• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年03月04日

『パラドックスの扉』中岡成文(岩波書店/双書 哲学塾)

パラドックスの扉 →bookwebで購入

「知」は何かを明らかにしつつ、他の何かを覆い隠してしまう

書評シリーズとして持つべき選択と論旨の連続性を少し破って伴田氏による19世紀末の天才パズルメーカーの作品集を取り上げたのは、実はこの『パラドックスの扉』とペアにして考えてみたかったからである。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」理論やマトゥラーナの「オートポイエーシス」理論を易しく解説しようというバリバリの哲学入門書が示す「主体」だの「認識」だのというものが、要するに「パズル」に見えてくるかどうかだ。ひょっとしてそれは人々の持つ「哲学」なるものの既成イメージを貶下することになり、逆にパズラーたちの娯楽を不当に高く評価する暴挙と思われるかもしれないが、伴田氏のどこまでも軽そうに見える傑作パズル・アンソロジー中のパズルたちの多くは人間の「思い込み」の隙間に乗じる奇想であるという点で、そのものずばり、時代の「哲学」と正確にパラレルであったはずのものだ。ラッセルの階型理論やカントールのパラドックス、リュパスコのメタ論理学、そしてウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論といった、誰が見てもパラドックスの歴史であるものを論じながら、伴田氏がパズルと呼ぶよりはるかに多く印象的に「パラドックス」と呼ばれた、19世紀末から1930年代にかけて大流行した知的パズルのことが念頭になさそうな哲学入門は、今時やはりそれだけのものかな。そういう感覚があって、まず伴田氏の一冊を取り上げた。

「哲学をやるにも歴史は大切です」と中岡氏は言うが、その歴史がいわゆる歴史年表上の辻褄合わせ――ヒトラー政権とハイデガー哲学、etc.――では、しょせん旧套哲学史の枠から出ることはできまい。今や、パズル、ゲームと交錯する文化史レベルでの哲学史なり哲学入門が考えられてよい。ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は難解は難解だが、その辺の感覚がとてもポップだった。そこで狂言回しを務めたキャロルが言った「人生そのものがパラドックス」という言葉をキーワードにして進む伴田本には途方もない広がりがある。

実はデュードニーたちが練り上げたパズルは「数学的レクリエーション」と呼ばれ、ルネサンス以来、広く「パラドックス(アンド)・プロブレム」なる一大知的ジャンルに属していたものだが、その辺を一挙に明るみに出したロザリー・コリーやバルトルシャイティスの研究にちゃんと触れながら、「知」全体の中にいわゆる「哲学」を位置づけようとする哲学の人間がなかなか出てこない。ミッシェル・セールの『ライプニッツと数学的モデル』は、バルトルシャイティスの『アナモルフォーズ』をモデルにデカルト時代の哲学史を書き直したものだが、セールその人が旧套哲学においてはみ出し者扱いの現状では、致し方ないわけか。

そういう途方もない開け方からすると、『パラドックスの扉』は、プラトンのイデア哲学から「生の哲学」、オートポイエーシス、環境生命科学、知識社会学へと、まるで月毎で慌しい月刊誌『現代思想』の特集号を十号分、二十号分読んだように「現代思想」と哲学が接する部分についての展開が速く、びっくりさせる割には、あまり開けていない印象だ。しかし、パスカルの「繊細の精神」がデカルトに対峙したあたりから始まる近代哲学史の概要については、出るべき名はきちんと出てくるし、頭でっかちな欧系哲学史にどかんと風穴を開けるプラグマティズムへの共感など、個人的にも著者の頭と感性の爽快味は大いに気に入った。なかなか柔軟なヘーゲリアンである。ロマン派哲学の百科全書趣味も、威圧的なヘーゲルの「多感な二十代の・・・テクスト」をこそ好きで、「30歳のハイデガー」をこそ好む「知と愛」の熱き哲学者というところも、一般啓蒙の「塾」の語り部としては大きな魅力だ。

哲学史を「境界設定」のパラドックス、「知的操作の不可視化」のパラドックス・・・と、次々に「知のパラドックス」の「自己増殖」の歴史として書き直す口語体、フォーラム [広場] の対話体のテキスト。ぼくなども面白くてだいぶ開発した授業語り起こしの形式。読む分には肩こらず幾らでも読める。易しく語っている途中に意地悪な質問がぽんぽん出てくる呼吸が面白く、そして突然難解な専門家口調になって、「この辺で今日は切り上げます、あとは自分でじっくり考えてみてください」で終わるパターン。このいい加減さが、ソクラテス以来、「対話」というこれ以上ないほどパラドキシカルな――絶対を嗤う相対主義的な――議論進行のやり方であることを、知り抜いている著者ならでは、とわかると、全巻一挙納得である。天才的塾生の「ねじくれたプラスティックのハンガーが怖い/正せば壊れる気がして」という秀句ひとつ前にして「知についておしゃべりすればするほど<真理>は遠くなる」と呟く著者の、十分に風の通る頭脳に乾杯。「などといいつつ、このような本を執筆し、公刊することのパラドックスについては今は問うまい」、と。好ましい精神の健全さである。

ちなみに初版1998年。「9・11」前だ。「文明の衝突」の大パラドックス抜きに哲学はもはや語れない。

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