• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

    つづきを読む
  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

    つづきを読む
  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
    盛況のうちに終了しました。 講演レポートはこちらから-->

« 『萩原朔太郎というメディア-ひき裂かれる近代/詩人』安智史(森話社) | メイン | 『富豪の時代-実業エリートと近代日本』永谷健(新曜社) »

2008年04月25日

『近代論-危機の時代のアルシーヴ』安藤礼二(NTT出版)

近代論 →bookwebで購入

著者のいる多摩美の芸術人類学研究所、凄くなりそうね

夏目漱石の1900年代、また萩原朔太郎の1930年代を対象として、未曾有の強度で体感された「近代」をそれぞれあぶりだそうとした博論力作二篇を読んだ後だ。山口昌男流「歴史考古学」の連繋センスと、時にとても中沢新一的な連想誘発型の文体で早くも独自の境地に達した安藤礼二が、「近代」の問題をいかにもというのでない材料で論じた『近代論』を取り上げて、“近代論”書評シリーズの締めとしたい。

日露戦争から戦間時代にかけてといった漠たる表現ではなく、「明治43年(1910)から明治44年(1911)にかけてという、この列島の近代に穿たれた、わずか二年という特異な時空の歪み」のことと断じられては、何ごと、と思わず手に取るしかない。自信ありそう、明快そう。その通り、実に明快だ。意表つく材料の組み合わせながら、読後、「近代」を論じるにこれ以上のものはないと納得させられる目次だ。負けましたっ。

問題の二年間に、博物学者・生物学者の南方熊楠『南方二書』、民俗学者の柳田國男『遠野物語』、哲学者の西田幾多郎『善の研究』が書かれたとすれば、たしかに大変なタイミングである。宗教学者の鈴木大拙は今ではあまり馴染みがないかもしれない。英語で禅を啓蒙し、ジョン・ケージやビート詩人たちの霊感源となった巨人だが、鈴木がスウェーデン最大の偉人、神秘主義思想家エマヌエル・スヴェーデンボリのほぼ全仕事を翻訳する過程で、「西洋の禅」を勉強したことを、ぼくは今頃知ってびっくりし、いろいろ改めて腑に落ちた。そのスヴェーデンボリ最大の傑作『天界と地獄』の鈴木大拙訳も同じタイミングで出たというし、安藤氏に第56回芸術選奨文科大臣新人賞(「評論等」部門)をもたらした驚愕の書『神々の闘争』の主人公である折口信夫は同じ時、卒論『言語情調論』を出しているようだが、安藤氏の紹介から推して、(スヴェーデンボリとの類比で言うなら)ヴィーコの神話論・言語論を思わせる作であるらしい。ともかく大変な二年間だというのは確か。目のつけようが素晴らしい。

こうして各分野から5人の巨人がそれぞれのキーワードを付して、「生命-南方熊楠論」「労働-柳田國男論」「無限-鈴木大拙論」「場所-西田幾多郎論」「戦争-井筒俊彦論」という順に並ぶ。たとえば鈴木大拙と西田幾多郎は高等中学の同級生同士で生涯交友があったというし、鈴木と南方は当時としては珍しく長期にわたって欧米滞留の経験を共有したが、具体的には土宜法龍という学僧を介して交流を持つというふうに、さまざまなレベルで人と人とのつながりが尋常でなく、スリリングに密である。山口昌男『「敗者」の精神史』(〈上〉〈下〉)や岩佐壮四郎『抱月のベル・エポック』にも匹敵する、この意外な人間関係の広がりが、まず本書の魅力と言える。

とにかくアッという「発見」に満ちた組み合わせ、と言ってよいかもしれない。一番驚いたのが、柳田がパレスチナをめぐる国際連盟委任統治委員会の委員を務めたことが、その「常民」観念を深める上で決定的であったという事実。彼が一寸見識ある農林官僚であったことくらいは知っていたが、「アフリカから地中海沿岸にかけて、一神教の故郷を訪ね」歩く見果てぬ夢を抱えていたなんて全く知らなかった。その点にこそ力点を置く著者なればこそ、パレスチナに降り立って砂漠のゲリラたちに共感するジャン・ジュネを柳田と比べる芸当もできるし、イランに赴いたフーコーを井筒俊彦と比較できたりもする。柳田が田山花袋など自然主義作家たちと近いところにあったことくらいは知っていても、おおもとのゾラにまで本職並みに打ち込んだとは普通知るまい。そこにきちんと着目した著者はゾラの『獣人』に対するジル・ドゥルーズの分析へと論を進め、そうした部分がそれぞれフーコー論、ドゥルーズ論としても短簡ながら卓抜という生憎いばかりの贅沢な近代論に仕上がった。

こうして、明治最晩年にできた「危機の時代のアルシーヴ」と呼ぶべき政治と知の一元化への否(ノン)の動きが、当時の「資本主義グローバリズム」への初めての否であり、同様に狂ったグローバリズムの現代への「予言」となって当然なのだから、明治40年代を論じるに、フーコーが論じられドゥルーズが論じられて、何の違和感もないわけだ。

彼らの営為は「富の分析-博物学、一般文法」が内在的な「労働、生命、言語」の探究へと転換したという西欧19世紀に起った人文諸科学の決定的な再編成(ミシェル・フーコー『言葉と物』)を、近代化においては致命的な遅れをもつがゆえに、逆に「近代」そのものの矛盾がより凝縮したかたちであらわにされたこの列島において、集約的に表現したものとなったのである。(p.8)

尖鋭なアクチュアリティが(本当は凄そうな)学殖を隠しているような感じで、ニクい。

井筒俊彦、鈴木大拙が登場する人的交流の精神史となれば、二人を召喚したエラノス会議のことに一言なりと触れるべきだったか。うむ、これはどうしても近々、William McGuire、“Bollingen : An Adventure in Collecting the Past”を訳さずには済まないかも。

→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/2720