられて、何の違和感もないわけだ。

彼らの営為は「富の分析-博物学、一般文法」が内在的な「労働、生命、言語」の探究へと転換したという西欧19世紀に起った人文諸科学の決定的な再編成(ミシェル・フーコー『言葉と物』)を、近代化においては致命的な遅れをもつがゆえに、逆に「近代」そのものの矛盾がより凝縮したかたちであらわにされたこの列島において、集約的に表現したものとなったのである。(p.8)

尖鋭なアクチュアリティが(本当は凄そうな)学殖を隠しているような感じで、ニクい。

井筒俊彦、鈴木大拙が登場する人的交流の精神史となれば、二人を召喚したエラノス会議のことに一言なりと触れるべきだったか。うむ、これはどうしても近々、William McGuire、“Bollingen : An Adventure in Collecting the Past”を訳さずには済まないかも。

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2008年04月15日

『ニーチェ-ツァラトゥストラの謎』村井則夫(中公新書)

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中央公論新社にあの二宮隆洋が移ったことの意味

ツァラトゥストラは齢(よわい)30にして、故郷と故郷の湖をあとにして山に入った。ここで彼は、彼の精神と彼の孤独を楽しみ、10年間飽きることがなかった。

ニーチェの“Also sprach Zarathustra”(『ツァラトゥストラはこう語った』〈上〉・〈下〉)の出だしである。これが「哲学書」、それも哲学史上に燦然と輝く第一級の哲学書と言われている作と知らねば、この出だしは何かの物語、あるいは小説の冒頭かと思われるかもしれない。作り手のある精神的な状態が形になる時、ある場合には小説と呼ばれ、別のケースでは「哲学」と言われる、その境目はいったい何なのか、と考える。ジャンルが違うと言うが、ではそのジャンルとは何か、そもそもいつどのようにしてジャンル分けなるものが生まれたのか、“genre”の語源である”genus”の演じる何かを“generate”する作用とは何か、といった結構哲学的でいて現行の哲学ではなかなか扱わない大、大、大問題に話題が広がっていくだろう。ニーチェ極めつけの問題的著書『ツァラトゥストラはこう語った』を相手に、最大級のスケールの(反)ジャンル論に挑んだ大作が出たことを喜びたい。

前に取り上げた中央公論新社の「哲学の歴史」シリーズは(不徹底とはいえ)時代のヴィジュアルを掲げて哲学理解の一助とするという方針でお目見えして面白かったが、同じ版元の同じ編集感覚が生きている(あの神がかりの編集者、二宮隆洋氏が介在している)とおぼしい村井則夫『ニーチェ-ツァラトゥストラの謎』は、まず冒頭のアート紙口絵のデザインが、哲学史祖述にも新時代、新感覚が到来したことを言祝いでいるように感じる。マニエリスム研究者誰しもに馴染みのパルミジャニーノの『凸面鏡の自画像』と、バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』で一挙に有名になったグレゴワール・ユレのアナモルフォーシス画が掲げられて出発するニーチェ論。画期書か、それともこけおどしの外連(けれん)か。旧套哲学史を旧套とも思わぬ人にとっては、おそらく物知りポストモダン哲学者のよた話が始まるという感じなのだろうが、ぼくは来るものが来たという喜びと爽快感を味わった。

何年か前、文学の視覚作用に熱中していたぼくは、そういう観点で世界文学史記述を再編成してみようと、「文学を見よ」をキャッチに週刊朝日百科「世界の文学」を毎週、三年にわたって構成し続けた。「エクプラーシス(exphrasis)」という観念もあり、文学と美術をごっちゃに提示する方式は、それなりに受けた。さて、哲学と美術の境界線突破、ジャンル越えは?という興味がふつふつと湧く。かつてヴィジュアルを結集・編集してあらゆる知を視覚化する企てが松岡正剛氏のところで進みかけた折り、カント哲学の黒崎政男氏が「みんなはいいな、哲学じゃそんなことありえないもの」とぼやいた話が、ぼくの『ブック・カーニヴァル』への氏の寄稿文中にあって、おかしい。たしかに、たしかに。しかし、ブレーデカンプのライプニッツ論(『モナドの窓』現在、原研二氏が邦訳中)をモデルに、根本的にヴィジュアルなある種の哲学をヴィジュアルな文章と編集で見せる「哲学を見よ」という新しい時代が、村井則夫ニーチェによってたしかに幕を開けた、と言いたい。

そう思ってぱらりとめくると、想像通りロレンス・スターンの奇作『トリストラム・シャンディ』(〈上〉〈中〉〈下〉)中の、脱線に次ぐ脱線で混乱を極める筋を一応明快化するという有名な作中解説図が引かれているのが目に入る。

なるほど、そうだよね。言語に対するイメージの優位が爆発的に言われ出した19世紀末、モダニズム前夜に、ニーチェは生き、死んだ。イメージ優位とは、当然、言語への一点集中と相容れぬものへの評価を意味するが、言語の中でそれが起こるとすれば、即ちそれがパラドックスであり、その系としての曖昧、アイロニー、パロディといった表現形式であるからだ(そこまでわかるなら、なぜドイツロマン派の「アラベスク」修辞学にまで触れないのか、ということはあるが)。そこまでわかると、ぱらぱらめくるだけで相当なヴィジュアル・センスの持ち主とわかる村井ニーチェが、ついに日本人によって著わされた「パラドクシア・エピデミカ」であることが想像でき、しして一読、まさしく日本語で書かれた未曾有のパラドックス文学論であることがわかった。パラドックス文学の肉感的側面たる「メニッペア」をもって、村井氏はニーチェに「哲学」と「小説」のジャンル分けを楽々と越えさせている。

パラドクシア・エピデミカ。言語や人格が同一化し、単一なものへと収縮していくのを、違うだろうと感じて、意図的に曖昧さをつくりだす逆説家たちの猖獗(しょうけつ)がエピデミックス(流行病)のように時代を狂わせる、そういう16世紀マニエリスム精神をロザリー・L・コリーが命名した呼称である。ワイルドやチェスタトン、カントールやラッセルのいた時代がもうひとめぐりしてきたパラドクシア・エピデミカでないわけがない。ということを、この『ニーチェ』はあまりにも雄弁に、学問的手続きにも手抜かりなく明らかにした。ぼくの友人、秀才の神崎繁氏の『ニーチェ-どうして同情してはいけないか』にも目からウロコだったが、バフチーン的に「笑うニーチェ」(T・クンナス)の魅力的主題は、村井ニーチェで一挙にはじけた。新書の概念と相容れぬ大著というのもパラドクシカルで、びっくりさせる。

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2008年03月11日

『アルス・コンビナトリア-象徴主義と記号論理学』 ジョン・ノイバウアー[著] 原研二[訳] (ありな書房)

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『アムバルワリア』を読んだら次にすること

チェスで人がコンピュータに勝てないと判ってからどれくらい経つか。感情や情念といった言葉を持ち出して、人にしか書けない詩があるという人々はなお多く、現に「詩」は相変わらずいっぱい書かれている。しかし、チェスの棋譜を構成していくのと同じ原理が詩をつくるとすれば、人は詩作でもコンピュータに勝てないことが早晩判るはずだ。そう考える詩学がある。チェスと詩学が全く違わないことを、作家ボルヘスは『伝奇集』中の有名な「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」に宣言した。

ニーチェが「感情の冗舌に抗して」成り立つとした文学観が存在するが、この言い分をキャッチフレーズに掲げたロマニスト、グスタフ・ルネ・ホッケの我らがバイブルたるべき『文学におけるマニエリスム』によれば、「マニエリスム」という文学観がそれで、読むほどに、ヨーロッパで成立した詩学が日本人の考えるような「詩」とは全く違うマニエリスム文学観の所産だと知れて、ほとんど愕然とする。西欧の詩を律する詩脚の数合わせ、押韻の組み合わせ、それはほとんど数学的と言ってもよいし、出来上がった作品は建築物に酷似している。一時ヤワな日本現代詩壇で「定型」をどう考えるかという議論が盛んだったことがあるが、数学に似た詩の形式美をポエティークとして捉えるという本格詩学の立論など出てくる気配はなかった。間違いなく「感情の冗舌に抗し」た西脇順三郎作『Ambarvalia-旅人かへらず』が、講談社文芸文庫創刊20周年を祝う「アンコール復刊」の先陣を切って読める。この機会に西脇の中に脈流した異様な(本当はこちらが正格正調の)詩学をちゃんと受け止めるべきである。

