• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年04月22日

『萩原朔太郎というメディア-ひき裂かれる近代/詩人』安智史(森話社)

萩原朔太郎というメディア →bookwebで購入

したたかな引き裂かれ?それってマニエリスムじゃん

漱石を取り巻いていたメディア的環境に関する優れた博士論文を読んだ後では、その直後の時代、大正から大東亜戦争くらいの時代にメディアの世界はどうなっていたのか、という関心が湧く。そこに安智史氏の萩原朔太郎論が出た。これも博論である。立教大学に提出。

母語たる日本語にリズムがないという欠陥を、『新古今』他の古典的和歌の「調べ」に回帰しながら克服しようとした朔太郎の「日本への回帰」という、「隠れた」論争で小林秀雄に叩かれた詩論が、前半(第1部「詩語としての日本語と朔太郎」、第2部「声のメディアと朔太郎」)を占める。「声のメディア」とは「ソング」(佐藤惣之助や西条八十などの流行歌の歌詞)と、それを大衆化していくラジオというメディアのことだが、日本には珍しい理論派・高踏派詩人のイメージが強い朔太郎がここまで流行歌に対抗意識を持っていたということに、まずびっくりした。朔太郎はエッセー「流行歌曲について」で「僕は珈琲店の椅子で酒を飲み、大衆と共に<あなたと呼べば>を唄った後で、自ら自分の髪の毛をむしりながら、自分に向って<この大馬鹿野郎奴>と叫ぶのである」と書いたが、いろいろなレベルで「引き裂かれ」を分析される詩人の、これ以上に強烈で愉快なイメージはなかろう。「あなたと呼べば」は古賀政男作曲「二人は若い」の有名な文句。作詞はサトウ・ハチロー。

後半部は、レコードやラジオの歌謡を支えた大衆を「都市化」を動かした「群集」と捉え直し、有名なル・ボンの群集心理学研究の日本紹介などを援用した第3部「大衆社会状況のなかの朔太郎」と、同時代最大の大衆的メディアたる映画への朔太郎の伝説的な入れ込みを論じる第4部「視覚の近代と朔太郎」という構成である。第3部の群集論の間奏曲という感じで入る「猫町温泉――近代(裏)リゾート小説としての『猫町』」の章が非常に面白い。日本に入ってきたばかりの西洋温泉療法を担う「浴医局長」の一人が朔太郎の父・密蔵であったということを出発点として繰り広げられる「Kという温泉」周辺の「U町」のモデル探索が実に面白い。下北沢や代田まで関係あるらしく、近所に住むぼくなど、急に朔太郎を身近に感じた。

群集論はぼくなど(ポーの「群集の人」の大ファンを任ずる者として)迂闊にも知らなかった朔太郎の詩「群集の中を求めて歩く」が20年にわたって改訂改稿されていくプロセスを克明に追跡するというやり方を通して、群集として現れた都市大衆に向かう詩人の好悪の感情の揺れ動きを読み取る。抽象的な都市論でないところが説得力あって良い。

同じことが映画論についても言え、朔太郎と言えばあれと言われる詩「殺人事件」(1914)の高名な犯人イコール探偵説の可か否かをめぐる議論が一本芯にあるから、議論が危うげに拡散することもなく、朔太郎のチャップリン狂いを丁寧に分析した後、彼のベルクソン耽溺、ベルクソン『創造的進化』に言う存在の持続に話が及び、「幽霊」でもありながら長く生命を保つメディアでもある映画同様、詩人自らの詩作品も永く「持続」してあれという詩人の祈念に全巻を落着させる。

読みものとしてもよくできた構成、流れになっているせいか、テキスト改稿を追い続けたり諸家の諸説を比較吟味するといった博士論文の技術的手続きの煩わしさも読後きれいに「止揚」され、あざやかである。朔太郎視覚文化論としては、伝説的な種村季弘「覗く人」(『壺中天奇聞』)以来の刺激的なエッセーだ。イエスと言っていたかと思うとやがてノーに化し、いやなのかと思えばやはり執着しているという「二律背反」を生きた相手についていこうと言うのだから、論も当然うねうねと蛇状曲線を描き、そう思えばむしろ論の紆余曲折はそうあって然るべきと大いに得心がいく。しかし、「一般」読者にはどんどん入れる後半部から読むことを、老婆心ながらお勧めする。

前半は、「たんなる行別けされた散文から区別し、ジャンルの独立性を保証する基準となるものは存在するのか」という、日本現代詩における宿命的な問いを扱う。いわゆる「定型詩」論争の不毛をよく知り、まがりなりにもヨーロッパのアルス・ポエティカを少しは知っている人間として、この辺の論の不毛はうんざりしているので、蜿蜒続くリズムの「調べ」論に付き合うのは少々しんどい。安氏の本の救いは、朔太郎の詩論のねじれが、徳川末期学者たちの「音義説」に直結する「第二次クラチュロス主義」的発想に起因するという実に面白い見方で、ぼくなどが久しく朔太郎をその系譜に入れようと腐心してきた普遍言語・純粋詩路線に朔太郎を取り込もうとしいて、大層有望である。安氏はジュネットの『ミモロジック』に拠っているようだが、ぜひノイバウアーの『アルス・コンビナトリア』に言及すべきである。要するに朔太郎はしたたかなマニエリストなのだから。映画を「幽霊」と見ようというのに、テリー・キャッスルの「ファンタスマゴリア」論(『女体温計-18世紀文化と<不気味なもの>の発明』に収録)を知らないという以上のもったいなさを、ぼくは感じた。それによってこの論文は衝撃書にもなり得たと思うからである。

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