• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年03月28日

『GOTH』横浜美術館[監修](三元社)

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いろいろあるけど、全部許せる表紙にヤラレタッ

旧臘22日よりまる三ヶ月間開催されてきた横浜美術館の「GOTH-ゴス-」展が終わった。記念のトークを頼まれて出かけた日、真冬の荒涼とした風景の只中、美術館前で撮った写真が、当ブログのプロフィール欄に載せた筆者近影である。Dr.ラクラ(Dr.Lakra)が女優クリスティアーヌ・マルテルの美脚をフィーチャーした派手めな作品ポスターの前で、小生、黒ずくめで「ゴス」を気取ってみた。クリスティアーヌ・マルテルの半裸の美肌にブルーで刺青が彫り刻まれていて、故松田修の名著ではないが、「刺青・性・死」を扱うに相違なさそうな不思議な展覧会のストーリー、コンセプトがほぼどういうものか、入口で迎えるこの一作に如実に表れている感じがした。

表面に憑かれていく文化は、そこに生じる表沙汰にならないものをどんどん内側に隠蔽していくしかない。この外なるものを「精神化」される身体と呼び、内に澱のようにたまっていくものを取り残されて悶え呻く昏い身体とでも名付ければ、往生要集や九相詩絵巻さながらな中世ヨーロッパのメメント・モリ [死ヲ忘ル勿レ] のアートに始まり、吉永マサユキがアキバ・ストリートで撮りまくった「ゴス・ロリ」少年・少女の写真まで、一見それらがここに併存するのは何故と思われる展示物にもそれなりに納得がいく。肉塊となって転がり、それこそT・S・エリオットが「生まれ、性交し、死ぬ、生まれ、性交し、死ぬ」と簡単に要約したストーリーに執拗に苦しむ昏い身体が一方で企画の半分を占めるが、ゴス・ロリのコスプレで来館したら割引とかベスト・ドレッサー賞とか、いかにもという誘いにのってやって来たゴス・ロリたちが、それらに直面してどう思ったのか、関心がある。

身体がキーワードであることに間違いないらしいが、兎角ひとつにまとまりにくいこれだけの材料を、ひとつの<物語>にまとめるのにはどうするか、というのが見所の展覧会。というより、展覧会一般が展示物に内在しない物語を<物語>に仕組んでいく政治的な「思想」であることを、我々は知っている。<物語>は何かを生かす代わりに何かを殺す。この生と死のコントラストがメタファーでなく現実に一番はっきりするのが身体であるわけだから、生きる身体、死んだ肉体を材料にする展示は原理的に<物語>をつくり、夥しい生と夥しい死をそこにつくりだす展示(exposition)という営み自体に自己言及せざるを得ない。

1994年夏、町田市立国際版画美術館(企画:佐川美智子)、ついで栃木県立美術館(企画:小勝禮子)で、生と死のコントラストを壮大なテーマにした「死にいたる美術――メメント・モリ Memento Mori : Visions of Death c.1500-1994」展があり、名企画の誉れ高く、大型カタログも傑作と評された。当時、中世の死生観を書かせればこの人と定番だった小池寿子氏が中世のトランジ彫刻について書いた文章を載せ、「死の舞踏」「死と乙女」といったメメント・モリの典型的なテーマがこれでもかと続いて、現代アートにまで流れ込む。中途に「和洋解剖図」のコレクションが挿まれるあたりも抜かりない。柄澤齊、北川健次といったぼくよりひとつ下の世代に至るまで実に周到に並べられた大企画だった。少し縁のあった名キュレーター(のちにフェミニズム・アートの仕事で有名になった)小勝禮子さんからこの企画のことで相談され、相手がまさしく死にゆく身体をテーマにした企画ゆえ、ぼくはぼくなりに、生をどこかで殺さなければ<物語>を捻出し得ない「ミュージアムの思想」というものに逢着して、ぜひそのことを書いた拙文をカタログ冒頭に載せてくれと頼み、実現した。ちょうどぼくが夢中だったF1レーサー、アイルトン・セナが謎めいた衝突死を遂げた直後で、セナに献げられたぼくの文章「<エクスポーズ>するいやはて」は、後にぼくの『綺想の饗宴』に中心的エッセーとして載録された。懐かしい。