ホッケの『文学におけるマニエリスム』がドイツで出たのが1959年。来年はちょうど50周年。「言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術」という副題からしていかにも邦訳が聖典化された1970年代トーキョーの熱気が偲ばれるが、世情人心すべてが「統合」を渇望する「分断」の水瓶座相にある肝心の今、書店に並んでいない。1957年、先行して出たホッケの『迷宮としての世界』にしても同じ状況で、昨2007年がその50周年だったのに、そのことに触れたドイツ語圏文化・文学関係者の一文も見ない。総じて我々日本人は危機に鈍感、ないし無関心なのである。

もう一度言うが、本国ドイツでは文学と数学の相同を探るタイプの文化史が今まさに旬なのだ。先回来のパラドックス研究絡みで言えば、Paul Geyer & Roland Hagenbüchle,“Das Paradox”(1992)から、Andreas B. Kilcher,“mathesis und poiesis : Die Enzyklopädik der Literatur 1600-2000”(2003)まで、本当にいっぱいある。今までの人文学がいかに偏狭なものであり、そしてこれからが本当の人文学なのだと宣言する茫然自失の作品が目白押し。またお得意の知識のひけらかし、と言う声の聞こえてこぬでなし、この辺でよすが、かつて大なり小なりホッケ教徒を号したはずの団塊の世代の「定年後」惚けの忘恩ぶりには些か失望した。

しかし、<間>をつなぐ素晴らしいセットアッパーが存在する。それがジョン・ノイバウアーの本書だ。原題は“Symbolismus und symbolische Logik : Die Idee der 'Ars Combinatoria' in der Entwicklung der modernen Dichtung”(1978)。これを直訳して「象徴主義と記号論理学」とするのは実は違う(もとは同じ「シンボル」を「記号」「象徴」に分け、別物と理解し始める日本語、日本人の西欧理解の浅さに起因)。そこで邦訳ではこれを副題にまわし、原書の副題「アルス・コンビナトリア」をメインタイトルにしている。

マラルメやヴァレリーの詩的「象徴」主義と、ラッセルやカントールの名で思いだす「記号」論理学を通時・共時の両相で同列に論じた。詩と数学が19世紀末からモダニズムにかけて重合し、この重合の源泉がノヴァーリスのロマン派にあり、さらにその源流がマニエリスム数学者ライプニッツの「組合せ術(ars combinatoria)」にあり、さらにその源流は・・・と遡及して、結局ホッケのマニエリスム文学史の主知的な半分(残り半分は汎性愛主義)をそっくりカバーしつつ、これまた今はもう入手できないパオロ・ロッシ『普遍の鍵』に始まる「記憶術(ars memorativa)」研究の肝心なところを伝える途方もないチャートを、ふるえるような目次案によって示してくれる。

またきな臭くなり出した「分断」のセルビア。そこにポストモダンをつくりだした『ハザール事典』のミロラド・パヴィチは、コンピュータが自分の小説の読み方を広げると言って逝った。小説にもチェスやコンピュータと区別つかぬ「詩学」があり得るのか。あり得ると言ったのがあの『青い花』のノヴァーリスだとノイバウアーに説かれて、昔ながらの「感情」べったりのロマン派観をなお抱き続けられるものだろうか。訳者原研二氏が次の標的にしているのはブレーデカンプのライプニッツ論の由。なんとも嬉しい流れである。

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2008年03月07日

『シラーの「非」劇-アナロギアのアポリアと認識論的切断』青木敦子(哲学書房)

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「疾風怒濤」を思いきって「ゴス」と呼んでみよう

ゲーテは尊敬するが、愛するのは誰かと言われればシラーである、というのがドイツ人の口癖だとはよく聞く話だが、一体、いま現在の日本にとって古くて遠いドイツロマン派の劇作家・詩人・歴史家ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・フォン・シラー(1759-1805)が大文豪だったという「噂」を聞かされても、どんだけっ、である。硬直した社会への抵抗を熱く説く革命文学者と聞くだに、ださっ、である。「疾風怒濤」運動随一の担い手だそうだが、もう疾風怒濤なんて字も響きもなんだかキモッ、である。ケータイ小説こそ新時代文学の息吹などと、かの「ニューヨーク・タイムズ」までが珍妙に褒め讃える我々のブンガク状況の中で、浪漫派、浪漫主義は、完全に死語である。

ひとつには、いわゆる独文学の世界にレベルを保ちつつ啓蒙の気概をも持ち合わせた人物がいないこともある。この2月に川村二郎氏が亡くなって、いよいよその感が強い。そうでもないかも、という動きを当書評の何回か前に少し拾って希望をつないでみせたが、大勢として独文低調の動きははっきりしている。種村季弘の五分の一のスケールの人物でもよい、一人くらい出てこい、というのが本音だが、こんなことを繰り言のように言うのも、ドイツ本国とドイツ語圏における人文学、精神史、文化学が、メディアやコンピュータの浸透を逆に追い風にして、質量ともに未曾有の発展を遂げているからである。このギャップが何ともいらだたしい。

表には出にくいが、博士論文にはなかなか優れたものがある。博論と聞いて即つまらないと感じるのは、まあ当たっていなくもないが、本欄でも実は既に二、三、一般読者にとっても面白い博士論文を取り上げている。

青木敦子『シラーの「非」劇』も、2005年に名古屋大学大学院に提出された博論「時計仕掛けの世界とマリオネット」に加筆して出版に至った大著である。博論タイトルからして此方の種村好みをチリチリ刺激する内容が想像されるが、単行本化された副題「アナロギアのアポリアと認識論的切断」が窺知させるように、博士論文かくあるべしの実に堂々たる学問的体裁も具えている。就職の便益のためと称し、文系博論も理系のそれに負けじと大量生産の悪弊生じ、あきれるようなものが書かれる傾向がある中で、久方ぶりに学問の誇りを感じさせてくれる労作だ。商業ベースに乗るわけないこの大作を、著者を励ましながら出版させた哲学書房社主、中野幹隆氏も流石のものだ。かつて時代の風とさえなった雑誌「パイデイア」や「エピステーメー」の名編集者だった中野氏の名に「故」を付けなければならないのは呆然たる事態だ。中野氏に差し迫った死を知る由もなく氏への謝辞を書き募る「あとがき」に感慨胸に迫るものあり。団塊と少し下の年老いた知的少年に熱くも爽やかな夢の「哲学誌」を次々送ってくれた天才編集者追悼のためにも、青木氏のシラー論を本欄で取り上げる価値がある。

オランダ黄金時代に大流行しただまし絵的静物画の巨匠ヘイスブレヒツの「だまし絵のだまし絵」を表紙にあしらっていることで既に明快なように、フーコーが近代エピステーメー論の主舞台とした17世紀、「表象」に生じた大変動が150年後のロマン派といかに深く共鳴したかを論じる。フーコーの『言葉と物』のシンボル的存在、ベラスケスの『侍女たち』をめぐるあまりにも有名な解釈合戦がシラー作『ドン・カルロス』の分析にフル活用されるが、そういったいま現在の人文学にとってとてもアクチュアルなシラー像、「われらの同時代人」としてのシラー像を青木書は存分に提示してくれる。

表紙と帯の関係も一寸だまし絵になっているあたり、中野氏のウィットを懐かしめるが、その帯に「本書はシラーのテクストを触媒に激発する21世紀思想の化学反応の場である。神の模写から、崇高な主体への構造変動を、解析しつくした力業。」とあって、内容これに尽きる。という以上に、「親和力」など「化学」に思想最大のメタファーを見たドイツロマン派の核芯を知る中野大人のウィットの鮮烈を感じた。

