• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年05月16日

『Y氏の終わり』 スカーレット・トマス[著] 田中一江[訳] (早川書房)

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Y氏の終わりでT氏の終わり

「終わり」は珍しく小説で。

女主人公アリエル・マントは雑誌に科学哲学のコラムを書いているが、ソール・バーレム教授(小説『Y氏の終わり』の作者)のトマス・E・ルーマスに関する講演を聴きに行って、バーレムと話すうち、教授を指導教官として大学院で博士論文を書いてみることになる。ところが教授が失踪してしまうので、今や空っぽになった教授の部屋をアリエルが使っている。その部屋があるニュートン館なる研究棟がある日、崩壊する。というより、地下にあった鉄道トンネル跡の大穴に向かって落ち込んでいく。というところから話は始まる。

ニュートン館だ、ラッセル館だという名からして、一個の宇宙(universe)を一個の大学(university)に擬した、たとえば『やぎ少年ジャイルズ』(〈1〉〈2〉)のような作かと思う。「大学が建てられたのは1960年代」。いわゆる大学紛争・学生闘争が世界的な騒ぎになる一方で、過去の旧套な学問世界が崩壊していく隙間を縫ってデリダやボードリヤールがえらい勢いで読まれ始めていたタイミングである。まるで「ハリー・ポッター」のハーマイオニー・グレンジャー嬢のように図書館と本の好きな理系才媛たるアリエルの飽くなき思考を通して、デリダの差延論やボードリヤールのシミュラークル論をそっくり復習できる。一寸『文学部唯野教授』じみた肌理だ。

・・・どのみち、自分がなにか独創的なことを考えついたという自信もないので、気にしない。それがなんであれ、ふつうはすでにデリダが考えているとわかる。そういうと大げさなように思えるけれど、じつはデリダはそう難しい人ではなく、ただ晦渋なのは彼の著作だというだけだ。そして、いまやデリダも幽霊になってしまった。それとも、ひょとしたら彼は最初からそうだったのか――デリダに会ったことはないのだから、彼が実在の人物かどうか、どうして確信がもてるだろう。(P.48)

世界は我々があると思うからあるというだけのファンタズムか、という18世紀バークレー哲学で極点を迎える実在と幻想、現実と思考をめぐる認識論的パラドックスが、19世紀末から1930年代にかけて量子物理学やメタ数学・メタ論理学といった「理系」の言葉を得て、「不確定」と「不完全」、「言葉と物」の堂々めぐりになったことを、今日知らぬ人はいないだろうが、おそらくなお日本ではあまり知られぬ19世紀末ヴィクトリア朝英国作家で諷刺的ユートピア作品『エレホン』の作者、ルイス・キャロルを思わせぬでもないサミュエル・バトラーを掘り起こし、精神や意識をキーワードに神や世界を論理的に突き詰めていった時代の知的雰囲気を大変巧妙に掘り起こす。

地下トンネルの放浪旅は明らかに『不思議の国』のアリスを意識しているし、そこをタイムスリップの汽車が爆走するのはやはりキャロルの『シルヴィとブルーノ』のアイディア。トンネルや汽車の中での時間や運動のパラドックスに夢中なキャロルについて、アインシュタインの「思考実験」の先取りと言ったのは、数学好きの科学啓蒙者マーティン・ガードナーだったか。

・・・物理学者のヴォルフガング・パウリのことばを言い換えるなら、母はまちがってさえいなかったのだ。ひょっとすると、それこそいま人類社会がある、二十一世紀のとばくちなのかもしれない。まちがってさえいないというところが。十九世紀の人びとは全体としてまちがっていたものの、なぜか現代の人間よりもうまくやっていた。わたしたちはいま、不確定性原理と不完全理論、そして人生はシミュラークル――すなわち原典のないコピーになり果てたという哲学者たちとともに生きている。わたしたちは、本物はひとつもないかもしれない世界に生きているのだ。無限の閉鎖世界と、なんでもあなた好みのことをしている(けれど、おそらくはしていない)粒子の世界。

アリエルは、自/他を分ける境界が消失した「トロポスフィア」と現実世界とを行き来するが、トロポスフィアではどんどん他者の脳に侵入していく「ペデシス」という概念があり、それは怖ろしいマインド・コントロール兵器になるし、そうしようとする陰謀組織もあるらしい。一寸『競売ナンバー49の叫び』に近く、プロット的にはポピュラーなところで『ダ・ヴィンチ・コード』(〈上〉〈下〉)を思わせる。

歴史を歪めたものを出発点で無かったことにさせようとするタイムワープの物語。タイムパラドックス・ファンにはお馴染みだし、アダムとアリエルが苦しい逆説世界でエデンの愛の園にまで遡行して愛を全うする「エピローグ」なんていささか鼻白む(本気?)が、「二十一世紀のとばくち」にあって、この百年ヨーロッパ知性がやってきたことのエッセンスを「大学小説」に仮託して、こうまで巧妙に整理してみせてくれるものかと、つくづく感心した。何ジャンルと言えばいい?

