• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年04月11日

『フランス近代美術史の現在-ニュー・アート・ヒストリー以後の視座から』永井隆則(三元社)

フランス近代美術史の現在 →bookwebで購入

新美術史への素晴らしい導入。本当は何もかもこれから、らしい。

「ニュー・アート・ヒストリー」という呼び名を初めて耳にしたのは、ノーマン・ブライソン(Norman Bryson)が編んだ『カリグラム』(“Calligram : Essays in New Art History from France”)で、このアンソロジーを入れたシリーズの名も‘Cambridge New Art History and Criticism’と言った。当時ケント大学にいて、やがてぼくなどを一時虜にした凄い企画力を持つReaktion Booksの名顧問役となるスティーヴン・バン(Stephen Bann)と、建築史そのものを次々大著で書き換えるケンブリッジ大学のジョセフ・リクワート(Joseph Rykwert)の編集になるこのシリーズを、中心になって推進していったのが、ノーマン・ブライソンである。親日家で、森村泰昌のアートを国際的に有名にしたこの人は、たとえば江戸アート研究をかなり前に進めることになるタイモン・スクリーチ氏の直接の師でもある。スクリーチを介して、ぼくもブライソン教授と眤懇になった。

『カリグラム』は、いま見ても凄い。アメリカで『オクトーバー』『リプリゼンテーションズ』、英国で『アート・ヒストリー』『ワールド・アンド・イメージ』といった、画期的に新しい美学・美術史の専門誌が出てきた時代の動向を、ニュー・アート・ヒストリーと名付け、T・J・クラーク、ジョン・バレル、トマス・クロウ、ロナルド・ポールソン、マイケル・フリード、そしてもちろんスヴェトラーナ・アルパースの名を掲げ、芸術の自律性・普遍性ばかり主張する一世代前のフォルマリズム批評の自閉を突破すべき新しい芸術社会学の時代の到来を言った。そして、そういう動きの源泉となったものとしてとして挙げるのは、主に1960年代フランスの当然旧套美術史学の埒外にあった人々の文章群――ムラコフスキー「記号論的事実としての美術」、ボンヌフォア「15世紀絵画の時間と無時間」、クリステヴァ「ジョットの喜悦」、ボードリヤール「だまし絵」、ルイ・マランのプーサン論、フーコーの「ラス・メニーナス」論、バルトから2篇、ミッシェル・セールから2篇――で、どちらかといえば記号論や表象論からというエッセーが多い。

ぼく自身、たとえばこの『カリグラム』の目次と素晴らしい序文に感銘を受け、1960年代末から70年代半ばまで、人文学全体をあれほどリードし得た美術史学が完全に力を失ったのを訝しむばかりではダメで、その間、海彼の美術史学はちゃんと動いているのだという証を得て、軽率を覚悟で「ニュー・アート・ヒストリー」の呼称を「僭称」して丸善の美術関連洋書カタログ『EYES』創刊の「マニフェスト」とした。フランスでは、あちこちで生じていた旧套美学批判をひとつの動きとして総括する動きがなく、ジャン・クレイの歴史的名作『ロマン派』『印象派』の如きテクスチュア分析と芸術社会学が見事にマッチした批評の土壌が醸成される気配もなかったが、英訳アンソロジー『カリグラム』で初めて実現した。新美術史の動向をサーベイするには、第一級の序文も含め、ぜひ日本語にしなければならないが、フランス語の英訳をさらに日本語にという重訳は厄介だ。とかく言葉が壁。

「主体」なるものを少しも疑うことのない美術史が、構造主義のインパクト下、「主体」は世界との相互作用の中でしか生まれないという立場をとると絵がどう見えてくるか、という哲学的実験が綴られるようになり(バルト、フーコー)、それが今、飽くまで社会の諸関係の中でしか絵の意味は捉えられないという厳密な意味でのニュー・アート・ヒストリーの段階に入りつつある。しかし、二元論的モデル(男対女、先進国対開発途上国、人間対自然)を手放さないため、十年一日の差別批判の紋切りに落ち着きそうになっていて、それはそれで頭の痛い状況だ。

こうした知の一般的な流れを、かつてはリーダーだった美術史が遅ればせながら今また捉えた、という確証を持てるのが、「ニュー・アート・ヒストリー以後の視座から」という衝撃的副題を持つ本書である。それも、日本人好みのフランス印象派に限定しての論集であるところが巧い。ここをやらせれば永井隆則氏と、ぼくなどでも存じ上げる稲賀繁美、三浦篤、天野知香お三人を中心に、まさしく最前線の8人が、クールベ、マネ、ドガ、セザンヌ、モネ、ロダン、ゴーギャン、そしてマティスを厖大な文献資料を基に、いかにも学界人という手堅さで、しかも一般啓蒙を共通の気合いとして、これ以上ない懇切な語り口で説く。素晴らしい永井序文の「あらかじめそのような枠組みを設定して企画された物ではない」と言う説明が本当だとしたら、まことに素晴らしいメンバーだ。フランス専門の人たちの英語音痴が、このメンバーにおいては当然のように解消されているのが非常に嬉しい。

それにしても、ブライソンの名著一点、邦訳なく、稲賀氏の指摘でびっくりしたが、印象派を社会学の対象とした初めての仕事、T. J. Clarkの“The Absolute Bourgeois”の邦訳すらないとは!このタイムラグ、この語学音痴に、改めて驚きを感じる。何も起きていないことに。

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