カントを読み「崇高な主体」にめざめることでシラーの劇作に生じた、前期と後期との「認識論的切断」を言う。「前期」を後期成立に至る過程という扱いから独立させ、新興市民階級が否応なく孕む両義性に見合ったものとしての悲喜劇ごっちゃ(もはや「悲」劇でなく「非」劇だとは、そういう意味)の「ゴシック的混合(die gotische Vermischung)」の徹底した分析が、シラーを現代演劇に一挙に近づけてくれる。「眼差し」のありようでいかようにも見える世界の混沌に悩み、「視」そのものを具体化させた演劇というもののさまざまな仕掛けを通して、まるで17世紀バロック劇場の人間のようにあたふたと振舞った「前期」のシラーの方が、カント体験以降の「主体」を云々する近代的シラーよりはるかに豊かに思えるという結論また、シラー好みの「どんでん返し」と言って言えなくもない。

「眼差し」をキーワードに、「ピクチャレスク」や「イリュージョニズム」への深い理解を武器にした新しい視覚文化論的な演劇論ということでは、フランス古典主義演劇をめぐる秀才、矢橋透『仮想現実メディアとしての演劇』と双璧であろう。副題にある「アポリア」をパラドックスと言い換えてもよい内容で、貴族と市民、善と悪といった対極が間断なく逆転する。パラドックスの演劇が問題なのであり、パラドックス関係を何冊か取り上げて調子が上がってきたその大喜利に、ドンとこの大冊で仕上げをしよう。演劇と「視」という問題に引っ掛けて、いよいよ本欄の本命たる視覚文化論の面白い本、大切な仕事の方に、以下徐々に目を向けてみる。

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2008年03月04日

『パラドックスの扉』中岡成文(岩波書店/双書 哲学塾)

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「知」は何かを明らかにしつつ、他の何かを覆い隠してしまう

書評シリーズとして持つべき選択と論旨の連続性を少し破って伴田氏による19世紀末の天才パズルメーカーの作品集を取り上げたのは、実はこの『パラドックスの扉』とペアにして考えてみたかったからである。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」理論やマトゥラーナの「オートポイエーシス」理論を易しく解説しようというバリバリの哲学入門書が示す「主体」だの「認識」だのというものが、要するに「パズル」に見えてくるかどうかだ。ひょっとしてそれは人々の持つ「哲学」なるものの既成イメージを貶下することになり、逆にパズラーたちの娯楽を不当に高く評価する暴挙と思われるかもしれないが、伴田氏のどこまでも軽そうに見える傑作パズル・アンソロジー中のパズルたちの多くは人間の「思い込み」の隙間に乗じる奇想であるという点で、そのものずばり、時代の「哲学」と正確にパラレルであったはずのものだ。ラッセルの階型理論やカントールのパラドックス、リュパスコのメタ論理学、そしてウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論といった、誰が見てもパラドックスの歴史であるものを論じながら、伴田氏がパズルと呼ぶよりはるかに多く印象的に「パラドックス」と呼ばれた、19世紀末から1930年代にかけて大流行した知的パズルのことが念頭になさそうな哲学入門は、今時やはりそれだけのものかな。そういう感覚があって、まず伴田氏の一冊を取り上げた。

「哲学をやるにも歴史は大切です」と中岡氏は言うが、その歴史がいわゆる歴史年表上の辻褄合わせ――ヒトラー政権とハイデガー哲学、etc.――では、しょせん旧套哲学史の枠から出ることはできまい。今や、パズル、ゲームと交錯する文化史レベルでの哲学史なり哲学入門が考えられてよい。ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は難解は難解だが、その辺の感覚がとてもポップだった。そこで狂言回しを務めたキャロルが言った「人生そのものがパラドックス」という言葉をキーワードにして進む伴田本には途方もない広がりがある。

実はデュードニーたちが練り上げたパズルは「数学的レクリエーション」と呼ばれ、ルネサンス以来、広く「パラドックス(アンド)・プロブレム」なる一大知的ジャンルに属していたものだが、その辺を一挙に明るみに出したロザリー・コリーやバルトルシャイティスの研究にちゃんと触れながら、「知」全体の中にいわゆる「哲学」を位置づけようとする哲学の人間がなかなか出てこない。ミッシェル・セールの『ライプニッツと数学的モデル』は、バルトルシャイティスの『アナモルフォーズ』をモデルにデカルト時代の哲学史を書き直したものだが、セールその人が旧套哲学においてはみ出し者扱いの現状では、致し方ないわけか。

そういう途方もない開け方からすると、『パラドックスの扉』は、プラトンのイデア哲学から「生の哲学」、オートポイエーシス、環境生命科学、知識社会学へと、まるで月毎で慌しい月刊誌『現代思想』の特集号を十号分、二十号分読んだように「現代思想」と哲学が接する部分についての展開が速く、びっくりさせる割には、あまり開けていない印象だ。しかし、パスカルの「繊細の精神」がデカルトに対峙したあたりから始まる近代哲学史の概要については、出るべき名はきちんと出てくるし、頭でっかちな欧系哲学史にどかんと風穴を開けるプラグマティズムへの共感など、個人的にも著者の頭と感性の爽快味は大いに気に入った。なかなか柔軟なヘーゲリアンである。ロマン派哲学の百科全書趣味も、威圧的なヘーゲルの「多感な二十代の・・・テクスト」をこそ好きで、「30歳のハイデガー」をこそ好む「知と愛」の熱き哲学者というところも、一般啓蒙の「塾」の語り部としては大きな魅力だ。

哲学史を「境界設定」のパラドックス、「知的操作の不可視化」のパラドックス・・・と、次々に「知のパラドックス」の「自己増殖」の歴史として書き直す口語体、フォーラム [広場] の対話体のテキスト。ぼくなども面白くてだいぶ開発した授業語り起こしの形式。読む分には肩こらず幾らでも読める。易しく語っている途中に意地悪な質問がぽんぽん出てくる呼吸が面白く、そして突然難解な専門家口調になって、「この辺で今日は切り上げます、あとは自分でじっくり考えてみてください」で終わるパターン。このいい加減さが、ソクラテス以来、「対話」というこれ以上ないほどパラドキシカルな――絶対を嗤う相対主義的な――議論進行のやり方であることを、知り抜いている著者ならでは、とわかると、全巻一挙納得である。天才的塾生の「ねじくれたプラスティックのハンガーが怖い/正せば壊れる気がして」という秀句ひとつ前にして「知についておしゃべりすればするほど<真理>は遠くなる」と呟く著者の、十分に風の通る頭脳に乾杯。「などといいつつ、このような本を執筆し、公刊することのパラドックスについては今は問うまい」、と。好ましい精神の健全さである。

ちなみに初版1998年。「9・11」前だ。「文明の衝突」の大パラドックス抜きに哲学はもはや語れない。

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2008年02月26日

『フランス<心霊科学>考-宗教と科学のフロンティア』稲垣直樹(人文書院)

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フーコーの「タブロー」が降霊会の「テーブル」に化けた

科学とは何か、その終わりない発展過程を見ていると、それが拠るとされる観察や客観性そのものが時代や文化に規定された「パラダイム」や「エピステーメー」の産物である以上、特殊歴史的なものと知れる。たとえばフェミニズム的関心が急に強大になった1880年前後の性差別的科学が、実はいかに観察と客観性を口実に偏向イデオロギーによってつくりだされた「擬似科学」でしかなかったかを、理論的にはディディ=ユベルマンの『アウラ・ヒステリカ』、素材的にはブラム・ダイクストラの『倒錯の偶像』を通して、驚愕とともに知った。典型はチェーザレ・ロンブローゾの犯罪人類学。名からして既に「学」と呼ぶのはどうかと思われる、“こういう顔の造作の人間には窃盗犯が多い”といった類の「科学」であるが、現にユダヤ人差別や女性蔑視の根拠としてフル活用されたのは、今や周知のところである。