今回展もまさしくリッキー・スワローのトランジ彫刻に始まり、それをモダニズムの絵葉書や雑誌に移し替えたDr.ラクラの仕事に続く。そして束芋(Tabaimo)、イングリッド・ムワンギ・ロバート・ヒュッター(出産と死の直截なパフォーマンス)、性同一性障害のピューぴる(真の自分を求めての外観の千変万化)が間に入り、吉永マサユキのコスプレ少年少女の写真が入る。自ずから時系列に沿った「死生観」変換史‐物語ができる。間に入った部分は1970年代ならグロテスクないし「グロテスク・リアリズム」と呼ばれた世界で、この大きな物語の一部としてちゃんと貢献している。

もう一人、こういうスケールの大きい企画ができる名キュレーターに笠原美智子さんがいて、かつて「ラブズ・ボディー――ヌード写真の近現代」展(東京都写真美術館、1998年)を成功させた時のことを、今回改めて思い出した。ピーター・フジャーとデヴィッド・ヴォイナロヴィッチのコンビがエイズで衰弱していく自分たちの身体を撮った写真を中世の教会のカタコンベに積み上げられた人骨と並べることで生じる安寧と慰撫の物語力(?)に抵抗ありと、当時ぼくは、身体と生死をめぐるいくつかの展覧会について同じような印象を記したサンダー・L・ギルマンに力を借りて述べた記憶がある。

『夜想』の今野裕一氏あたり大いに食いつきそうな展覧会であるが(参考:ART iT「劣化コピーの時代」)、ぼくとしては身体と死生観をめぐるこうした一連の優れた企画として大いに楽しんだ。内に抑えられたものが外に出てくることを“expose”と言う。展覧(exposition)、とりわけ内に秘め隠された身体性とそれを外に昇華した「精神性」の弁証法を問題にする展覧とは何、とこれを機にキュレーター木村絵理子氏のミュージアム観のさらなる深まりを期待して館を去った。

それにしても、小谷真理氏の『テクノゴシック』が銀色、この「GOTH」展カタログがピカピカの金色。金色の表紙に自分の顔が映り、しかもそこに頭蓋骨が透けて映る心憎いリフレクション [鏡] の仕掛けに気付き、いやいや敵もさるものと大いに愉快な一冊ではある。

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2008年03月25日

『博物学のロマンス』リン・L・メリル[著] 大橋洋一、照屋由佳、原田祐貨[訳] (国文社)

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書評がなにやら企画趣意書になってしまう相手

マニエリスム・アートがヴンダーカンマーを諸物糾合という自らの表現意思の最もわかりやすい象徴として展開してきたことは、既に何点かの本に触れて述べてきたが、1990年前後まで主たるマニエリスム研究書は大体ドイツ語圏で出され、英語圏ではマニエリスムが些かなりとも肯定的な意味で普通に使われるということがなかったため、ヴンダーカンマーの歴史が英米にはなかったかのような印象があった。これはとんでもない誤解なので、その辺を一番包括的にしっかりやってくれているリチャード・オールティックの大著『ロンドンの見世物』(〈1〉〈2〉〈3〉)を、仲間うちを語らって寄ってたかって完訳した(小池滋監訳、井出弘之・高山宏・浜名恵美・村田靖子・森利夫訳)。

既に周知のところとなったかと思うが、“Wunderkammmer”という語は、英語では“cabinet”という(丁寧に言うと、“cabinet of curiosities” あるいは “cabinet of wonder”)。早くも17世紀初めにトラデスキャント父子が「ノアの箱舟」と綽名された大型キャビネットをロンドン近郊に設立・運営していたことを、このオールティックの大冊は面白く縷説している。他の様々な見世物と絶妙に絡み合いながら、このキャビネットが19世紀に入って、かの有名な第一回万国博覧会の会場設計や陳列の理念に壮大に活かされた、というところでオールティックのポピュラーカルチャー論は終わる。万博に限らず博覧会一般を指す“exposition”(大阪万博がエキスポ70と呼ばれたのもそのためだ)が辞書的意味の本当に広い定義域全体に亘って19世紀全体のキーワードと化した、と一段と大きい議論にレベルアップしてくれるフィリップ・アモンの“Expositions”を、ついに意を決して、ぼくは訳し始めた。19世紀のさまざまな展示空間と文学言語の関係を語らせれば比類のないこの名作完訳をもって、オールティック以来の「キャビネット」文化史邦訳プランを一段落させるつもりだ。