単に科学哲学がぎっしり詰め込まれているだけというのでなく、量子物理学が盛行した「十九世紀」末、「意識の流れ」という途方もない小説技法をうみだした構造をも想起させる、メタ極まる「小説」としても異常によく考え抜かれた作だ。三人称など存在し得ず、「私」/彼(女)/我々(ネズミ!)の別のない視点、フォークナーやヴァージニア・ウルフがうんうん言いながら工夫したところを、ホメオパシーなどという、いかにも「十九世紀」の最後のとてもオカルトな20年が思いつきそうなガジェット、ギミックでやる「ペデシス」の軽さが<今>だ。「二十一世紀のとばくち」。文学また面白い。パラドックス好き、カオス好みなT氏書評の終わりにふさわしい『Y氏の終わり』ではありました。

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2007年10月12日

『20世紀』 アルベ-ル・ロビダ[著] 朝比奈弘治[訳] (朝日出版社)

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発明とモードに狂うのは内がうつろなればこその

たとえば知る人ぞ知る愉しい図版集、デ・フリエスの“Victorian Inventions”(邦訳『ヴィクトリアン インベンション』)をのぞくと、19世紀末人士が発明狂の新時代をどんな具合に夢みていたものかわかる。自転車、自動車、汽車、気球、飛行機のヴァリエーションから光学器械、蓄音装置、電話電信、ありとあらゆるものが、既に現実化したもの、ただ単に途方もない空想のもの、一切区別なくずらずら並ぶページは実に面白い。デ・フリエスの大冊は後に『創造の魔術師たち』と名を変えて別の版元から出た邦訳でも愉しむことができる。ガラス球の中でペダルを漕ぐとその球ごと進んでいく自転車だの、体の中を透視撮影だの、行き倒れ死体を適温で保存したものを身元捜しと称して路上の見世物にするだの、なかなか珍にして妙なアイディアに瞠目。あとの二者がそれぞれ、X線に、そしてパリ観光の目玉のひとつたるモルグ[屍体公示所]に実現したのはいうまでもない。

発明狂時代が「大改造」後のパリに展開、という物語は、ロビダの『20世紀』という小説に尽きる、と長くいわれてきた。おまけに時俗戯画家としても辣腕をふるったロビダその人が厖大に入れた挿絵の魅力は、本当にすばらしい。こういうロビダ伝説は、“Victorian Inventions”をそっくりフランス版にした感のある名画集『父祖たちの時代』をのぞいて、一層魅力的に見えた。文字通り空中楼閣林立の都市と化したパリ上空を行き交う大小の高速飛行器械、世界中のニュース、上演中の歌舞演劇をリアルタイム、お茶の間で見られる「テレフォノスコープ」等々が、デ・フリエス本の精密きわまる黒白図版と対照的にやわらかなカラー図版で目を愉しませてくれたが、そのあらかたに「画はアルベール・ロビダ『20世紀』より」なるキャプションがついている。一体、このロビダって誰だ?というところに、NHKの伝説的テレビ連続講義を『奇想の20世紀』と銘うった荒俣宏氏が、ロビダ、ロビダと連呼するに及んで、読みたくてたまらぬ幻の一冊となって、ここまできた。

兎角、絵入り小説ジャンルの面目躍如。今まで存在しないものを必死に描写する言語の無力がおかしい。横に付された絵でほとんど一瞬にわかってしまうのに。

ヒロインはエレーヌ・コロブリー。寄る辺ない孤児という最初の紹介にしていきなりはっきりと、この金髪の女学生が世紀末パリのカルチュラル・ヒーロー[文化英雄]と知れる。身よりなしという負の出発ゆえに、彼女が巧くやっていくほどに読者も慰撫される。

