• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年04月18日

『流行と虚栄の生成-消費文化を映す日本近代文学』瀬崎圭二(世界思想社)

流行と虚栄の生成 →bookwebで購入

難しそうだが読むととても面白い博士論文、続々

ほぼ一年続けてきたこの書評シリーズでは、極力、評者自身の個人的な経験と近づけたところで議論することを心掛けた点に功も罪もあるはずだが、新刊、瀬崎圭二『流行と虚栄の生成』など、ひとしお個人的感懐なくしては読めない本である。著者より恵送いただき、ハテと思って読み出してナルホドとすぐ得心がいった。

日露戦争直後から第一次大戦期への、ほぼ大正時代と言ってよい期間を舞台にする百貨店(特に三越)の商戦略と、それに大いに助長された「虚栄の女」という表象とを、大所小所からあぶりだす好著である。三越や白木屋が発行していた宣伝誌を克明に点検しているという意味で資料的価値があるし、陳列商品やショーウィンドウの前で人々(特に女性)が示し始めた新しい身振りを興味津々で点綴する文学作品群のしっかりした分析を伴ったアンソロジーとしても、今後の研究の基礎となるべき遺漏なき充実ぶり。漱石の『虞美人草』の藤尾は誰しも思いつくだろうが、『三四郎』の美禰子も「虚栄の女」タイプだったのか、そして問題の時期、問題のタイプは大谷崎、当然『痴人の愛』のナオミに行き着くのだが、『改造』1922年(大正11年)3月号発表の「青い花」など、なかなか渋めの同類作など、百貨店文学といったものを再考する時、落とせないと思われる作品群のあぶり出しが丁寧で、貴重。また、付録に一覧表まで付く三越の『花ごろも』『時好』『三越』、白木屋の『家庭のしるべ』といったPR誌に載った「文芸関連記事」への着目が素晴らしい。

大所小所と言ったが、小所というのがこういう大正期の埋もれた面白そうな一次資料だとすれば、大所はルーマンの『社会システム理論』(〈上〉〈下〉)だったり、もちろんフーコーだのボードリヤールだのの大きな理論だったりする。世間的にはなんぼのもんじゃいと小バカにされても仕方のない、課程博士などといって基準のバーが低くなったシステムのせいでますます増えそうな類の博士論文も多いが、そういうものばかりでないよと言いたくて、既にこの書評欄でもいくつか取り上げてきたが、本書も東大提出の課程博士論文。主査小森陽一、副査にぼくの友人、ロバート・キャンベル氏などを含む審査を通って、山本武利・西沢保共編の名作『百貨店の文化史』を出している世界思想社から加筆単行本化された。

明治三〇年代から刊行され始めた呉服店/百貨店の機関雑誌は、望ましい外見のあり様を流行として紹介するための媒体であったというよりも、ここに語られ、表象されるものこそが流行に他ならないという流行と媒体との緊密な関係を構造化しつつ、月刊という一定の速度のもとに、流行を目に見えるものとして国民国家という共同体の内部に共有させていくような媒体であった。

全巻のキーワードたる「流行」というもののでき方、あり様を見事に突いた結論で、本書前半は、このことの立証に充てられている。この引用文の直後は、こうだ。

言い換えれば、流行なる現象は所与のものとしてあるのではなく、こうした雑誌メディアこそが流行を目に見えるものとし、それを実体化していくことになると言えよう。しかし、こうした流行の可視化と存在の認知は、それを語る媒体にのみよっているわけではない。例えば、流行とは何かと問いかけ、それを分析の対象としていくような知の力学は、それが知の言説としての保証を伴って互いにその差異を訴えつつ増殖していく内に、現象としての流行の実体を担保することになるのである。そこに、流行は流行として認知され、その認知に基づいた自律的な言説の運動の維持が生じていることになる。その言説の運動の中で、常に確保され続けているのが、零度としての流行という現象であることになるだろう。(p.125)

ン?である。三越が森鴎外はじめ時代の<知>を取り込んで「学俗協同」路線で成功した面白い商戦略を言おうとしているのだが、それにしてもこれはずいぶん厄介な日本語だ。博論の約束事でもあるのか。同じことを初田亨氏の屈指の名作『百貨店の誕生』は実に単純な言葉で、倍の説得力を持ってやっている。

しかし、百貨店をめぐる商略とメディアの問題がここまで発展的な研究段階に入ったのを見るのは、個人的にも驚きであり、嬉しくもある。西武系列の流通産業研究所に言われてぼくが百貨店を「文化的」現象として分析し始めた1885年頃は「研究」と呼べるようなものは絶無で、あきれ返った。ぼくの『パラダイム・ヒストリー』(1987)、『世紀末異貌』(1990)が火をつけ、山口昌男『「敗者」の精神史』(〈上〉〈下〉)(1990)や鹿島茂氏のデパート王ブシコーの研究につながっていった。はじめに個人的な感懐と言ったのはそのこと。ぼくの仕事はいつもながらに鼻であしらわれたが、ぼくの訳したレイチェル・ボウルビー『ちょっと見るだけ』は威力のある本だった。さすがに20年の経過、学の成熟かくあらんか、と嬉しく読んだ。『ちょっと見るだけ』も存分に使ってくれていて、ありがとう。

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