万博が博物学趣味の文化的結晶であることは、既に松宮秀治『ミュージアムの思想』を知るみなさんに説くまでもない。19世紀が「博物学の黄金時代」であり、特に英国でそうであった事情は、1980年代までほとんどまともに喧伝されておらず、ぼくとしてはリン・バーバー著『博物学の黄金時代』を邦訳紹介して、ぼくなりのキャビネット文化史邦訳シリーズの決定打とした。歴史書翻訳にあるまじき(?)文章の凝りようで、当時売り出し中の作家、村山由佳氏に訳文を褒めたてられたのに驚き、かつ嬉しかった。『不思議の国のアリス』でも、冒頭いきなり、退屈だからヒナゲシで花輪をつくろうとするアリスの身振りについて、中上流の倦怠婦女子に唯一公認されていた消暇法が博物学であったことを知るか知らないかで、対応は一変。章ごとに珍妙なモンスターどもに遭遇する少女主人公の物語自体が童話化されたキャビネット・オヴ・ワンダーズでなくて何だ、という視点で、ただいま『アリスに驚け』を脱稿寸前である。主たるアイディア源がリン・バーバー。

ところが、『博物学の黄金時代』は現在入手不可で、みなさんに読んでいただけない。ハテ困ったと思っていたところ、もう一人のリン、リン・L・メリルの『博物のロマンス』(原書“The Romance of Victorian Natural History”)はなお読めることがわかった。ヴィクトリア朝に信じ難いほどの博物学狂いがあった面白い現象を、ほとんどリン・バーバーと同じ材料でカバーしてみせる。フィリップ・ヘンリー・ゴス、チャールズ・キングズリー、ヒュー・ミラー、そして大喜利は当然ラスキン。

エピソード豊かなくだけた語り口では断然リン・バーバーに軍配が上がるが、リン・メリルの場合、訳者大橋洋一の名で見当がつくように、「現代思想」寄りの読者をも満足させるカルチュラル・スタディーズのアプローチが次々と繰り広げられる。「文化帝国主義」としての博物学という松宮流の着眼は言わずもがな。特徴的なのは、細密・細部への一文化規模でのこだわり(detailism)という衝迫の下に、細密と言えばこれしかないラファエル前派の絵とテニスンその他の精密詩学、そして博物学を同一線上に並べた展開で、ポストモダン文化論の隠れたバイブルと囁かれた才媛スーザン・スチュワートの“On Longing : Narratives of the Miniature, the Gigantic, the Souvenir, the Collection”のエッセンスをいいところ取り的に持ってきて、たとえばキャビネットがコレクションする対象の配列こそ「遊戯の形式、注視と文脈操作からなる世界内部に対象を新たに枠付ける形式」、即ち「憧憬」の産物、欲望の産物と言い切る。こうした記号論的分析は悠々たる語り部リン・バーバーには完全に欠けているところで、現代批評の切れ味を堪能しながらミュージアムやキャビネットの歴史の整理もしたい、という贅沢な読者には、もうこれしかないという一冊。国文社がハリエット・リトヴォ『階級としての動物』他、批評の名著邦訳に異様にテンション高かった頃の一冊だ。この際、“On Longing ”訳も(一度流したが)改めて仕切り直してやるべきかな、と強く思わされた次第だ。

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2008年03月21日

『美術館の政治学』暮沢剛巳(青弓社)

