• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
    盛況のうちに終了しました。 講演レポートはこちらから-->

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2008年05月16日

『Y氏の終わり』 スカーレット・トマス[著] 田中一江[訳] (早川書房)

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Y氏の終わりでT氏の終わり

「終わり」は珍しく小説で。

女主人公アリエル・マントは雑誌に科学哲学のコラムを書いているが、ソール・バーレム教授(小説『Y氏の終わり』の作者)のトマス・E・ルーマスに関する講演を聴きに行って、バーレムと話すうち、教授を指導教官として大学院で博士論文を書いてみることになる。ところが教授が失踪してしまうので、今や空っぽになった教授の部屋をアリエルが使っている。その部屋があるニュートン館なる研究棟がある日、崩壊する。というより、地下にあった鉄道トンネル跡の大穴に向かって落ち込んでいく。というところから話は始まる。

ニュートン館だ、ラッセル館だという名からして、一個の宇宙(universe)を一個の大学(university)に擬した、たとえば『やぎ少年ジャイルズ』(〈1〉〈2〉)のような作かと思う。「大学が建てられたのは1960年代」。いわゆる大学紛争・学生闘争が世界的な騒ぎになる一方で、過去の旧套な学問世界が崩壊していく隙間を縫ってデリダやボードリヤールがえらい勢いで読まれ始めていたタイミングである。まるで「ハリー・ポッター」のハーマイオニー・グレンジャー嬢のように図書館と本の好きな理系才媛たるアリエルの飽くなき思考を通して、デリダの差延論やボードリヤールのシミュラークル論をそっくり復習できる。一寸『文学部唯野教授』じみた肌理だ。

・・・どのみち、自分がなにか独創的なことを考えついたという自信もないので、気にしない。それがなんであれ、ふつうはすでにデリダが考えているとわかる。そういうと大げさなように思えるけれど、じつはデリダはそう難しい人ではなく、ただ晦渋なのは彼の著作だというだけだ。そして、いまやデリダも幽霊になってしまった。それとも、ひょとしたら彼は最初からそうだったのか――デリダに会ったことはないのだから、彼が実在の人物かどうか、どうして確信がもてるだろう。(P.48)

世界は我々があると思うからあるというだけのファンタズムか、という18世紀バークレー哲学で極点を迎える実在と幻想、現実と思考をめぐる認識論的パラドックスが、19世紀末から1930年代にかけて量子物理学やメタ数学・メタ論理学といった「理系」の言葉を得て、「不確定」と「不完全」、「言葉と物」の堂々めぐりになったことを、今日知らぬ人はいないだろうが、おそらくなお日本ではあまり知られぬ19世紀末ヴィクトリア朝英国作家で諷刺的ユートピア作品『エレホン』の作者、ルイス・キャロルを思わせぬでもないサミュエル・バトラーを掘り起こし、精神や意識をキーワードに神や世界を論理的に突き詰めていった時代の知的雰囲気を大変巧妙に掘り起こす。

地下トンネルの放浪旅は明らかに『不思議の国』のアリスを意識しているし、そこをタイムスリップの汽車が爆走するのはやはりキャロルの『シルヴィとブルーノ』のアイディア。トンネルや汽車の中での時間や運動のパラドックスに夢中なキャロルについて、アインシュタインの「思考実験」の先取りと言ったのは、数学好きの科学啓蒙者マーティン・ガードナーだったか。

・・・物理学者のヴォルフガング・パウリのことばを言い換えるなら、母はまちがってさえいなかったのだ。ひょっとすると、それこそいま人類社会がある、二十一世紀のとばくちなのかもしれない。まちがってさえいないというところが。十九世紀の人びとは全体としてまちがっていたものの、なぜか現代の人間よりもうまくやっていた。わたしたちはいま、不確定性原理と不完全理論、そして人生はシミュラークル――すなわち原典のないコピーになり果てたという哲学者たちとともに生きている。わたしたちは、本物はひとつもないかもしれない世界に生きているのだ。無限の閉鎖世界と、なんでもあなた好みのことをしている(けれど、おそらくはしていない)粒子の世界。

アリエルは、自/他を分ける境界が消失した「トロポスフィア」と現実世界とを行き来するが、トロポスフィアではどんどん他者の脳に侵入していく「ペデシス」という概念があり、それは怖ろしいマインド・コントロール兵器になるし、そうしようとする陰謀組織もあるらしい。一寸『競売ナンバー49の叫び』に近く、プロット的にはポピュラーなところで『ダ・ヴィンチ・コード』(〈上〉〈下〉)を思わせる。

歴史を歪めたものを出発点で無かったことにさせようとするタイムワープの物語。タイムパラドックス・ファンにはお馴染みだし、アダムとアリエルが苦しい逆説世界でエデンの愛の園にまで遡行して愛を全うする「エピローグ」なんていささか鼻白む(本気?)が、「二十一世紀のとばくち」にあって、この百年ヨーロッパ知性がやってきたことのエッセンスを「大学小説」に仮託して、こうまで巧妙に整理してみせてくれるものかと、つくづく感心した。何ジャンルと言えばいい?