問題の19世紀末から20世紀初頭にかけての時期に「心霊科学」、というか「科学」の名を帯びたスピリチュアリズムやオカルトが大流行を見たのも、科学をめぐる同じような議論のうねりの表現なのであろう。ぼく個人の英文学的関心から言えば、ルイス・キャロルがいる。大学の数学・論理学の教授が英国心霊現象研究協会のメンバーで、最晩年、理知の極みと言うべきテキスト『記号論理学』を書く傍ら、夢とうつつの「間」を人と妖精が往還する『シルヴィーとブルーノ』正続篇を書いた。理知といえば名探偵シャーロック・ホームズだが、キャロルの妖精たちと同時代人である。名探偵の作者コナン・ドイル卿が晩年にかけてスピリチュアリズムの使徒として振る舞い、奇術師ハリー・フーディーニ絡みで「あなたの知らない霊の世界」の存在を人々に教え歩いた経緯は、チャールズ・スターリッジ監督の知る人ぞ知る名作「フェアリーテイル」で実に面白く撮られている。また、神秘主義結社「黄金黎明団」に出自を持つウィリアム・バトラー・イエイツに至ってはノーベル文学賞を受賞している、などなど例に事欠かない。ドイツ語圏でもロマン派が発見した無意識界が百年尾を引いて、「科学」者フロイト、ユングの「心理学」に噴出した。そのことを先回『フロイトとユング』で徹底して復習することができた以上、いやでも19世紀末フランスではどうだったのか、知りたくなる。そこに稲垣直樹氏の今次の力作新刊である。

エリファス・レヴィ他の薔薇十字思想については、澁澤龍彦氏紹介のおかげでよく知られている。ジャン・デルヴィルの高度に象徴的な絵など、そういう文脈抜きでは全く理解できない。哲学者アンリ・ベルクソン、ノーベル生理学・医学賞を受賞したシャルル・リシェが英国心霊現象研究協会の会長を務めたのはなぜか。そういえば、キュリー夫妻が降霊会に参加し霊世界のファンだったという噂もある。

こういう問題に一挙に答を出してくれるのが、本書である。稲垣氏の名を有名にした『ヴィクトル・ユゴーと降霊術』から十数年。そのユゴーを再びメインに据え、宗教家アラン・カルデック、天文学者カミーユ・フラマリオンと三本の柱を立てて、宗教(カトリック)が説明の力を失った霊界、超越界のことを科学が引き受けようとした「心霊科学」の19世紀末的流行を縷説する。

やはりユゴー論が圧倒的に面白い。『レ・ミゼラブル』が妙に感傷化されたものをこの文豪のイメージとしている我々は驚くほかないほど、実はユゴーはグロテスクや「無意識」の昏い世界にどっぷりの「幻想」作家。空中に自分の名のイニシャルが怪物のように出現する絵をたくさん遺した異様な「幻想」画家でもあった。その辺までは知っていたが、これほどまで「テーブル・ターニング」、降霊の「こっくりさん」集会のマニアだったとは知らなかった。それが綿密なノート『降霊術の記録』を第一次資料として実に克明に分析されるのが、本書のハイライトだ。とにかく、稲垣氏が「創造的シンクレティズムの時空」と呼ぶユゴーと「霊たち」の交渉ぶりが凄い。シェイクスピア、バイロン、ウォルター・スコット、ルソー辺りは当たり前、プラトン、ソクラテス、マキアヴェッリから、モーセにキリスト、マホメット・・・出てくるわ、出てくるわ。彼らとのやりとりで作品推敲が進んでいくプロセスが、要するに強烈な間テキスト空間にも他ならないことを、ジュネット他「物語」論にも詳しい著者が見落としていないところが、一番説得力あり、面白い。

フーコーのエピステーメー論、トーマス・クーンのパラダイム論に19世紀末「科学」を入れようとする構成は骨太かつ大胆で感心したが、やはりユゴー、フラマリオンという「超」のつく奇才の選択と、ユゴーの一次資料に現れる隠秘主義と間テクストの関係の読解に魅力がある。類書なし。

科学者が「非科学的」教義に埋没したオウム・サリン事件にヒントを得た、という事情を伝える「あとがき」で、一挙にアクチュアルになり得た本であろう。

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2008年02月19日

『フロイトとユング-精神分析運動とヨーロッパ知識社会』上山安敏(岩波モダンクラシックス)

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「モダンクラシックス」の名に愧じぬ呆然の一冊

人文学がだめになったと人は言う。だが、そうでないどころか、上山安敏氏の『神話と科学―ヨーロッパ知識社会 世紀末~20世紀』、そしてこの『フロイトとユング-精神分析運動とヨーロッパ知識社会』のような名著が現に書かれていたりして、イマイチ輪郭と中身が巧く定まらず厄介な文化史・文化学に、そうした名著群がかなりの実体を与えてくれ始めていることを考えると、人文学のある局面など未曾有に面白くなりそうな気がする。

その局面というのは、たとえば、フロイト・ユング往復書簡(邦訳:講談社学術文庫〈上〉〈下〉)の編集ウィリアム・マクガイアの『ボーリンゲン-過去を蒐める冒険』(1982)が頂点を極めた優れた知性の交流史、スケールの大きい学界史・学問史、文化コロニー興亡の追跡の分野で、あるべきプロソグラフィー(人物研究)としての個人の文化史研究も、こうした個人と個人のダイナミックな関係をちゃんと押さえる人と知の交流史を背景に置くと、一層面白くなるはずだ。誰と誰がどこでどう会ったが故にどうなっていき、その出会いの結果、別の誰がまた他の誰かと出会うことになる、という壮大な連続的・累積的記述。「出会いのアルケミア」!

別に難しいことを言っているわけではない。人文学の優れた本は何を論じていようと、そこに介在した人間関係について卓越した考古学を大なり小なり含んでいる。そのことをたとえばぼくは『ブック・カーニヴァル』でえらく大仰にやろうとしたし、モデルにした山口昌男『本の神話学』も、先達である林達夫氏に敬意を表しつつ戦間時代のワイマール文化やアビ・ヴァールブルク周辺をめぐって大きく切り開いた方法だ。1970年代初めからこういう人的交流の追跡をテーマとし、方法として山口昌男氏はある時点からそれを歴史人類学と名付け、『敗者の精神史』(〈上〉〈下〉)、『挫折の昭和史』(〈上〉〈下〉)、そして極めつけの『内田魯庵山脈』を、力を失いつつある人文学全体へのカンフル剤とした。全ての出発点となった『本の神話学』、それが出発点としたスチュアート・ヒューズやピーター・ゲイの人的交流史、山口氏と雁行するように人的交流そのものの発掘と関連付けで異彩を放った『ヴォルプスヴェーデふたたび』他の種村季弘、そういう知性交流史あまたの主人公の一人、芸術心理学のE・H・ゴンブリッチがヘーゲルやパノフスキー、ホイジンハやフランセス・イエイツといった面々をめぐって知的交流史を記述した“Tributes”(『貢物』)など、今やたちまち十指に余る仕事を思い出すことができる。

この欄でも、ぼくのそういう趣味が働いてその種の本を多く取り上げてきた。菊池氏のドイツ郵便制度論も、ウェブスター辞書を介する明治啓蒙人士たちの動きをめぐる早川勇氏の労作も、実は皆、ダイナミックな人的交流がうみだす知的ムーブメントの記述である。岩佐壮四郎氏による島村抱月をめぐる日欧両舞台での華々しい人と人との交流を明るみに出した仕事など、実はいろいろある。山口門下一の情報通である坪内祐三氏の新刊など、こういった人的交流史の名作・奇作揃いではあるまいか。

それ自体でこうしてひとつの(超)ジャンルになりそうな文化史記述の模範的な傑作が、1989年に岩波書店が出した上山安敏『フロイトとユング』である(現在は岩波モダンクラシックス)。精神分析の祖とその第一の高弟のあまりにも有名な袂別を、二人が属した文化の中の軋みという大きなスケールから捉え直す。いわゆる科学と、いわゆるオカルティズムとの間の線引きが、二人違った、とする。これがこの本の中心主題であるが、世紀末からハイモダニズムにかけての魔都ウィーンのみが可能にした異物混淆の環境に「モデルネ」とそれがうんだ神経科学、「神経小説」を置いてみる克明な作業を通して、上述の呆然とさせるようなスケールの知性交流史、そして当然、都市文化論の名作に仕上がった。