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「オー・セゾン!」。改めて「熱いブクロ」を思いだした

この本は2007年4月初版。同じ月に横須賀美術館ができ、その直前に国立新美術館が開館していた。六本木ヒルズや東京ミッドタウンといった新しい文化の中心が出発する時、美術館とそこで開催される展覧会のクオリティがPR効果を発揮し、誰もこういうあり方を不思議とさえ思わなくなっている。一体、今や都市文化の代名詞と化したこの「ミュージアム」とは何なのか、広い意味での人文学さえはるかに越える超の付く「横断的」アプローチが必要な相手なのに、全体を見渡す手掛かり、概説書がない。前回読んだ松宮秀治『ミュージアムの思想』は「ミュージアム」を西欧中心の「思想」、イデオロギーそのもとして捉え、西欧におけるその発生と意味を説く点ではほぼ完璧だったが、後発の日本のミュージアムについては、そういう西欧流を模倣する歴史が批判されるべきだと言うばかりで、実態や処方箋は守備範囲ではなかった。いわばそこを補う書き手として、こういうニューミュゼオロジーという新動向に通じ、かつ経営的側面からミュージアムを考えていく感覚にも優れ、「第一人者」(ご本人は「人一倍自覚的」という言い方をされている)を任じる暮沢剛己氏の『美術館はどこへ?』と今回の『美術館の政治学』は貴重だ。

ぼく個人もこの数年、石原都知事が個人的にもリキを入れた美術行政と関わらざるを得ない立場で、東京都歴史文化財団と接触し、都立の大学と都立の各ミュージアム施設との制度的・教育的連繋の可能性を探らされてきたが、導入予定の指定管理者制度なるものにピリピリし出したミュージアム側の「守り」の態勢を前に、結局たいして積極的な提案もなし得ぬまま、それ以上の勉強を諦めた。「採算」や「収益率」が先行して、それ以上、話が進まなくなるのだ。大学でもそういう情けない状況の進行に日々さらされているものだから、同じことが美術館でも起こっていることを知って妙に共感し、それ以上「ご迷惑」をお掛けできないと考えたのだ。『美術館の政治学』は、雑誌「美術手帖」に2004年から一年一寸連載された記事をまとめたもの。まさしくその頃、大学改革の騒ぎの中で、ミュージアムの教育能力をどう取り込むべきか考えろという課題を負わされたぼくは、この暮沢連載を、ほとんどすがるように貪り読んだ。切迫感をもって読まれる本がいつもそうなるように、今回単行本化された本書も掛け値なしの名著だ。

ミュージアムと「政治学」となれば当然出てくる万国博覧会と遊就館に、それぞれ一章が割かれる。「戦前から地続き」の皇紀二千六百年博覧会実現をという悲願がいかに大阪万博を支えたパワーになったか、という分析には改めて驚いたし、坪内祐三『靖国』で既に充分びっくりさせられた戦争博物館(遊就館)が高橋由一絡みで本当は美術館としても素晴らしいはず、という指摘にも驚かされた。柳宗悦の日本民藝館の平和主義と、裏腹のオリエンタリズムの「偽善」という指摘はひりひり痛い。歴史に関わる章では、ミュージアム蝟集の神話的トポスとしての上野公園、その彰義隊怨念の地の130年に亘る「敗者」のトポス論が、典型的敗者として東京国立博物館創建に文字通り一命を賭した町田久成の事跡を含め、実に面白い。山口昌男や坪内祐三の筆かと思う展開である。

しかし、政治史におけるミュージアムを論じた先の4つの章以上に面白いのが、第5章、第6章で、それぞれ、「セゾングループの文化戦略」中に占めた西武(セゾン)美術館の位置、またNTTインターコミュニケーションセンター(ICC)の栄光と閉館の危機を扱っている。美術館とアートブック専門の大書店が合体した池袋西武アール・ヴィヴァンやリブロの世界は、西武(セゾン)美術館開館から閉館の1975年~1999年に「知的」人生のほとんど全部が重なるぼくなどにとって興奮して死にそうな神話空間だった。「私事で恐縮だが、私が1980年代後半の東京で過ごした学生生活は西武セゾン文化との蜜月時代だったといって過言ではない。」と始まる暮沢氏の熱い文章は、冷静な研究書を一挙にどきどきする「読み物」に変える。「セゾングループの文化戦略」(pp.128-134)は、都市文化の可能性に賭けようとする人間にとっては長く忘れ難い文章になるだろう。周知のように西武系文化事業の「黄昏」はショッキングな出来事だったが、流れは森美術館の「アーテリジェント・シティ」構想に引き継がれると暮沢氏は見ているし、メディア・アートを核にした同様にハイブリッドな新時代文化の熱狂状態をつくり出したICCの先見性を讃えた文章も熱っぽい。

