• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年04月15日

『ニーチェ-ツァラトゥストラの謎』村井則夫(中公新書)

ニーチェ-ツァラトゥストラの謎 →bookwebで購入

中央公論新社にあの二宮隆洋が移ったことの意味

ツァラトゥストラは齢(よわい)30にして、故郷と故郷の湖をあとにして山に入った。ここで彼は、彼の精神と彼の孤独を楽しみ、10年間飽きることがなかった。

ニーチェの“Also sprach Zarathustra”(『ツァラトゥストラはこう語った』〈上〉・〈下〉)の出だしである。これが「哲学書」、それも哲学史上に燦然と輝く第一級の哲学書と言われている作と知らねば、この出だしは何かの物語、あるいは小説の冒頭かと思われるかもしれない。作り手のある精神的な状態が形になる時、ある場合には小説と呼ばれ、別のケースでは「哲学」と言われる、その境目はいったい何なのか、と考える。ジャンルが違うと言うが、ではそのジャンルとは何か、そもそもいつどのようにしてジャンル分けなるものが生まれたのか、“genre”の語源である”genus”の演じる何かを“generate”する作用とは何か、といった結構哲学的でいて現行の哲学ではなかなか扱わない大、大、大問題に話題が広がっていくだろう。ニーチェ極めつけの問題的著書『ツァラトゥストラはこう語った』を相手に、最大級のスケールの(反)ジャンル論に挑んだ大作が出たことを喜びたい。

前に取り上げた中央公論新社の「哲学の歴史」シリーズは(不徹底とはいえ)時代のヴィジュアルを掲げて哲学理解の一助とするという方針でお目見えして面白かったが、同じ版元の同じ編集感覚が生きている(あの神がかりの編集者、二宮隆洋氏が介在している)とおぼしい村井則夫『ニーチェ-ツァラトゥストラの謎』は、まず冒頭のアート紙口絵のデザインが、哲学史祖述にも新時代、新感覚が到来したことを言祝いでいるように感じる。マニエリスム研究者誰しもに馴染みのパルミジャニーノの『凸面鏡の自画像』と、バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』で一挙に有名になったグレゴワール・ユレのアナモルフォーシス画が掲げられて出発するニーチェ論。画期書か、それともこけおどしの外連(けれん)か。旧套哲学史を旧套とも思わぬ人にとっては、おそらく物知りポストモダン哲学者のよた話が始まるという感じなのだろうが、ぼくは来るものが来たという喜びと爽快感を味わった。

何年か前、文学の視覚作用に熱中していたぼくは、そういう観点で世界文学史記述を再編成してみようと、「文学を見よ」をキャッチに週刊朝日百科「世界の文学」を毎週、三年にわたって構成し続けた。「エクプラーシス(exphrasis)」という観念もあり、文学と美術をごっちゃに提示する方式は、それなりに受けた。さて、哲学と美術の境界線突破、ジャンル越えは?という興味がふつふつと湧く。かつてヴィジュアルを結集・編集してあらゆる知を視覚化する企てが松岡正剛氏のところで進みかけた折り、カント哲学の黒崎政男氏が「みんなはいいな、哲学じゃそんなことありえないもの」とぼやいた話が、ぼくの『ブック・カーニヴァル』への氏の寄稿文中にあって、おかしい。たしかに、たしかに。しかし、ブレーデカンプのライプニッツ論(『モナドの窓』現在、原研二氏が邦訳中)をモデルに、根本的にヴィジュアルなある種の哲学をヴィジュアルな文章と編集で見せる「哲学を見よ」という新しい時代が、村井則夫ニーチェによってたしかに幕を開けた、と言いたい。

そう思ってぱらりとめくると、想像通りロレンス・スターンの奇作『トリストラム・シャンディ』(〈上〉〈中〉〈下〉)中の、脱線に次ぐ脱線で混乱を極める筋を一応明快化するという有名な作中解説図が引かれているのが目に入る。

なるほど、そうだよね。言語に対するイメージの優位が爆発的に言われ出した19世紀末、モダニズム前夜に、ニーチェは生き、死んだ。イメージ優位とは、当然、言語への一点集中と相容れぬものへの評価を意味するが、言語の中でそれが起こるとすれば、即ちそれがパラドックスであり、その系としての曖昧、アイロニー、パロディといった表現形式であるからだ(そこまでわかるなら、なぜドイツロマン派の「アラベスク」修辞学にまで触れないのか、ということはあるが)。そこまでわかると、ぱらぱらめくるだけで相当なヴィジュアル・センスの持ち主とわかる村井ニーチェが、ついに日本人によって著わされた「パラドクシア・エピデミカ」であることが想像でき、しして一読、まさしく日本語で書かれた未曾有のパラドックス文学論であることがわかった。パラドックス文学の肉感的側面たる「メニッペア」をもって、村井氏はニーチェに「哲学」と「小説」のジャンル分けを楽々と越えさせている。

パラドクシア・エピデミカ。言語や人格が同一化し、単一なものへと収縮していくのを、違うだろうと感じて、意図的に曖昧さをつくりだす逆説家たちの猖獗(しょうけつ)がエピデミックス(流行病)のように時代を狂わせる、そういう16世紀マニエリスム精神をロザリー・L・コリーが命名した呼称である。ワイルドやチェスタトン、カントールやラッセルのいた時代がもうひとめぐりしてきたパラドクシア・エピデミカでないわけがない。ということを、この『ニーチェ』はあまりにも雄弁に、学問的手続きにも手抜かりなく明らかにした。ぼくの友人、秀才の神崎繁氏の『ニーチェ-どうして同情してはいけないか』にも目からウロコだったが、バフチーン的に「笑うニーチェ」(T・クンナス)の魅力的主題は、村井ニーチェで一挙にはじけた。新書の概念と相容れぬ大著というのもパラドクシカルで、びっくりさせる。

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