世紀末~1930年代のウィーンが、西欧と中東欧(ユダヤ)ふたつの流れが混じり合う長い歴史(三谷研爾編著『ドイツ文化史への招待』でぼくらはその大体を掴めているはず)の頂点にあり、こういう文化史のこれ以上ない標的たり得ることは、ジャニク、トゥールミンの『ヴィトゲンシュタインのウィーン』を陽とし、ゲルハルト・ロート『ウィーンの内部への旅』を陰とする、ウィーンのKultur-Reisefuhrer を通して見当はついていたが、それにしても異物同士のこの混じり合いのもの凄さは何だ、と上山書を見て改めて呆然とする。神経医学の誕生を都市論の中でやりおおせたデボラ・シルヴァーマンの大著“Art Nouveau in Fin-De-Siecle France : Politics, Psychology, and Style”(邦訳『アール・ヌーヴォー』)と堂々肩を並べ、ひょっとして田中純の『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』を準備した一冊、という位置付けだ。

これを法学部の有名教授がやりおおせたという事態が凄い(退官記念)。法学部の授業にユングやヴァールブルクが出てくる。うーん、脱帽です。

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2007年12月07日

『都市の詩学-場所の記憶と徴候』田中純(東京大学出版会)

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エイデティック(直観像素質者)のみに書ける本

人文科学はもはや過去のものという貧血病の負け歌、恨み節は何も今に始まったものではないが、大体済度しがたい語学オンチや無教養人とぼくが見ている連中に限ってそういうことを言っているので、本気で聞かない。なに、人文科学はこの四半世紀、かつて見ない自由度と結実の豊穣を見、しかも昔なら何の関係がと思われていたディシプリンの境界あたりで他の知の領域と生産的に混じり合って何とも形容しようのない快と愉悦をうみつつある、ということをぼくなど、浅学の者なりにしたたかに予感し続け、そして現に今、天才田中純による一大スケールの新人文学マニフェストを見て、この予感が的中していたことを改めて心強く実感している。

例えば記憶術が面白いらしいといろいろ「紹介」しても、ハナで嗤われた。ヴンダーカンマーをやらないでどうすると主張しても、渋・種小僧の暇つぶしと言われた。アール・ヌーヴォーとナンシー派心理学の連繋をエミール・ガレを通して語るデヴォラ・シルヴァーマンの大冊(“Art Nouveau in Fin-De-Siecle France : Politics, Psychology, and Style”/邦訳『アール・ヌーヴォー-フランス世紀末と「装飾芸術」の思想』)に興奮して「紹介」しても、何のこっちゃという扱いだった。今は歴史家サイモン・シャーマの「クロニクル」の再評価的方法による歴史学の「紹介」を終えて、なぜか彼我の差が全く感じられないバーバラ・スタフォードの、まだ訳し切れていない何冊かの邦訳に忙殺されている。

といった高山宏のこの20年ほどの過去と現在を軽くスッポリと射程におさめてしまう仕事が、いずれ出てきてくれないと困ると思ってはいたが、こんなにも早く登場してきてくれてはね、と頭掻いている。それが田中純氏の一連の著作著述であり、極めつけが今次の『都市の詩学』である。アカデミーに捉われない自由な博言博読を背景に個性的な文章使いで一種知的な抒情さえ醸す視覚文化論ということでは、海野弘の『装飾空間論-かたちの始源への旅』(美術出版社、1973)、そして多木浩二『眼の隠喩』に次ぐ驚くべき完成度のエポック・メイカーたる一着ではあるまいか。

だが<波打ち際の知>を標榜するからといって、いわゆる<学際的>分野にありがちな、門外漢のいい加減な思いつきをほしいままにした衒学的エッセイと受け取られてしまうとしたら、これほど無念なことはない。本書では、実証主義的な真理の限界をも問わざるをえないがゆえに、実証性を確保できる場面では、よりいっそう厳密な論理と精密な考証を心がけたつもりである

と著者言にあって意外な小心に苦笑いしたが、この一著通読して誰が「いい加減な思いつき」などと思うものか。視覚文化論という小洒落た枠を外せば、最も輝いていた時の山口昌男的パースペクティヴをしっかり持つ。山口の最大傑作『文化の詩学』(〈1〉〈2〉)の強力対抗馬。達人たちが行き着くところ「詩学」というのも偶然でなく、面白い。

例えばこんな文章をさらりと書けるか。

一九二〇年代から三〇年代にかけてのヨーロッパ、とりわけドイツにおいて、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの形態学(モルフォロギー)は、美術史を含む数多くの学問に多大な影響を与えた。それはたとえば、アビ・ヴァールブルクの図像アトラス「ムネモシュネ」、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』、アンドレ・ヨレスの『単純形態』、カール・グスタフ・ユングの「元型」概念、オスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』、ルートヴィッヒ・クラーゲスの「表現理論」、ウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』などである。一方において形態学は、シュペングラーの場合のように、擬似科学的な思弁に陥る危険を孕んでいた。しかし、他方において、クロード・レヴィ=ストロースに対するプロップの影響が示すように、形態学の方法は文化現象の科学的分析、とくに構造主義やカルロ・ギンズブルクの「ミクロ歴史学」の方法論を準備するものであった。(p.185)

ゲーテのモルフォロギーに淵源を持つことが少しずつ知られ、少々好事家風扱いながらロジェ・カイヨワやバルトルシャイティスなどの仕事を通してその片鱗が知られる程度の形態学よ再び、の輝かしいマニフェストでもある。『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』もそうであると言えるが、読者が限定されるモノグラフより、間口の広い今作『都市の詩学』の方が、田中純躍進のためには絶対好個のマニフェスト本だ。出来方は『都市表象分析〈1〉』と同じだが、同じ雑誌『10+1』連載記事のコンピレーション本といっても、この『都市の詩学』は、「都市」という「通時的な出来事の無数の連鎖を、巨大な規模で物理的に、共時的な空間構造として記録してゆくメディア」(p.164)が、その厄介な相手を読みほぐす方法の模索のど真ん中、そうした融通自在な方法のあり方自体の中に姿を現すという、まるで田中氏が間断なく参照するベンヤミンやアルド・ロッシそのものの都市表象分析の方法論を一貫して追跡していく。そのはっきりした目的意識が旧作とは違うし、暴力だ戦争だという暗めの話(?)をテーマにした『死者たちの都市へ』よりも、田中純への入り口としては断然良いのかもしれない。

アルド・ロッシの『都市の建築』『科学的自伝(アルド・ロッシ自伝)』の分析により、集合的記憶としての都市、特に境界域の創造的両義性のテーマ、ヴァールブルク研究で自家薬籠中のものとなった「パトスフォルメル(情念定型)」を対象に求めていく方法、「隠れたものを上手に発見する」セレンディピティ、即ちギンズブルクが「徴候的な知」と呼び「狩人の知」と称した方法でないと、そうした都市の「アハスウェルス」(「さまよえるユダヤ人」の名)としての変幻無限な相貌は捉えられまい、という本全体のテーマと方法の全部が示される。あとはこのロッシ論の展開である。

とは簡単に言うが、上に引用した文章に明らかなドイツ文化・社会学の系譜、特にベンヤミンへの並々ならぬ傾倒、『分裂病と人類』の中井久夫、ある時期、新しい学のバイブルとして人気のあった『胎児の世界』の三木成夫の世界への深い共感、網野善彦・中沢新一コンビの境界文化論への親和など骨太な背景を構えながら、江戸の連歌やら小村雪岱の「面影」絵やら、トマソン物件・路上観察学会やら、カエルの進化論・図像学やら、畠山直哉や森山大道の写真やら、次の章に何がとび出してくるやら、まるで一個のヴンダーカンマーさながらの面白さである。確かに一方で中沢新一本の与えてくれる学と芸の面白さが田中純のコンピレーション本にある。「痙攣的な美としての驚異」というわけだが、ヴンダーカンマーを江戸博物学とつなげる一章もあって、ローレンス・ウェシュラーの奇書を肴に、ぼくなど十年掛かりでやってきた世界をさっと、しかも過不足なく整理している。リンネの知られざる一面の話は、ぼくの虚を突いたし(ぜひ自分で読んで!)、「19世紀のパリが、すでにひとつのクンストカマー」という一行で、ぼくが長年つなげられなかったふたつが一遍につながった。