構想力かジリ貧か。地方のミュージアムの苦闘と成功の報告と、独立行政法人化他の採算優先、愚かなハコモノ行政への苦言。こちらの冷徹な分析もよくできている。ちゃらちゃら「視覚文化論」などやる前に、あるいはやる一方で、必ず一読すべき最強にリアルなガイドブックである。椹木野衣や北澤憲昭、吉見俊哉や北田暁大、そして浅田彰の偉さが改めてよくわかる。

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2008年03月18日

『ミュージアムの思想』松宮秀治(白水社)

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美術館が攻撃的で暴力的だなんて感じたこと、ある?

現在、大新聞の文化欄の過半がミュージアム(美術館/博物館)の催事案内で埋まっている。落ち目と言われる人文方面でも、いわゆるミュゼオロジー、展示の方法論・社会学だけは、美術史を巻き込む形で、ひとり元気に見える。我々の文化がほとんど無自覚・無批判に「美術館」と「博物館」に分けて対峙させてしまった西欧的「ミュージアム」とは何か、コンパクトに通観した傑作を、日本人が書いた。ミュージアムの歴史の中では典型的な非西欧後進国である日本だからこそ、「コレクションの制度化」をうむ「西欧イデオロギー」をきちんと相対化できた、画期的な一冊である。

そういう本である以上、キーワードが「帝国」であることはすぐ想像できるが、何となくというのではなく、「ミュージアムの思想」そのものがいわば「文化帝国主義」と同義であるという指摘と、我々がイメージする19世紀列強の帝国主義をはるか遡るハプスブルクの神聖ローマ帝国という包括的長射程の「帝国」とその文化戦略を相手にする腰の据わり方で、類書を抜く。

類書は実は多い。本欄お馴染みのヴンダーカンマー、クンストカンマーが「視覚政治学」の一部に取り込まれていく話がメインだから、1908年刊のフォン・シュロッサーの最初の驚異博物館論から、エリーザベト・シャイヒャー『驚異の部屋』、クシシトフ・ポミアン『コレクション』、フランセス・イエイツ『十六世紀フランスのアカデミー』、ロイ・ストロング『ルネサンスの祝祭』(〈上〉〈下〉)、R・J・W・エヴァンズ(本欄第2回目に新刊紹介)『魔術の帝国-ルドルフ二世とその世界』(現在、ちくま学芸文庫〈上〉〈下〉)およびトマス・D・カウフマン『綺想の帝国』と、本邦の欧風文化史書の黄金時代を築いた(二宮隆洋氏のいた)平凡社、工作舎による精神史・文化史路線の名著好著が片端から出てくるパノラミックな疾走感は、流石のぼくにして完全に脱帽だ。凄い。

こういう西欧でのミュゼオロジー史の急激な隆盛がほとんどまともに紹介されていないことを怒り、一定の状況紹介と資料紹介をしたのはぼくだ、という自負と確信はある。「政治の視覚化」についてもぼくは『目の中の劇場』収中の「星のない劇場」他の文章で、ルネサンス宮廷文化の「劇場政治学」「視覚政治学」の華やかな現状(フランセス・イエイツ、ロイ・ストロング、スティーヴン・オーゲル)を紹介した。1980年代半ばのことである。しかし別に威張るほどのことでなく、ぼく自身ポンポン出すだけで、もうひとつ大きな視野でまとめ損なっていたものが、この松宮書一冊に全てまとめ上げられていることに、心底感動した。ぼくなりの戦略があって訳したリチャード・オールティックの『ロンドンの見世物』(〈1〉〈2〉〈3〉)もリン・バーバーの『博物学の黄金時代』も、片端から引用され、批評されている。

「邦訳のあるもののみ」と粋な素振りの「参考文献」リストを見て唸った。たった4ページのリストだが、活字組みからも山口昌男『本の神話学』巻末の文献リストを想起させ、著者の抜群の着眼を改めて思い知らされる。おぬしできるな、と。素晴らしい資料をただアハアハと楽しむのが限界というぼくなどと決定的に違って、ポミアンやブレーデカンプらの新しく見えるミュゼオロジー研究にさえ、「自分たちが新しい「文化帝国主義」のイデオローグ」と化していることに気付かないのが浅はかにもおそろしいと、透徹した目を向けていて、これで松宮<対>タカヤマの勝負は決まった。メタヒストリーの視野と次元が違う!