単に科学哲学がぎっしり詰め込まれているだけというのでなく、量子物理学が盛行した「十九世紀」末、「意識の流れ」という途方もない小説技法をうみだした構造をも想起させる、メタ極まる「小説」としても異常によく考え抜かれた作だ。三人称など存在し得ず、「私」/彼(女)/我々(ネズミ!)の別のない視点、フォークナーやヴァージニア・ウルフがうんうん言いながら工夫したところを、ホメオパシーなどという、いかにも「十九世紀」の最後のとてもオカルトな20年が思いつきそうなガジェット、ギミックでやる「ペデシス」の軽さが<今>だ。「二十一世紀のとばくち」。文学また面白い。パラドックス好き、カオス好みなT氏書評の終わりにふさわしい『Y氏の終わり』ではありました。

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2008年05月13日

『実体への旅-1760年-1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』バーバラ・M・スタフォード[著] 高山宏[訳] (産業図書)

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彼女に目をつけるなんて流石だね、と種村季弘さんに言われた

バーバラ・M・スタフォード著書・邦訳書-->

この百回書評もあと一回を残すところとなった。取り上げたい本は今年刊のものだけで10冊も積み残しているし、「仲間褒め」を頼んでくる友人一統もいて、あの「千夜千冊」最終段階の松岡正剛さんの苦労が、文字通り十分の一くらいはわかった。が、この7月に最終巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』の邦訳が出てまたひとしきり大騒ぎになるであろうハリポタの最後のあらすじ同様、この書評欄も最後の一冊は前から決まっている。

最終回の前に今回、大著の多いバーバラ・M・スタフォードの著書の中でもとびきりの大冊『実体への旅』を紹介したい。これを書き始める5分だか10分だか前に、ちょうど訳者あとがきを校了したところだ。本年7月末~8月初めに書店に並ぶはずだ。ぼくが見て最高の本だと思うし、相手を一番わかるのはこの自分だと思えばこその千両「訳」者であるはず(たぶんそうでないケースが多すぎるから上手くいかないのだろうね)。訳文を批評の対象にしなければ、こういう書評もあり得るだろう。

スタフォードについては、展覧会のカタログということで厖大な図版いちいちにクレジット交渉が義務付けられるのに嫌気がさした“Devices of Wonder”一点を除いて、規模の大小にかかわらず、そのすべてを自分の手で訳そうと決心した。こんな相手は長の翻訳家人生でも初めて。愛すべきタイモン・スクリーチの著書ですら、あるタイミングから翻訳者は自分で他に見つけてという話にした。

それほどの相手なのだ。ぼくと周辺のわずかな人間のみ知って夢中になっていた「アルス・コンビナトリア」だのマニエリスムだのが、18世紀身体論と結び付けられ、やっと1980年代に流行を見始めたカルチュラル・スタディーズ系身体論の汗牛充棟の世界から一点図抜けた怪物となった“Body Criticism”(邦訳『ボディ・クリティシズム』)をもって、初めてある程度のスタフォード・マニアがうまれたというのが実情だ。見たこともない図版が200だ、300だと詰まった造本に魅了されてのことだが、読み出すとそれをそっくり文字化したようなハイブリッドな「とんでる」内容なので、ドツボにはまるか、ゲロ吐いて横向くかだ。

この書き手、何者?と思い、慌てて前著“Voyage into Substance”『実体への旅』)、処女作“Symbol and Myth”(『象徴と神話』)を買い求めたマニアは、きっとぼく一人ではあるまい。

いわゆる景観工学・景観史の人々が一介の「英文学者」高山宏の名にたえず触れざるを得ないのは、1980年代にひょんなことでぼくが始め、徹底してやったピクチャレスク論のせいだが、やってみて驚いたのは、万事に遅い日本洋学界のみか、本場英仏でのピクチャレスク研究の遅滞ぶりだった。火付け役とされるDavid Watkinの“The English Vision”でも1982年。結果的にワトキン本に依拠することになったぼくの『目の中の劇場』が1985年。その只中に問題の“Voyage into Substance”『実体への旅』)。大、大、大ショックの一冊だった。