兎角、目次がこんなに楽しい経験は最近珍しい。視覚文化全体から、詩学を標榜する以上、言語化された都市(連歌から朔太郎まで)も話題に乗せる。視覚と言語の間を越える手続きはもちろん議論されるが、「都市は街路名によって言葉の宇宙となる」というベンヤミンの一言の引用で全てオーケーとなるところが、ベンヤミンの、そして田中純の神がかりだ。

個人的に一番感心したのは、参照されて登場する人やその所説が次々喚起され、交錯する最中にいろいろ巧みに混淆して、認知考古学だの、生命形態学だの、生態心理学だの、見慣れぬ新知・奇知のインターディシプリナリティが至極自然に現れ、いま現在、行き詰まっている学知の世界がこうして模範的に融解・融和されていく、いわば現場の刹那刹那を目撃できること。そのスピード感はさすがの山口昌男本にもなかったし、並べるならやはり中沢新一氏だが、田中氏にはこの好敵手にない「精緻な考証」もある。いま現在、境界を越えるべき時にさしかかっている人文学が、永遠に境界にあればこそ生彩ある「都市」に自らを鏡映することでその危機を知り、越えていけという熱いメッセージと読んだ。

もうひとつ個人的なことを。今後あり得べき(田中氏の言う)「神経系都市論」のことだが、ぼくが一時百パーセント感激没入したバーバラ・スタフォードの仕事、彼女と雁行するホルスト・ブレーデカンプの業績を、ヴァールブルクの「古代の残存」美術史学と結びつけてその意味を文脈の中でわからせてくれた「神経系イメージ学へ」という一文こそは、面白さのみに引きずられいわば力ずくで「紹介」してきたスタフォードの仕事を、「紹介」者自身にはじめてわからせてくれた電撃的な一文であった。スタフォードやそのドイツ圏の眷族が追求中の「あらたな陶酔の技法を知る神経病理学」の動向は、いま現在一番重要な学問語になりつつあるドイツ語に堪能な田中氏が熟知している。といって、フランス語だって、ディディ=ユベルマンひとりで大変な豊穣を誇っているが、それももはや田中氏のフィールドである。

いま指折りに面白い人と分野をこうして総なめにし(ふたを開けるとつまらぬものと知れる相手に、見たところ全く手を出していないところが凄い)、その本を「まだかたちをとらないそんな理論を予感させる思想の系譜が描いた歴史のアラベスク」と自評する言葉がまたニクい。コンテクストの中で生きる一行二行がアフォリズムとして立派に立つこの人の文章は麻薬的だ。さらに学のある平出隆や港千尋というこの感じは本当に凄い。ぼくは、嫉妬を感じる必要のない老年に達してしまったことを幸運に思う。ぼくの書物殿堂にこれも入れよう。ヴァールブルク論はきつい本だったが、『都市の詩学』は幾重にも楽しい。

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2007年09月14日

哲学の歴史〈4〉「ルネサンス 15-16世紀」伊藤博明(中央公論新社)

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哲学されなかったもののなかった三世紀をねじふせる

不況の時には哲学がブームになるとは昔からよく言われてきたことだが、若い人に哲学を教える名手だった池田晶子氏の茫然自失させる急逝が契機になり、松岡正剛氏が今時の「17才」には一寸無理という17才向きの哲学の編集工学書が呆れるほどのロングセラーになったり、広義の哲学ブームがあるようだ。先日の朝日新聞でも何故このブームとして哲学関連書や企画の好調ぶりを伝えており、その筆頭に中央公論新社創業120周年記念出版「哲学の歴史」全12巻プラス年表・索引別巻という大企画のスタートの上首尾が寿(ことほ)がれていた。ぼくもある巻にささやかなエッセーを寄稿している御縁で早々と何冊か通読したのだが、第4巻「ルネサンス 15-16世紀」を取り上げてみる。

理由がある。この書評シリーズで既に褒めてきた博学博言の伊藤博明氏責任編集とある。書肆ありな書房で出るルネサンス・オカルティズム関連のヴィジュアルな研究書の大半を訳し、ヴァールブルク著作集を監訳ずみの氏が責任編集ということで、この半世紀、一変したといってよいルネサンス哲学研究が一挙に「ポップ」に見えてくるかという期待が持てたし、当然大きく扱われるべきジョルダーノ・ブルーノをご存知『ロバのカバラ』の訳者たる加藤守通氏が書くというし、実は哲学のインフラとして決定的な出版メディアについては我が朋友たる偉大なユマニスト、宮下志朗氏が寄稿と聞いて、熟読しないわけにいかない。第一、ついこの間、中沢新一『ミクロコスモス』〈1〉〈2〉を取り上げたが、その標題にバルトークを介して、ピーコ・デラ・ミランドラやカルダーノ、テレージオに繋がる自然哲学者、中沢のありようが、いきなり透けて見えた。どうしても今回はこのルネサンス哲学史を見るのが筋だ。

主体は1500年代。それに、クザーヌスからピーコ・デラ・ミランドラの1400年代が付く。1400年以前ではいきなり冒頭にペトラルカ。尻の方はフランシス・ベイコンから、ついにデカルトまで。大半が文業でばかり声名高いペトラルカが何故この本に、というところから、なかなか秀逸の監修ぶりが窺える。「哲学と文学の統一」者として扱われる。

哲学、哲学してあまり哲学脳をしていない読み手を悩ませる監修や分担論者各人の記述でないのが、有難い。今の時点でルネサンス哲学といえば、フィチーノ、ピーコ、そして遡ってクザーヌス辺りの、いわゆる隠秘哲学、ネオプラトニズム思想の線が真芯に出てくるはずだが、どう国家を経営すべきか(マキアヴェッリ、ジャン・ボダン)、立派な市民とはどうあるべきか(ブルーニ、パルミエーリ)といった実際的な思想と哲学が区別できない、宗教(ルター)と広濶な人生観想(エラスムス、モンテーニュ)と哲学が未分化な界域が次々と展開され、今われわれが哲学と呼んでいる世界がいかに根拠なく狭いものになってしまっているかに思い至って、愕然とした。トマス・モアの『ユートピア』を論じる高田康成氏のいうフィロソフィア・キウィリオル(philosophia civilior 市民哲学)が、国家経営術と(狭義の)哲学に分裂したところに、現代世界の政治の貧あり、と感じる。

今時当然というべきかもしれないが、隠秘哲学と「市民哲学」が良い具合に交錯して進んできた――時系列的にもテーマ的にもこれ以上ない順序だ――展開は最後、自然哲学(カルダーノ、テレージオ、ガリレオ、F・ベイコン)で終わり、そしてデカルトの実はルネサンスを引きずった側面を見て終わる。構成完璧。

完璧といえば巻末文献一覧も、ごく最近の学界動向まで丹念に拾って素晴らしい。クザーヌスの「無知の知」(「覚知的無知」と訳すべき理由を、八巻和彦氏に教えられて目からウロコ)論を中心に、それこそペトラルカやモンテーニュといった、哲学とするには厄介な相手を次々、一冊の哲学書にライン・アップした稀代の名著、ロザリー・コリーの『パラドクシア・エピデミカ』(1966)を思いださないわけにいかないが、この本など落ちているのは伊藤氏としては抜かったか。

たとえばアルキビアデスのシレノスの逸話が何度か引き合いに出される。プラトンの『饗宴』に出てくる醜怪な老人の人形ながら、割れると「中には神々しく光り輝く神の像が安置」されているという内/外の対立/一致のシンボル。たとえばエラスムスの『格言集』を論じる月村辰雄氏の絶妙の一文は、こうだ。