エヴァンズの名著中の名著『魔術の帝国-ルドルフ二世とその世界』(〈上〉〈下〉)の次くらいに、エルスナー、カーディナル共編『蒐集』(高山宏監訳)をたくさん引用してくれていて、ここでも報われたと嬉しい反面、あらかたの論文が「ミュージアムとコレクションの制度化という思想のなかに深く内在した文化的帝国主義」に自らも染まっていることに気付いていない、その「独善性にあきれるというより、驚きさえおぼえてしまう」と指摘されて、紹介者自身が今頃なるほどと深く感心し、着眼の次元の彼我の差に戦慄を覚えたほどである。

もうひとつの大きな特徴は、あくまで王権論に徹した点で、「神聖ローマ帝国の皇帝権と領邦君主の地域支配権」のせめぎ合い、王権と教権の確執のあわいに、「戦う王」ならぬ「考える王」の「新しい威信装置」としての宮廷コレクションが圧倒的に充実していった、とする。自らの弱体を補償しようとした「ハープスブルク家」諸皇帝の「レノウァティオ(帝国革新)」理念が独墺から英仏各宮廷に広がり、現在のユネスコのミュージアム法にまで伝わった、とする。何という射程の長大!先般紹介した菊池良生本と併せ、メディア史におけるハプスブルク家の位置に豊かな再考を促す精神史の名作である。

ごく最近落掌した山路勝彦『近代日本の植民地博覧会』は、ヨーロッパの「ミュージアムの思想」を日本がいかに朝鮮や台湾、関東州に向けたかを鮮烈に追うもので、今回、改めてこの『ミュージアムの思想』を併せ読み直すこととなった次第である。吉見俊哉『博覧会の政治学』もだが、こういう「エクスポジション」をめぐる政治学ということで、次回、もう一冊、名作を取り上げよう。

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2008年03月14日

『古代憧憬と機械信仰-コレクションの宇宙』 ホルスト・ブレーデカンプ[著] 藤代幸一、津山拓也[訳] (法政大学出版局)

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ブレーデカンプに新しい人文学への勇気をもらう

ホルスト・ブレーデカンプ(Horst Bredekamp、1947-)ほどその全貌を知りたいと思わせる書き手も少ない。マニエリスム奇園(ボマルツォその他)を調べても、ライプニッツの「組合せ術」を調べても、文学と図像の関係を追ってみても、ガリレオ・ガリレイの奇想科学を追ってみても、新しい人文学かくあるべしと考えてカリキュラムをどう立てても、どこかで必ずブレーデカンプの名に出くわす。日本ではさらによく知られたメディア文化学のフリードリヒ・キットラー星雲圏の輝かしい星のひとつであるらしく、そうした新しいドイツ人文学の核たるベルリン・フンボルト大学ヘルマン・フォン・ヘルムホルツセンターの最重要メンバーの一人だ。オーガナイザーとしてもこの頃実によくその名を聞くし、ブレーデカンプのキーワード「文化技術(Kulturtechnik)」は、新千年紀に改まって以降、急に活性を帯び始めた人文学全体のキーワードになった感がある。

とにかく、今後、人文学の人間の持つべきヴィジュアル感覚の模範といえる仕事をする。ライプニッツ・モナド論を記憶劇場、世界劇場という「演劇的」モデルで捉える。かと思えば、マニエリスム期の奇怪な彫版師ジャック・カロの何気ない図版に「サッカー」の起源を看取し、もともと厖大な図像の記憶庫でもあるらしい彼の「ヴィジュアル・アナロジー」を介して、いきなり奇態な図像学の本一冊ができあがる(ブレーデカンプのゲリラ的奇書『フィレンツェのサッカー』。訳者原研二氏が、好きで好きでたまりませんという面白い解題を書いている)。エルネスト・グラッシが開いたマニエリスム的映像文化論に応答する問題のライプニッツ論“Die Fenster der Monade”も原氏の訳で年内には日本語で読めるようだ(産業図書)。