ピクチャレスク美学を、ヒトの側のサイコロジーを自然に押しつけて捏造したニセの「自然」と括り、それを突破するものとして、王立協会はじめ西欧諸科学アカデミーに宰領された(キャプテン・クック、ヴァンクーヴァー、ラペルーズ等の)「探検家」たちの「現場で」「直(じか)に」現象と対峙する「事実の文芸」と称すべき単純直截の目と言葉がうまれてきた、とする。聞いたこともない探険家たちの紀行報告の文章、見たこともない現地風景のスケッチといったディテールの面白さが、あっという間にハバーマスやブルーメンベルクの百年単位の壮大な近代史ビッグ・セオリーに絶妙にマッチさせられていく。

これだけ自在な超学者は、これから先も20年、30年、出てこまい。種村季弘氏を連想させるが、「さすがフェリックス・クルルをうんだ独墺圏の出身者。詐欺ではかなわないね」という見事なスタフォード評は、故種村氏の口から。流石だ。ウィーン出身の超の付くアートフルな書き手。「詐欺」とも訳せる「アートフル」がスタフォード鍾愛のキーワードであることなど、スタフォード・マニアにいまさら断るまでもあるまい。


バーバラ・M・スタフォード著書・邦訳書

1. Symbol and Myth : Humbert De Superville's Essay on Absolute Signs in Art
2. Voyage into Substance : Art, Science, Nature and the Illustrated Travel Account, 1760-1840
3. Body Criticism Body Criticism : Imaging the Unseen in Enlightenment Art and Medicine
ボディ・クリティシズム ボディ・クリティシズム-啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化
4. Artful Science Artful Science : Enlightenment Entertainment and the Eclipse of Visual Education
アートフル・サイエンス アートフル・サイエンス-啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育
5. Good Looking Good Looking : Essays on the Virtue of Images
グッド・ルッキング グッド・ルッキング-イメージング新世紀へ
6. Visual Analogy Visual Analogy : Consciousness as the Art of Connecting
ヴィジュアル・アナロジー ヴィジュアル・アナロジー-つなぐ技術としての人間意識
7. Devices of Wonder Devices of Wonder : From the World in a Box to Images on a Screen
8. Echo Objects Echo Objects : The Cognitive Life of Images

2008年05月09日

『デーモンと迷宮-ダイアグラム・デフォルメ・ミメーシス』ミハイル・ヤンポリスキー[著] 乗松亨平、平松潤奈[訳] (水声社)

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金余りのロシア団塊がやりだしたら、ホント凄そうだ

いよいよ残り3回ということになったから、また一段と個人的な思い入れ、偏愛を恣にさせていただこう。となると第一弾はミハイル・ヤンポリスキーの最初の邦訳本たる『デーモンと迷宮』(原書:1996年)を措いてない。

ヤンポリスキー氏については、表象文化論学会が立ち上がり2006年に東大駒場キャンパスで第1回大会が開催された時、基調講演(“Metaphor, Myth and Facticity”)をした人と言えば思い当たる方もいるのではないだろうか。『佐藤君と柴田君』のスター教授佐藤良明氏に呼ばれ、ぼくもパネルディスカッションのコメンテーターという役を振られて出向いた。久しぶりに小林康夫大先生の御尊顔を拝し、新鋭田中純氏の御姿を拝見でき、いろいろ得るものがあった中でも最大の収穫が、ヤンポリスキー氏の講演とその時初めて手にした大冊『デーモンと迷宮』だった。なんだかいろいろやる人物らしいと佐藤氏に言われて読み始めるや否や、あまりに自分の仕事と近いのに驚き、ページを繰る毎に苦笑、やがて阿々大笑してしまった。快著。愉快。特に、トゥイニャーノフとバロックを論じた第6章「仮面、アナモルフォーズ、怪物」。「父なるシレノスの像」という文章で始まって、アナモルフォーズ論に展開する。

288ページに26枚の図版をあしらったヴィジュアルがあって、畸型、歪曲遠近法、ダ・ヴィンチ作のカリカチュア、怪物、フィジオノミーと並ぶ図版は、もうそれだけでこの大冊があるはっきりした文化圏に系譜するものであることを示す。もちろん、まずは『幻想の中世』と『アナモルフォーズ』のユルギス・バルトルシャイティスであり、スラヴ語文化圏ということで、フランスで活躍することになるリトアニア人バルトルシャイティスとロシア団塊世代のヤンポリスキーをつなぐものに関心が向く。あるいは、この図版セレクションは、ロジェ・カイヨワが「澁澤」した名作『幻想のさなかに』を思い出させ、歪曲遠近法とバロック身体論ということでは、『見ることの狂気』のビュシ=グリュックスマンを思い出させる。