これが『格言集』の最大の魅力なのだが――「しかし、これらの人物にもまして、キリストこそは最もシレノスに近いのではないか」と、突然キリスト教の問題に話題を転じて読者を驚かせる。キリストは人々からは蔑まれ、嘲りを浴び、十字架の上で最も惨めな死を迎えることになったが、しかしその死によって人々に救いをもたらした。その内面において栄光に輝いているのだと、キリスト教の立場から霊的な意味が取り出されることになる。こうして、異教的な知識とキリスト教の教えとが、比喩的な意味のレベルにおいて接続を果たしている。異教の著作についての豊かな知識がキリスト教の教えを導く手助けをしているという意味で、これを人文主義的方法と称することができるであろう。また最終的にいかに豊かにキリスト教的意味を導くかが問題となっているという意味で、これをキリスト教的と称することができるであろう。・・・(p.323)

相容れぬはずの多様な要素が、この「キリスト教的人文主義」のようなアマルガムの大渦小渦をつくったのが、要するにルネサンスの哲学なのであり、それをペトラルカから、真空発見のトリチェリまで追跡し切ったRosalie Colie, "Paradoxia Epidemica" が文献に欠けているのが、あまりにも勿体ない。アマルガメーティングな時代の哲学のパラドックス狂い。「哲学」としては初めてという強度のマルティン・ルター論を書いた清水哲郎氏による、ルターの「神学的逆説(theologica paradoxe)」論は、逆にコリーもまっ青。一番読み出のあるルター論、ブルーノ論、カルダーノ論、皆、逆説の哲学なるが故の面白さとみた。これは何が何でもコリーを日本語にしようと、この本を手に改めて決心した次第。

昔、カント哲学者、黒崎政男氏が、哲学はヴィジュアルに示せないもんな、とぼくに嘆いてみせたことがあるが、そんなことはない。とりわけ、ルネサンス/マニエリスム期のヴィジュアル・シンキングの度は凄い。そこの紹介の第一人者たる伊藤博明、岡田温司、両氏の役割がコラムに封殺されていることが、口惜しいといわばいえる、本邦哲学界のメディア感覚であろうか。それはルネサンス最末期を飾る哲学と美学の接点――マニエリスムの「内的構図」美学――が今時、完全に欠落してしまっているところにも通じている。哲学を「イメージの回廊」というコーナーにしてみせるのは敢為と思うが、これは、とりわけヴィジュアル・シンキングの強かった18世紀を扱った「哲学の歴史」第6巻などそうだが、難しい(B・M・スタフォードに学べ。そのために、ぼくが急いで訳したのに)。望蜀妄言多謝。

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2007年09月11日

『ミクロコスモス』〈1〉〈2〉中沢新一(四季社)

ミクロコスモス〈1〉
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ミクロコスモス〈2〉
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アナロギア・エンティスの天才と同じ時代に生きていることに感謝

ほとんどが今世紀になってからあちこちの媒体に中沢新一の書いた中小掌編エッセーの集成。これからもⅢ、Ⅳ・・・と続いていくことが第Ⅰ巻の「短い序曲」に謳われている。

このさき何巻にまで脹れあがることになるか予想もつかないが、それを構成することになる文書のひとつひとつが、私の思考の全体性へのつながりを保ったまま、“小宇宙”としてのたたずまいをしめしていると、読んだ人に心づかれるようであってほしいものである。

楽しみなことだが、考えてみると、凡そまともなもの書きなら誰しも、その一作一作がその人の「全体性へのつながりを保っ」ているはずのところ、これが何だか新鮮な方法ないし新境地にみえてくるところが、いつも方法論そのものに詩を感じさせるのが絶妙に巧いこの書き手の強みであるに相違ない。

単純さの中に全てがとでも言いたげに瀟洒な淡いクリーム色のカヴァーに標題を浮き出す MIKROKOZMOSZ の文字は、ハンガリー語。何を気取ってと思うと、これが実は『ミクロコスモス』を作曲したバルトークに献げられた本とわかる。全体が神話論と音楽論として見るべきものあるエッセー集であり、20世紀前半の思想と音楽に実は同じことが生じていたことを点検する本であって、実にあや憎いばかりの意匠であろう。

マクロコスモス(大宇宙)が星や木石の外なる宇宙を、ミクロコスモス(小宇宙)がヒト一人の身心を指し、この両者が照応し、共鳴し合うというのが、神秘主義諸派の一貫した感覚であって、この本にも中沢ヴァージョンの神秘主義的世界感覚が流れていることがわかる題名であることなど、もはや自明。

神話的思考とは何で、「近代の150年ほどのプログラム」の制度疲労の後、それがいかに必要なものかという点を、どの一篇もが一個の「小宇宙」として反映している。そして大きくふたつに分かれてしまった世界をつなぐ中間、もしくは境界(性)というものの積極的称揚。梟(ふくろう)を論じても庭を論じても、ミッシェル・セールを論じても岡本太郎を論じても、その基本は微動もしない。見事にミクロコズミックな方法を持つ。

扱われる素材はだから自在で、ほとんど奔放といってよい。土器論、南方熊楠、藤森建築学、ヤナーチェク論、正岡子規論、金春禅竹論・・・。どこからどれを読んでも面白い。寿司がレヴィ=ストロースの「料理の三角形」スキームの中でいかに「岬のさきっぽ」の意味を持つ料理でありうるか、サンタクロースが訪れてくる「音連れ」がいかに異教のラフミュージックに由来するものか、いたる所にアッという発見があり、しかもそれがふって湧くトリヴィア泉でなく、中沢の綴る文章の中で中沢の立てる論理に従って、ごく当然のように導きだされるサプライズと感じられるところが、とても並みの詩魂ではない。

第Ⅰ巻では、レヴィ=ストロースが実はいかに21世紀的な存在でありうるかを音楽史、絵画史、数学史のチャートの中で説く「孤独な構造主義者の夢想」が、チャートメーカー中沢ならではで、「いまとなってはポスト構造主義なるものが、構造主義のはらむ異様なほどの過激さを、知識人や時代の嗜好にも受け入れやすい凡庸な代物につくりかえてしまう、文化世界をあげての策謀だったのではないかとさえ思えてくる」という結論も、他の人間の書きものなら、そうそう簡単にうんとは言われまい。

もう一篇、白眉は「哲学の後戸(うしろど)」。「アジアとヨーロッパの境界」たるギリシャ――という捉え方がいきなりサプライズ――が生じた闇を「魂のアジア」として内に抱えることでヨーロッパ精神ができることを弁えよ、というのが第一段。井筒俊彦の文体分析から入る手際にはアッと言わされる。その「魂のヨーロッパ」に今、日本からどうアプローチするかというところで、「日本型のグノーシス学」としての伊勢神道を浮上させるのが、第二段。グラムシから入って度会家行まで突き抜けた「境界的グノーシス」学(border gnoselogy,W・D・ミニョーロ)の知識人像のあぶりだしには、息を呑む他ない。

これに第Ⅱ巻で匹敵しうるのが「耳のための、小さな革命」。「心の中でひそかに、無意識の耳」が聴き取る「別の音律」がいかに「バッハの犯罪」――十二平均律――で疎外されたかの歴史。

ヨーロッパの哲学や思考の道具は、鍵盤楽器のようだと思います。そしてこの鍵盤楽器の最高の調律師が、おそらくカントでしょう。

何たる詩を誘惑するチャートメーキング。絶妙のキャッチコピー。ピタゴラス音階を論じる次のくだりにこれは極まる。松岡正剛を数倍した凝縮の詩性。

西欧の合理的な音楽の発端をつくったピタゴラスは、鍛冶屋からアイディアを得たという話をしました。これは、製鉄技術の重要性を暗示しようとするエピソードです。製鉄がおこなわれるようになって、人間は国家をつくり、王が誕生しました。そのときから、人間の文化のありとあらゆるものが組織替えを起こしました。鍛冶屋はシャーマンであり、最初の音楽師であったと、世界中の神話で語られています。地下世界から砂鉄や鉄鉱石を取りだして精錬をおこなう製鉄の技術と、複雑微小な音のかたまりから振動数が整った音の組織をつくりあげる音楽の技術は深いところでつながっています。こうした技術を積みかさね、人間は、今ある文明をつくりあげてきました、そして、そういう文明自体が、いまひとつの終着点に近づいているのではないでしょうか。