実に目の離せぬブレーデカンプは、ぼくと同い年。感覚的に近い『想像力博物館』の荒俣宏氏とも同い年、ということになる。原研二氏はふたつ下。要するにドイツ団塊世代人文学の典型。

マニエリスム論の洗礼を浴び、ヴィジュアル蔑視の時代的抑圧を免れた最初の世代が「驚異博物館(Wunderkammmer)」「芸術博物館(Kunstkammmer)」にまず共通の関心を持つのは、当然だったのだ、と今にして思う。そのことが、ブレーデカンプの『古代憧憬と機械信仰-コレクションの宇宙』で、実によくわかった。マニエリスムの諸物収集空間がベーコン流教育哲学と共存しながら、ピラネージの時代に、いわば非合理が合理と分離される場に変えられていく経過を追う。訳者解説を見ると、この作品によりブレーデカンプは、1982年にハンブルク主催のアビ・ヴァールブルク賞を受賞したことになっているが、ドイツではホッケがやり、ノイバウアーがやり、『マニエリスムとロマン派』他のマリアンネ・タールマンがやったことのスマートな整理以上のものには見えない。ほぼ同じ頃、同じことをスタフォードが『ボディ・クリティシズム』でやったアメリカでは、みんな驚愕してブッ飛んだ。さすがにイタリアはエウジェニオ・バッティスティやアダルジーザ・ルーリがいて、先進のレベルを行っていた。

いまや凡百の、という形容詞も必要かとさえ思える驚異博物館研究ブームだが、その中に改めて置き直してみると、やはりブレーデカンプによる本書は一段出来が違う。四六版162ページといえば小著の部類だが、エッセンシャルだ。集められる珍品にアレがある、コレがあるというカタログ部分に興のあるジャンルではあるが、17~18世紀の(フーコーのいわゆる)「エピステーメー」発現としての収集・分類空間としてのヴンダーカンマーのありようを示すという骨格に収斂させようとして、どうでも良い瑣末なデータはぎりぎりカット。古代憧憬と機械信仰という組み合わせでマニエリスムを論じたイタリア人、マンリオ・ブルーサティン『メラビリアの技』の絢爛冗舌と比べて、なんとありがたいドイツ的簡潔。本格の論なのに、要するに新書クラスの紙幅。キットラーにしろブレーデカンプにしろ、そんじょそこらの人間とは次元が違う。

ブレーデカンプ的な部分は最後の10ページ足らずに集約される。「フーコーの砂像」「チューリングの『テープ』」なる短い文章は、新人文学を志す人は全部暗誦して然るべき名文である。マニエリスム論を今に生かそうとすると折り合い不可避なフーコーの「人文科学の考古学」への<否>が「いいの?」と言いたくなるほどバッサリで爽快だ。そして最後の数行。

デジタル化されたイメージの世界は、芸術史の知識なくしては評価できない。芸術史としても400年にのぼる歴史の中で、恐らくはもっとも重要な挑戦を受けている。芸術史はかつてクンストカンマーありきと確信しつつ、この未来の課題に出会うことになろう。

ちゃらちゃらとアニメ学科やマンガ学部を速成すれば事足れりといのでは、きっと長続きはしない。あるべき「芸術史」への明快な指標。ちなみに原書原題は「クンストカンマーと芸術史の未来」である。勇気をもらった。

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2008年03月11日

『アルス・コンビナトリア-象徴主義と記号論理学』 ジョン・ノイバウアー[著] 原研二[訳] (ありな書房)

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『アムバルワリア』を読んだら次にすること

チェスで人がコンピュータに勝てないと判ってからどれくらい経つか。感情や情念といった言葉を持ち出して、人にしか書けない詩があるという人々はなお多く、現に「詩」は相変わらずいっぱい書かれている。しかし、チェスの棋譜を構成していくのと同じ原理が詩をつくるとすれば、人は詩作でもコンピュータに勝てないことが早晩判るはずだ。そう考える詩学がある。チェスと詩学が全く違わないことを、作家ボルヘスは『伝奇集』中の有名な「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」に宣言した。