機械が溢れ返っているというばかりでない。政治、法律、金融からはじめて文学や音楽までがそれぞれの「機械性」を次々に暴かれていくというのが、このガジェット大好き小説が邦訳で500ページという長さになる理由である。機械と折り合い悪いエレーヌがいろいろ試み、経験した挙句、機械どっぷりの人種からは縁遠い「愛」を勝ち取り、結果、機械文化のプラス面とも巧くやっていくことになるハッピー・エンドの教養成長小説ということで、その意味ではまさしく同時代に出たエミール・ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』(邦訳:藤原書店)に一番近い。ドライサーの『シスター・キャリー』に、といってもよい。田舎ぼっと出の“ingénue”が機械機構の只中でのし上がっていく、19世紀末・女ピカレスク物語。たとえばゾラがパリ最大の百貨店をスティームと電気で動く巨大なマシーンとして書いていることはよく知られている。まずは、そういうグループの一冊、ということだ。

電気と圧搾空気によって文字通りチューブの中を超高速で走り抜ける汽車は、パリからマドリッドまで僅か一時間しか要しない。ここにひねり出されたよくもよくもという発明品のうち、今現在どれが実現し、どれが実現していないか考えてみると面白い、なんて書評がいくらも書かれるはずだが、しかし面白いのは、そうした発明の連続に付き合ううちにどうも紙面に漂遊しだす倦怠感の方である。どこかでワクワク感が薄れ、ふうんという感じでページがめくられ出す時、実はフロベールやユイスマンスがまさしく1880年代のパリの精彩の背後に看取した“ennui”を、読者も今ここで体感できている、というなかなか面白く、かつ皮肉な構造だ。

機械文明の陰の部分を既にわれわれは知ってしまっている。何の翳りもなさそうなこの『20世紀』(1883)には、『20世紀の戦争』(1887)、『20世紀、電気生活』(1892)という続篇があって、環境破壊と軍需産業ひとり勝ちの暗い予言はそちらにてんこ盛りなのだそうで、この『20世紀』は逆に徹頭徹尾明るい。そう解説にあるし、現にそういう「陽気な黙示録」(ヘルマン・ブロッホ)としての19世紀末を示す最高の作のように見える。見えるのだが、読者の退屈が体現するこの発明の強迫をうむ時代の倦怠こそが興味あるテーマのようにも思える。

・・・そこは<産業博物館>の正面入り口へと向かう<発明者たちの道>だった。
 ここにはあらゆる発明家たち、創意に富んだ人類の恩人たちの彫像がならび、その天才と努力とが生み出した成果を、訪れる人々に思い出させる。・・・電気と圧縮空気によるチューブの発明者の隣には、ミシンの発明者がいる。千里も離れた人の声を聞き、姿を見ることのできるあの驚異のテレフォノスコープの発明者は、ズボンつりの発明者とシチュー鍋の発明者のあいだに立っている。こうした組み合わせは、なんとも哲学的なものではないだろうか!(p.66)

文学の目的の定義たる手術台の上のこうもり傘とミシンの出合い(ロートレアモン伯)を思いださないわけにいかない。現にこの『20世紀』世界では文学は既成作のいくつかを「つなぎ合わせる」「濃縮作品」としてつくられ、楽曲にしても「すべては書き尽くされているがゆえに、今日の作家は昔のものを改修して使う」より方法がないという。マニエリスム的「驚異」と「発明」への偏愛が、こういう何もかもオリジナルなものが既になく、あるのは順列組合せの術でしかないことを意味する。「二次創作」肯定の21世紀劈頭の今そのものでなかろうか。19世紀末を舞台に、倦怠と発明の弁証法を書き込んだ名作とこそ評すべきだろう。

