• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年03月14日

『古代憧憬と機械信仰-コレクションの宇宙』 ホルスト・ブレーデカンプ[著] 藤代幸一、津山拓也[訳] (法政大学出版局)

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ブレーデカンプに新しい人文学への勇気をもらう

ホルスト・ブレーデカンプ(Horst Bredekamp、1947-)ほどその全貌を知りたいと思わせる書き手も少ない。マニエリスム奇園(ボマルツォその他)を調べても、ライプニッツの「組合せ術」を調べても、文学と図像の関係を追ってみても、ガリレオ・ガリレイの奇想科学を追ってみても、新しい人文学かくあるべしと考えてカリキュラムをどう立てても、どこかで必ずブレーデカンプの名に出くわす。日本ではさらによく知られたメディア文化学のフリードリヒ・キットラー星雲圏の輝かしい星のひとつであるらしく、そうした新しいドイツ人文学の核たるベルリン・フンボルト大学ヘルマン・フォン・ヘルムホルツセンターの最重要メンバーの一人だ。オーガナイザーとしてもこの頃実によくその名を聞くし、ブレーデカンプのキーワード「文化技術(Kulturtechnik)」は、新千年紀に改まって以降、急に活性を帯び始めた人文学全体のキーワードになった感がある。

とにかく、今後、人文学の人間の持つべきヴィジュアル感覚の模範といえる仕事をする。ライプニッツ・モナド論を記憶劇場、世界劇場という「演劇的」モデルで捉える。かと思えば、マニエリスム期の奇怪な彫版師ジャック・カロの何気ない図版に「サッカー」の起源を看取し、もともと厖大な図像の記憶庫でもあるらしい彼の「ヴィジュアル・アナロジー」を介して、いきなり奇態な図像学の本一冊ができあがる(ブレーデカンプのゲリラ的奇書『フィレンツェのサッカー』。訳者原研二氏が、好きで好きでたまりませんという面白い解題を書いている)。エルネスト・グラッシが開いたマニエリスム的映像文化論に応答する問題のライプニッツ論“Die Fenster der Monade”も原氏の訳で年内には日本語で読めるようだ(産業図書)。

実に目の離せぬブレーデカンプは、ぼくと同い年。感覚的に近い『想像力博物館』の荒俣宏氏とも同い年、ということになる。原研二氏はふたつ下。要するにドイツ団塊世代人文学の典型。

マニエリスム論の洗礼を浴び、ヴィジュアル蔑視の時代的抑圧を免れた最初の世代が「驚異博物館(Wunderkammmer)」「芸術博物館(Kunstkammmer)」にまず共通の関心を持つのは、当然だったのだ、と今にして思う。そのことが、ブレーデカンプの『古代憧憬と機械信仰-コレクションの宇宙』で、実によくわかった。マニエリスムの諸物収集空間がベーコン流教育哲学と共存しながら、ピラネージの時代に、いわば非合理が合理と分離される場に変えられていく経過を追う。訳者解説を見ると、この作品によりブレーデカンプは、1982年にハンブルク主催のアビ・ヴァールブルク賞を受賞したことになっているが、ドイツではホッケがやり、ノイバウアーがやり、『マニエリスムとロマン派』他のマリアンネ・タールマンがやったことのスマートな整理以上のものには見えない。ほぼ同じ頃、同じことをスタフォードが『ボディ・クリティシズム』でやったアメリカでは、みんな驚愕してブッ飛んだ。さすがにイタリアはエウジェニオ・バッティスティやアダルジーザ・ルーリがいて、先進のレベルを行っていた。

いまや凡百の、という形容詞も必要かとさえ思える驚異博物館研究ブームだが、その中に改めて置き直してみると、やはりブレーデカンプによる本書は一段出来が違う。四六版162ページといえば小著の部類だが、エッセンシャルだ。集められる珍品にアレがある、コレがあるというカタログ部分に興のあるジャンルではあるが、17~18世紀の(フーコーのいわゆる)「エピステーメー」発現としての収集・分類空間としてのヴンダーカンマーのありようを示すという骨格に収斂させようとして、どうでも良い瑣末なデータはぎりぎりカット。古代憧憬と機械信仰という組み合わせでマニエリスムを論じたイタリア人、マンリオ・ブルーサティン『メラビリアの技』の絢爛冗舌と比べて、なんとありがたいドイツ的簡潔。本格の論なのに、要するに新書クラスの紙幅。キットラーにしろブレーデカンプにしろ、そんじょそこらの人間とは次元が違う。

ブレーデカンプ的な部分は最後の10ページ足らずに集約される。「フーコーの砂像」「チューリングの『テープ』」なる短い文章は、新人文学を志す人は全部暗誦して然るべき名文である。マニエリスム論を今に生かそうとすると折り合い不可避なフーコーの「人文科学の考古学」への<否>が「いいの?」と言いたくなるほどバッサリで爽快だ。そして最後の数行。

デジタル化されたイメージの世界は、芸術史の知識なくしては評価できない。芸術史としても400年にのぼる歴史の中で、恐らくはもっとも重要な挑戦を受けている。芸術史はかつてクンストカンマーありきと確信しつつ、この未来の課題に出会うことになろう。

ちゃらちゃらとアニメ学科やマンガ学部を速成すれば事足れりといのでは、きっと長続きはしない。あるべき「芸術史」への明快な指標。ちなみに原書原題は「クンストカンマーと芸術史の未来」である。勇気をもらった。

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