音楽を通しての近代批判。相異なるものを論中に結合する類推力にも感嘆するが、音楽論ともみえて実はそっくり『指輪物語』への最良最深のコメントになり始めている呼吸にも感心していたら、きちんと「21世紀は、この剣と指輪を、もとあった場所に戻す時代なのだ」とまとめられてしまう。見事な手練だ。

第Ⅱ巻ではあと、正岡子規の野球論が日本語改革とつながっていく「陽気と客観」、吉本隆明のマルクス論を「ボロメオの輪」を使って激賞し、それに比べればデリダなんぞ「周辺をうろついていただけ」と喝破して痛快な「吉本隆明さんをめぐる三つの文章」に、楽しく衝撃された。「イマジネールなもの/サンボリックなもの」を、これ以上明快に理解させてくれる文章、珍しかろう。フーコーもデリダもだめ、ミシェル・セール、レヴィ=ストロース、西田幾多郎万歳と、「現代思想」に対する中沢のスタイルは実に鮮明だ。

個人的にはセールや南方熊楠がライプニッツのアルス・コンピナトリアに近いという指摘が印象深い。中沢は意外と、ぼくやホルスト・ブレーデカンプに近いところにいるのかも。

今までの中沢の本のどれかを小さく反映する文章群。この美しい本は中沢宇宙全体を鏡映するミクロコスモスとも思えてくるはずだ。

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2007年09月04日

『ロバのカバラ-ジョルダーノ・ブルーノにおける文学と哲学』ヌッチョ・オルディネ[著] 加藤守通[訳](東信堂)

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十字架にロバがかかったイコン、きみはどう説明する?

現代文化の異貌を16世紀マニエリスムに遡って淵源をさぐる時に、ロバという動物象徴にぶつかることがよくある。一番強烈な例がシェイクスピア喜劇"A Midsummer Night's Dream"『夏の夜の夢』(1594)で、生意気職人ボトムが妖精パックにロバの頭をかぶせられ、妖精女王ティターニアに見そめられた挙句、何ともグロテスクな恋愛痴態となる段であろう。ただ笑って見ていればよいのかもしれない乳くり合いを、人と獣と妖霊、異種間雑婚の「グロテスク」と読むのが即ち、シェイクスピアを「われらの同時代人」としたくて仕様がないヤン・コットの「現代」である。

ろばの頭をした怪物を愛撫するシェイクスピアのティターニアはボッシュの絵に現れた恐ろしいヴィジョンや、超現実主義の画家たちが描く大きなグロテスクの絵に近いものであるべきだ。同時にまた、超現実主義と不条理の詩学やジュネの激烈な詩を通過してきた現代の演劇は、この場面を初めて正しく表現することができるようになっている

と、『シェイクスピアはわれらの同時代人』(白水社)のコットは言い放った。一番近いのはゴヤの『ロス・カプリッチョス(気紛れ)』の狂った版画作品だ、と。ぼく個人はもう少し心おだやかに眺められるフュッスリの一幅の方がピンときたので、『道化と笏杖』の扉口絵に、そしてコット著拙訳の『シェイクスピア・カーニヴァル』(平凡社)の表紙カヴァーの装画に、ぼく自身でこの絵を選んだ。

『シェイクスピア・カーニヴァル』は、遅ればせながらバフチーンのグロテスク・リアリズム論にふれて、かねて自説のグロテスク・シェイクスピア観に自身を深めたコットが満を持して世に問うた"The Bottom Translation" が原題。ボトムは職人の名でもあり、「底」という意味。底から尻の意にも通じ、そうなるとケツという下品な意も持つ“ass”につながり、これが言うまでもなくロバである、という「物質的下層原理」(バフチーン)そのものの融通自在の連想がある。

マニエリスムとは聖俗反転の文化の謂(いい)である。性愛においても然りで、コットの言う「毛むくじゃらの」エロスが一方にあれば、えらく高邁なネオプラトニスムの勧める観念愛がもう一方にあり、両極がまた融通するところにマニエリスムの「汎性愛主義」(G・R・ホッケ)が成立していた。コット自身、上ニ名著において、実はこのアルス・アマトリア(ars amatoria)の両面をバランスよく論じ、とりわけシェイクスピア喜劇のヘルマフロディティズム(両性具有)的性格を浮き彫りにしてみせた。流石の林達夫(「精神史」)もコットの野放図とも見える視野の広大について行ききれず、法螺吹き呼ばわりするに至っているのが、時代の限界か。

残念、ヤン・コットがロバを手掛かりに16世紀マニエリスムの核心に迫ろうとしたニ著が、現在読めない。というところに救い手然として出現したのが、ヌッチョ・オルディネの『ロバのカバラ』(1987)邦訳である。

マニエリスム16世紀に「ロバの文学のトポス」が存在したとして、マキアヴェッリの『黄金のロバ』やジャン・バティスタ・ピーノの『ロバの考察』など珍しい作がおびただしく紹介され、ラブレー、エラスムス、そしてルキアノスの古代にまで、いくらも遡及可能だ。そこに展開される系譜考は、イタリア・ローカルを除けば完全に、バフチーンがラブレー論冒頭に示し、R・L・コリーの『パラドクシア・エピデミカ』が辿ってみせた、身体復権・逆説嗜好のルナティック・ヨーロッパの系図と間然なく一致する。オルディネは哲学者ジョルダーノ・ブルーノの「ロバが主役を演じる著作の未完の計画」を細かく追尋していくわけだが、マニエリスムの主だったパラドックス文学(エラスムス、ラブレー、シェイクスピア、ダン)を片端から精査しながら、ブルーノのみ挙げないコリーが、「余りにもずっぽりパラドックスまみれだから」と断り書きしていたことも併せ思いだされて、おかしい。

要するに、肯定的性格(労苦、謙遜、忍耐)と否定的性格(閑暇、傲慢、一面的)の矛盾をまるごと生きて「相反物の一致」そのものであるロバに、時代が多様で複合的な曖昧なものに変わっていくのを前にした不安を解消できるかもしれない、とブルーノは考えていた。河合隼雄・中沢新一編 『「あいまい」の知』(岩波書店)を思いだすが、ノーベル化学賞のイリヤ・プリゴジンが序文を寄せて「科学者にも読まれるべき」と、このロバ本を勧めているのは、その辺だろうし、この本自体、最終章を自然科学と人文科学の「新しい同盟」のために綴り、ミッシェル・セールのとりわけクレティウス研究を、自らのモデルとして褒める。

先の2000年2月がブルーノ没後四百年祭だった。無限観念を主張して異端糺問の焚刑裡に落命した。要するに、表紙の「運命の車輪」が四百年で一巡して、多様の世界を前に寛容を勧める愚かで賢いパラドックス精神がゆっくりと蘇りつつあることの証言。聖俗、賢愚の反転を知恵として恵む本を続けて何冊か読んできた仕上げには、この本しかあるまい。

批評理論として卓抜しているのは「文のエントロピー」の章。多様性・複合性を主題とする文体や修辞までが「解体」され、ジャンル混淆され、対話の形にならざるをえない「マッチング」(E・H・ゴンブリック)の必然を説く手際は、まるでコリー。そして、まるでバフチーン。なのに、コリーもバフチーンもオルディネは知らぬ気配なのが、結構イタリア学究の「うとさ」で、可愛い。「素人の収集家」として集めたマニエリスム・ロバ画のコレクションは貴重。コリーの重量級な『パラドクシア・エピデミカ』の拙訳間近だが、それまでルネサンス・パラドックスの研究書としては、これ以上のもの、一寸期待できない。東信堂はブルーノ著作集を刊行中の実に有難い版元だが、その付録巻の形で、これ以上はないすばらしい一巻を刊行してくれた。東信堂はえらい。

序文は、イタリア発信の名著の常として、エウジェニオ・ガレンである。

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