マニエリスムなるものの外見上の精彩がすべてそうなので、その意味で『20世紀』一作、特に画期的とも実は思わないし、仮に目先をちらちらさせるガジェットを今(少し不粋ながら)取りはずしてみると、これはまた19世紀パリの通俗文壇を席捲し、一貫した珍しくもないジャンル中の一冊というにすぎない。それは厖大な挿絵を点検すれば即一目瞭然なので、そのジャンルに名を与えるなら、専らバルザックとくっついてよく知られる“physiologies”[生理学]が近い。階級再編成の激動の世相に特有の職能・業態に対する異様な関心のあらわれ。ヒロインが大金持ちポント氏の後見の下、政界、法曹界、文学界・・・等、次々に自分の天職を求めて遍歴する職探しという仕掛けを通して、文字通り大都会パリ社会のパノラマないし百科が書き上げられていく。どういう階級、どういう職業の人間だから、こういう恰好、こういう立ち居振る舞いかという説明図や、いわゆるファッション・プレートが、実は珍妙な発明器械の絵と同じくらいあるのは間違いなくそういうジャンル的記号なのである。その辺、御大鹿島茂氏の仕事、たとえばバルザックの『役人の生理学』の訳が読めるし、同時代江戸なら「気質物(かたぎもの)」と称したはずの職能別外見指南書の流行を丁寧に分析したジュディス・ウェクスラー『人間喜劇-十九世紀パリの観相術とカリカチュア』(ありな書房、1987)[原書"A Human Comedy : Physiognomy and Caricature in 19th Century Paris"] をのぞいてみればよい。偏奇な発明にしろ軽佻な服飾モードにしろ、白々とした倦怠がつくりだすもの。われわれの世紀末そのものだ。

そういう意味で確かに凄い予言力を、この本に感じるべきかもしれない。朝比奈氏は、ゾラの『パリの胃袋』を訳し、ヴェルヌ、クノーを手掛けた最高の訳者である。

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2007年08月14日

『ウィルソン氏の驚異の陳列室』ローレンス・ウェシュラー[著] 大神田丈二[訳] (みすず書房)

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そう、あのスタフォードも『驚異装置』展をロサンゼルスで開いた

ジョルジュ・ペレックの『美術愛好家の陳列室』を読みながら思い出さずにすまなかった本がある。もはや少しく旧聞に属すが、ローレンス・ウェシュラーの"Mr. Wilson's Cabinet of Wonder"(1995;Hardcover1996;Paperback『ウィルソン氏の驚異の陳列室』である。両方とも原題に“cabinet”を謳っており、これが西欧近代を「箱の思想」(横山正氏の名著の標題)の系譜と考えようとする場合のキーワードであることが判明してきたこの四半世紀の、ある文化史的切り口の中では完璧につながり、必ず一緒に並べて読むべきと思わせるので、ペレック作に引き続き取り上げる。

種村季弘先生との今生のお別れとなってしまった『ユリイカ』誌対談で、アメリカ文化における創造的詐欺の話をしていて、氏がそういえば読んだばかりの『ウィルソン氏の驚異の陳列室』という本が非常に面白かったと言われ、当該テーマの決定書らしいのに未読で、不明を愧じた冷汗三斗を懐かしく思いだす。E・A・ポーがマガジニスト(雑誌編集人)であり、故にマニエリストでもあったとするなかなか楽しい対談のさなか、種村氏がマガジンてもともとは倉庫のことだから、これはアメリカ版ヴンダーカンマーというわけだね、と一言おっしゃった。これで、アメリカン・マニエリスムという観念の成否をめぐって年来鬱々と悩んできたぼくは、一挙に愁眉を開いた。

ロサンゼルス郊外にジュラシック・テクノロジー博物館という施設がある。入ってみると「何ともいわく言いがたいジオラマ(好奇心をそそらずにはいないすてきなディスプレーの中に並べてあるのは化学物質で、ラベルによればチタンの酸化物、鉄の酸化物、アルミニウムである)」がある。「ある女の後頭部に生えた驚くべき奇妙な角」がある。テクノロジーの人工物と珍奇玄妙の自然物が混在している・現代に生き延びた16世紀マニエリスムのヴンダーカンマーという趣。あるかあらぬか、マニエリスム時代にそうした珍品コレクションの象徴だった「ノアの箱舟」の縮尺模型もちゃんと置いてある。アメリカ民衆文化の象徴たる「ダイム・ミュージアム」、「ペニー・アーケード」の世界。『バーナム博物館』『イン・ザ・ペニー・アーケード』にS.ミルハウザーが面白く描いている。

第一部「胞子を吸って」は、この個人博物館を創立経営しているデイヴィッド・ウィルソンという人物とその家族係累を紹介する。著者は有名なルポ・ライターというだけのことはあって、ウィルソン本人とのやりとり、資料による補充など巧いもので、『リーダーズ・ダイジェスト』のよくできた記事のように、すらすらと一人の奇人伝として面白く読める。それがウィルソン氏が「天命を受けた仕事の一部分は・・・人々を驚異に向かって再統合することなのです」と漏らすに至り、話が「草創期の博物館、16、17世紀にまで遡るウル・コレクション」に及んだところで第一部は終る。それらの原-博物館は

