• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年04月08日

『イギリス炭鉱写真絵はがき』乾由紀子(京都大学学術出版会)

イギリス炭鉱写真絵はがき →bookwebで購入

炭鉱、写真、絵葉書の「普通考えつかないような結合」

港千尋さんなど写真を撮る人の文章は巧いものが多いが、今どきの写真論となるとどうもパターンに入っていて、最後は必ずベンヤミン、バルト、ソンタグの三題噺に結び付けられてチョ~ン。しばらく写真誌や写真論の類から遠ざかっていた。唯一の例外が、2005年秋にメトロポリタン美術館で催された「完全なメディア、写真とオカルト」展の大カタログ“The Perfect Medium”くらいだが、やはり心霊だのオドだのエクトプラズムだのの写真は、写真論の「王道」に成り上がってはいけないところがある。やっぱ怪しすぎっ!

人物を撮り風景を写したれっきとした写真を、その置かれたイデオロギー的状況から克明に論じ尽くす堂々の写真論で面白いものがないとまずいのだが、ここに数年来の傑作が登場した。それが乾由紀子『イギリス炭鉱写真絵はがき』だ。筑豊の元炭鉱夫・写真家、本田辰己氏とのコラボレーションで名を上げた著者が、その目を20世紀初頭の英国に転じ、絵葉書の黄金時代(1900~1918)が英国石炭産業の全盛期と重なることの意味を問い、その結びつきがつくり出した様々なメディア的事象を追う。英国へ行って炭鉱関係者たちと親しく交わり、厖大な量の炭鉱絵葉書を収集した地に足の着いたフィールドワーカーの筆は、飽くまで事実やモノに即(つ)いて生き生きと具体的で、今までに何点か取り上げた博士論文と同じ正格の学問的手続きを踏む堂々の論の運びながら、息をつがせず一挙に読ませる。バルトの「プンクトゥム」論あり、ブルデューの「階級的ハビタス」論あり、多木浩二あり、柏木博あり、とかく読んで面白いのだ。

まず、豊富に掲載される鉱夫や炭鉱事故の写真、絵葉書を飾る男女の労働者の姿そのものが面白い。と感じる時、きみ、僕はまさしく当時、中産や上流の人間が炭鉱写真を集め愉しんだ視線をそっくり追復していることになるだろう。写真の抱える階級性と権力構造への目線が一度もブレない、しっかりした写真論である。たとえば、こうある。

 イギリスの初期写真史を包括するヴィクトリア朝の拡大する視覚が、「科学性」や「客観性」という信仰のもとに、戦場や植民地のほか世界各地の観察、研究、国内の社会調査、ドキュメンタリー、慈善などを目的としていたことはよく知られている。ジョン・タッグは、写真と歴史の章でロラン・バルトが指摘した、写真の「かつてそこにあったもの」を「証言する力」を取り上げ、それは「複雑な歴史的産物」であり、「ある特定の制度的実践」と「歴史的諸関係」のなかでのみ行使される、それゆえに、写真を囲む歴史、社会制度、権力関係に注目することが重要であると述べた。このことを念頭に置けば、19世紀後半のイギリスほど直接的に写真のあり方が社会のそれを体現した例も少ないだろう。(p.36)

こうして英国中産階級が社会的弱者、犯罪者、植民地の原住民、病人、狂者、そして労働者階級をひたすら好奇の目で対象化したスペクタクル志向の視覚文化が強く浸透した。「写真は、社会のヒエラルキーが大勢の上昇志向によって震撼した時代における、中産階級が<他者>を再認識することによってみずからの存立基盤を確認するための道具」となる他ない。今あるべき写真表象論としては当たり前の言い分のように思われもするが、これが実にしっかりしていればこそ、たとえばジョナサン・クレーリーの言う「観察」は「さまざまな約束事や価値に対し、自分の視界を一致させる行為」のことだとか、同様に絢爛と拡散するスーザン・スチュワート『憧憬論』(“On Longing : Narratives of the Miniature, the Gigantic, the Souvenir, the Collection”)のキーワード「スーヴェニア」について「ある場所にちなむ品ではあるが、その起源的な場所にあっては余り価値なく、ある場所への、そしてある場所からの移動によってはじめてその意味が保証される」品目だと言い切って、どんどん自分の論に取り込む異様な頭の切れを示す。炭鉱労働者の移動がこうしてスーヴェニアをただの思い出の品、お土産以上の何かに活性化し得る、それこそが炭鉱労働者自らが、もはや単なる対象ではなく収集・消費する側に「参入」し始めた新しい段階としての炭鉱写真の意味なのだ、という議論につながる。

バルトやベンヤミンレベルの写真論の使い方が巧いのは今や当たり前かもしれないが、「会社の巧妙な細工」としてうまれた労働者の「類型」化の議論にメアリ・カウリングの究極書『人類学者としての芸術家』(“The Artist as Anthropologist”)を、またノスタルジーの議論にスチュワートの『憧憬論』ただ一点を持ってくるカンのよさは並みのセンスでないとみた。しかも、炭鉱労働者たちが命を与え直したスーヴェニア絵葉書によってスチュワートのスーヴェニア観が越えられていくという展開の仕方で、ポストモダン批評のバイブルとさえ言われる『憧憬論』をさえ、きちんと組み立てられた自らの論に拠ってバッサリ、という膂力に感心する。

「クレイ・クロス社の広告絵葉書シリーズ」「ウィガンの女性炭鉱労働者の絵葉書」「ハムステッド炭鉱事故の絵葉書」等々、ローカルな一次資料の駆使はひたすら読んで面白いが、「他者」を「類型」化することで安全なものに変えてしまう構造に対するカルチュラル・スタディーズの切れ味、同じように風景を無害な書割に変えてしまうピクチャレスク美学と、それを切り裂く「プンクトゥム(傷)」としての「山」の分析の切れ味。現在、文化史記述として望み得る批評の最高の快楽を惜しみなく与えてくれる傑作だが、手間暇かけて集めに集めた、煤煙で汚れた無数の絵葉書たちの精彩が、傑作をもはや古典に変えたと断言する。

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