そのデモーニッシュな図版集の劈頭を飾るのが、超肥満の醜老シレノスも描かれたポンペイ「秘儀荘の壁画」である。これがユーリイ・トゥイニャーノフのバロック極まる小説『蝋人形』の背景にあるというので、ヤンポリスキーお得意の自我の分身たる醜の主題にと話はぐんぐん広がる。

シレノスはソクラテスのせいでパラドックス的思考の祖型となった。ルネサンスとバロックのパラドックス研究、とりわけR・L・コリーの『パラドクシア・エピデミカ』(1966)において、シレノスの筥(はこ)のメタファーは中核的イメージとなっている。外形の醜悪が内なる善美と表裏である――佐藤氏お得意の表現を拝借すると、フリップフラップする――パラドックスなるものの構造を、ソクラテスが自身の似姿ともした伝説的醜男シレノスが絶妙に象徴した。実に変幻自在に、パラドクソロジーに夢中な20世紀カウンターカルチャーの中に出没するメタボ男の神話であり(どうしてサンダー・ギルマンの“Fat Boys”が邦訳されないのだろう)、たとえば名からしてこれもスラヴ系のポール・バロルスキーの『とめどなく笑う』がルネサンス絵画をまさしくヤンポリスキーばりに反転させた時、やはりシレノス図像を核にしていたことなどただちに思い出される。R・L・コリーに発しバロルスキーにまで辿り着いたぼくは、偶然『デーモンと迷宮』に遭遇したのではなく、早晩出会うべき運命にあったのだと思う。

簡単に言えば、シレノスの内と外の不可分(二分法の拒否)にそっくり精神と身体を代入して展開する(もはやお馴染みと言えばお馴染みの)身体論である。まずは当然バフチーンがあり、人の身振りが妙に機械やマリオネットじみる理由をロシア・フォルマリズムの分析を使って論じるゴーゴリ、リルケ(それにしてもリルケとは)論の山口昌男ばりの骨太の着想から入って、ラカン、メラニー・クライン、ドゥルーズ=ガタリのポスト・モダン身体論の繊細微妙まで、身体論の現在を一大展観してみせる。

「デーモン」とはフロイト風に言えば「不気味なもの」、「迷宮」とはハイデッガーの言う「世界内存在」としてのヒトが経験するであろう世界の比喩である。『迷宮としての世界』再来!

畏友沼野充義(ヌマノヴィッチ)はかつて、ぼくをスラヴ圏バロック研究の泰斗チジェフスキーに譬えたことがあり冷や汗をかいたが、ロシアにもぼくの「分身」がいたという嬉し過ぎる驚愕を、ぼくは『デーモンと迷宮』に感じて、ふるえる。同じ団塊でも、ドイツのミヒャエル・ヴェッツェルやホルスト・ブレーデカンプに感じる熱烈共感よりもはるかに強い共感を、この稀にみる博読奇想のロシア団塊人に感じた。ダブつきマネーが文化の方にも少しはまわり出すはずのロシア、面白そう。

問題の東大での基調講演を含む講演三件にインタビューを足した『隠喩・神話・事実性-ミハイル・ヤンポリスキー日本講演集』が同じ水声社から出ている。新刊書ということではこちらを取り上げるべきだったかもしれないが、やはり本格書を。

視覚文化論を身体論へと開く名手、ビュシ=グリュックスマンの次々出る名著大作ともども、あと7、8冊はあるというヤンポリスキーの魅惑的な著書も邦訳されますよう!本書の邦訳、実に読みやすい。文献一覧も一寸した見ものである。

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2008年05月02日

『富豪の時代-実業エリートと近代日本』永谷健(新曜社)

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こんな領域横断もありか、という驚き

明治後半から昭和初年にかけての、現在の日本の基盤を築いた半世紀という、いま日本で学者をやっていて一番面白がるべき問題を(「文学」を入口として)探ることができる本を、当書評欄でここ数回、続けて取り上げてきた。蓋を開けてみると皆、いわゆる博士論文が世間に向けて出版された大著ばかりというのも、長い間「学者」をやってきてしまったぼく自身の限界を示すのかもしれないし、逆に、誰も見向きもしない、つまらないものの代名詞のように言われてきた博士論文にも時代の流れで面白いものが出始めた、喜ばしい兆候かもしれない。

大喜利(おおぎり)とでも言える一冊を見つけたので、それを推輓して博論傑作選に一応のキリをつけたいと思う。それが、京都大学大学院に提出されたこの論文。「ただし、研究者だけではなく、近代日本の富裕層や金銭的な成功者に関心をもつ方々にも読んで」欲しいということで、大幅加筆を経ての『富豪の時代』である。