ドイツ語でヴンダーカマー、驚異の部屋と呼ばれることもあったが、ジュラシック・テクノロジー博物館は、大まかに考えて、驚異がその統一的テーマであるという点でまさにそれらに相応しい跡継ぎである。しかしそれは特別な種類の驚異であり、しかも不安定なのである。ジュラシック・テクノロジー博物館を訪れた人は絶えず自分が(自然の驚異を)見て驚くことと、(こんなことがありうるか)どうかいぶかしく思うこととの間でゆらめいていることを知るのだ。そしてウィルソンはときどきほのめかしているように見えるのだが、人間であることのもっとも恵まれた素晴らしいことは、まさにそのゆらめき、そのように楽しく錯乱しうる能力なのだ。(pp.61-62)

そして第二部「大脳の発達」は、問題の「草創期の博物館」の不思議なコレクションとその歴史的背景を、1980~1990年代に爆発的に出版されるようになったさまざまなヴンダーカンマー研究書の紹介を兼ねながら概観する。出発点は伝説的に浩瀚なインピー、マグレガー共編の『博物館の起源』(1983)。ヴンダーカンマーの汎欧的な盛行を扱った、今でも比類なき絶品資料。それに1991年、新歴史学・新美術史学が異文化(特に中南米)制圧というイデオロギー的側面を補った。S.グリーンブラットの『驚異と占有』(みすず書房)である。ジョイ・ケンセス差配の「驚異の時代」展も、アダルジーザ・ルーリもサイモン・シャーマも次々と紹介されていく。フランセス・イエイツ紹介の「註」など眺めるうちに、何が本文で何が「註」か曖昧になる(「ポストモダンは周期的に回帰する」というマニエリスム<常数>史観――結局、本書の肝――は「註」の中に出てくる!)。というより、この本の主人公たるウィルソン氏もその博物館もごっそり曖昧なのだ。途中でホウクス博物館というのが出てきて知らされるのだが、このルポ自体が“hoax”だった「らしい」!

ヴンダーカンマーに注目と、『魔の王が見る』、『綺想の饗宴』でガチガチ固く言い続けてきたぼく、相手が相手だけに「驚異」感のあるこういう紹介の新ジャンルがあったかと脱帽しつつ、遠方なれど同志ありと心底心慰められた次第である。傑作ランク(?)A。

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2007年07月31日

『スナ-ク狩り』ルイス・キャロル[作] 高橋康也[訳] 河合祥一郎[編] (新書館)

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虚無の大海もトリヴィア泉の一滴に発す

マーティン・ガードナーのファンである。1914年生まれというから、少し頑張ってもらえばめでたい百歳も夢でない。アメリカ版・竹内均先生と大学生に紹介しても、肝心の竹内氏が科学雑誌『ニュートン』他を宰領したポピュラーサイエンティストの大物だったことさえ知らない時代だから、ガードナーの偉さはなかなかわかってもらえない。『自然界における左と右』(紀伊國屋書店)で、DNAやアンチマターの説明を、ごく卑近のたとえ話を駆使して巧みにやる啓蒙科学の名手。それもそのはず、最先端科学を一般読者に紹介する名雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』誌の伝説的編集長だった。繰りだす話柄に事欠くはずもない。整数論や幾何学にみられるパラドックス現象のコレクションや解説が『ガードナーの数学サーカス』、同『数学カーニバル』で余りに見事なものだから、数学の万年落第生の身も顧みず、訳しながら大いに勉強させてもらったりした。

一般的には、1960年代キャロル・ブームに先鞭をつけた『詳注アリス』"The Annotated Alice : Alice's Adventures in Wonderland and through the Looking Glass" の編注者として余りにも有名。やはり理系の注が異色で、『鏡の国のアリス』冒頭の鏡像をめぐる長い注は『自然界における左と右』を凝縮した感のある逸品であった。アノテーション(注釈)が本性上、どうしても自己目的化し自己増殖してしまいがちなことを、頭かきかき吐露しているガードナー老、読者からの新アイディア投稿がたまって困るということも漏らしていたので、きっとと思っていたら、1990年、"More Annotated Alice : Alice's Adventures in Wonderland & through the Looking Glass" 巨大本がお目見え、早速『新注アリス』2巻として訳した。

まさかと思っていたら、また増補版が出た。『決定版注釈アリス』 "Annotated Alice : The Definitive Edition" (W.W.Norton, 1999)。おそるおそる読んだが、基本は前の2点の合本。追加注も付録の類もそう目新しいものなく、旧著訳者としては妙にホッとした。