東大のシンボルといえば安田講堂だ。ちょうどぼくなど大学生であった頃、学生闘争で占拠され機動隊突入、一度だけ入学式で見た美しい内装が大破し水浸しになっているのに直面して、一時代の終わりを感じたが、それというのも名の通り、これが「富豪の時代」の風雲児の一人、安田商店安田善次郎の夢、というかメセナ感覚の所産たる寄付の講堂だったと聞かされていたからだ。改装されて機能的にも象徴的にも全然別ものになったわけだが、今の東大生にとって、この講堂はなお、自分がなるべき存在への夢の「表象」たり得ているのだろうか。それにしても、赤門という江戸時代の大金持ち、加賀百万石の所有物だったものをくぐって、明治・大正の「富豪の時代」を象徴する安田講堂に対い合う東大(という場所)とはいったい何だろう、とこの本を読みながら、「学」と「富」の関係ということまで含めて、いろいろ考えてしまった。

三井・三菱について何がしか知らぬ人はいまい。それに安田善次郎、大倉喜八郎、森村市左衛門といった実業界の超エリートを加え、彼らがビジネス・エリートになっていった過程、そして「紳士」と呼ばれ、まだよくは見えなかった「新時代」のシンボル(文字通りの“representative men”)として「表象」されていった経緯を、やはりそこは博論、ハウトゥー実業書の軽薄とはかけ離れたところで緻密な統計処理と一次資料の累積で丁寧に追う。少し前なら経営学・経営史分野の仕事だったものであろうが、著者もはっきり意識しているように、やられているべきなのに実はまるでやられていないスーパーリッチたちの研究をしようとすれば、経営学だけではとても足りない旧套諸学の混淆と再編成が必要なので、いわばこの本は、本人たちが時代突破の意力のためマージナル・マンであるしかなかった異能群像を相手に学のマージナルを行く方法的な試みの現場という(実はもっともっと過激に主張して欲しい)二重の側面を持っていて、それが魅力だ。

強みは金持ちの表象論に徹している点で、よくある(当然自己美化のウソだらけな)富到立志伝の累積のようなアプローチとは無縁。たとえば江戸後期に初めて金持ちをそうでない人種と分けた「長者番付」なるジャンルの延長線上に、交詢社の名が象徴する明治20年代、30年代のいわゆる紳士名鑑の類を置く。この交詢社自体、あの福沢諭吉が維新の無の中から今後の社会ヴィジョンを託すためにひねり出したリーダー養成の社交機関であったことを、この本で初めて教えられた。「学問ノススメ」の人物の社会的「発明」の強力なトンデモ発想に改めて驚かされる。

「明治20年代から30年代初頭にかけては、『日本紳士録』など、多種多様な人名録が刊行された時期である。人名録ブームとでもいえるほどの刊行ラッシュが生じ、人名録は同時代における刊行物の一ジャンルを形成したのである」という着眼が良い。誰を富豪、「紳士紳商」とするかという基準が面白いし、難しいが、時々の納税法の変化との関係の分析など、富豪の社会史が着実に記述されていく。メディアが金持ちイメージをつくり、金持ちと言われた本人がメディアとの関係の中で金持ちに「なっていく」ダイナミズムが経済ジャーナリズムの成立、「姻戚関係のパターン」「天覧芸への便乗」「茶会サークルの成熟」など興味津々たる目次で次々展開していく。博論が傑作へ飛躍したと言っておく。

一時の荒俣宏の産業考古学(『黄金伝説』他)にも、『経営者の精神史』に行き着いた山口昌男の歴史人類学にも系譜しそうな、人文学と社会学の<はざま>を行く画期書。時代の趨勢か、「明治」大学国際日本学部という<はざま>をウリにしようという世界に属すことになり、経営学の人々を同僚にハテこれからどうするか思案ナゲクビのぼくに、まさに旱天慈雨の如きインスピレーションを与えてくれた。

因みに、新同僚となった(元)仏文学者鹿島茂氏が新学部開設記念講演会で渋沢栄一の事跡について喋る。交詢社人名録にぼくも鹿島センセーも載っている。たしかこの紳士名鑑も今年で終わる。いろいろ時代であるなあ、と感慨深い。意表つかれるとは快いものだと久しぶりにせいせいした。リニューアル前の電通『アドバタイジング』誌で「デパートの解剖学」や「メセナの時代」を編集したぼくの感覚、「経営史学」的に見ても間違いではなかった。

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