それが、同じキャロルのノンセンス詩の奇作『スナーク狩り』にガードナーが注を入れた『詳注スナーク狩り』の方も、<決定版>の名を付したもの "The Annotated Hunting of the Snark : The Full Text of Lewis Carroll's Great Nonsense Epic the Hunting of the Snark" (W.W.Norton, 2006) が登場した。もとの『詳注スナーク狩り』も傑作である。理系で通るガードナーのロマン派文学へののめり込み方がそこいらの英文学者まっ青の 『詳注老水夫行』 "Annotated Ancient Mariner : The Rime of the Ancient Mariner" と併せて邦訳すべき逸品である。以前『ルイス・キャロル詩集』(筑摩書房)が出て、「スナーク狩り」が訳され、一定量の注が付いた時も、ガードナー注から一部かすめとっただけのものだった。この際、久しぶりにガードナー詳注本に訳者として改めて付き合ってみるかと思った。

そこへ河合祥一郎編注の今回作だ。東大ばかりかケンブリッジ大学で博士号を取った稀にみる秀才の英語力は、この詩をめぐる韻律への深い理解をさりげなく披瀝する「解説」に十分明らかだから、最近も『リチャード三世』の斬新訳で世間をアッと言わせた河合氏自ら訳してもよかったのだ。

訳本体は高橋康也氏生前の旧訳。周知のように河合氏は高橋氏の娘婿に当たる。「スナーク狩り」は『鏡の国のアリス』収中の「ジャバウォッキー」詩とも密接な関係があるが、そのこともあって父君の「ジャバウォッキー」訳詩と名著『ノンセンス大全』収中の「ジャバウォッキー」、『スナーク狩り』をめぐる文章の悉くを収める付録を非常に有難く思う読者は少なくないだろう。この「付加価値」は絶大だ。

注はどれも文句なく面白い。宮部みゆきの『スナーク狩り』が引き合いに出されてきたりの絶妙は、当然、ガードナー本に望むべくもない。日本のキャロリアンたちの研究も進化しているらしい。そこをよくすくい取っている。これからスナークなる謎の怪獣退治に行くという時の荷造りされた荷のひとつに42という数字が描かれている(挿絵ヘンリー・ホリデイ)。『スナーク狩り』を書き始めた1874年にキャロルが42歳だったからなどという通説は、こう吹き飛ぶ。

四十二という数字は、キャロルには特別な意味を持っていたらしい。楠本君恵氏は『出会いの国の「アリス」』(未知谷。2007)にこう記す。――「キャロルは1832年生まれだった。アリスが1852年生まれだと知ると、数学者キャロルはまさに運命的なものを感じたのかもしれない。ふたりの生年の下二桁の32と52の間にくる数列上の数字42をマジック・ナンバーとして(約数、倍数も含め)、作品の中に文字にして散りばめた」。たとえば本書の「序文」には航海規則第42条への言及があり、『不思議の国のアリス』第12章ではハートの王様が「第42条。身長一マイル以上ノモノハ全員法廷から退去スベシ」と読み上げるし、キャロルが37歳で上梓した詩集『幻想魔景』第1歌16節には、作者自身とおぼしき「42歳の男」が登場する。また、最初のアリス本には挿絵が42点あり、二番目の本も最後に変更されたが当初は42点の挿絵を入れるはずだったという・・・。

いちいちフウン、へエーッの良質な「トリヴィアの泉」感覚の愉しい小発見である。詳注の自己増殖ということで言えば、日本キャロル協会員木場田由利子女史のホームページにリンクしてみると面白い。アリスと一緒に地下に行く白兎が数字化してみると42になるという奇怪な読み方に発し、アリス・ストーリー全体に42が遍満する様子を次々明らかにするばかりか、キャロルがE・A・ポーと数秘術的にも深く繋がっていたとする呆然の論に至るのだ(キャロル協会機関誌 Mischmasch 第5号 [2001年] )。河合氏の折角のほどよいバランスの先へと突き抜けてしまいかかっている。「詳注」はこうして焼酎に通ずで、ほどほどに酔うが肝心。詳注好きのぼくなど、いつも書き込み過ぎて失敗してきた。

河合氏による注の数は42(「なお、本書の注釈の数も42」)。節度と遊びのこのバランスは妙に父君に似たものがあって、なかなかの親子鷹本である。

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