ニーチェが「感情の冗舌に抗して」成り立つとした文学観が存在するが、この言い分をキャッチフレーズに掲げたロマニスト、グスタフ・ルネ・ホッケの我らがバイブルたるべき『文学におけるマニエリスム』によれば、「マニエリスム」という文学観がそれで、読むほどに、ヨーロッパで成立した詩学が日本人の考えるような「詩」とは全く違うマニエリスム文学観の所産だと知れて、ほとんど愕然とする。西欧の詩を律する詩脚の数合わせ、押韻の組み合わせ、それはほとんど数学的と言ってもよいし、出来上がった作品は建築物に酷似している。一時ヤワな日本現代詩壇で「定型」をどう考えるかという議論が盛んだったことがあるが、数学に似た詩の形式美をポエティークとして捉えるという本格詩学の立論など出てくる気配はなかった。間違いなく「感情の冗舌に抗し」た西脇順三郎作『Ambarvalia-旅人かへらず』が、講談社文芸文庫創刊20周年を祝う「アンコール復刊」の先陣を切って読める。この機会に西脇の中に脈流した異様な(本当はこちらが正格正調の)詩学をちゃんと受け止めるべきである。

ホッケの『文学におけるマニエリスム』がドイツで出たのが1959年。来年はちょうど50周年。「言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術」という副題からしていかにも邦訳が聖典化された1970年代トーキョーの熱気が偲ばれるが、世情人心すべてが「統合」を渇望する「分断」の水瓶座相にある肝心の今、書店に並んでいない。1957年、先行して出たホッケの『迷宮としての世界』にしても同じ状況で、昨2007年がその50周年だったのに、そのことに触れたドイツ語圏文化・文学関係者の一文も見ない。総じて我々日本人は危機に鈍感、ないし無関心なのである。

もう一度言うが、本国ドイツでは文学と数学の相同を探るタイプの文化史が今まさに旬なのだ。先回来のパラドックス研究絡みで言えば、Paul Geyer & Roland Hagenbüchle,“Das Paradox”(1992)から、Andreas B. Kilcher,“mathesis und poiesis : Die Enzyklopädik der Literatur 1600-2000”(2003)まで、本当にいっぱいある。今までの人文学がいかに偏狭なものであり、そしてこれからが本当の人文学なのだと宣言する茫然自失の作品が目白押し。またお得意の知識のひけらかし、と言う声の聞こえてこぬでなし、この辺でよすが、かつて大なり小なりホッケ教徒を号したはずの団塊の世代の「定年後」惚けの忘恩ぶりには些か失望した。

しかし、<間>をつなぐ素晴らしいセットアッパーが存在する。それがジョン・ノイバウアーの本書だ。原題は“Symbolismus und symbolische Logik : Die Idee der 'Ars Combinatoria' in der Entwicklung der modernen Dichtung”(1978)。これを直訳して「象徴主義と記号論理学」とするのは実は違う(もとは同じ「シンボル」を「記号」「象徴」に分け、別物と理解し始める日本語、日本人の西欧理解の浅さに起因)。そこで邦訳ではこれを副題にまわし、原書の副題「アルス・コンビナトリア」をメインタイトルにしている。

マラルメやヴァレリーの詩的「象徴」主義と、ラッセルやカントールの名で思いだす「記号」論理学を通時・共時の両相で同列に論じた。詩と数学が19世紀末からモダニズムにかけて重合し、この重合の源泉がノヴァーリスのロマン派にあり、さらにその源流がマニエリスム数学者ライプニッツの「組合せ術(ars combinatoria)」にあり、さらにその源流は・・・と遡及して、結局ホッケのマニエリスム文学史の主知的な半分(残り半分は汎性愛主義)をそっくりカバーしつつ、これまた今はもう入手できないパオロ・ロッシ『普遍の鍵』に始まる「記憶術(ars memorativa)」研究の肝心なところを伝える途方もないチャートを、ふるえるような目次案によって示してくれる。

またきな臭くなり出した「分断」のセルビア。そこにポストモダンをつくりだした『ハザール事典』のミロラド・パヴィチは、コンピュータが自分の小説の読み方を広げると言って逝った。小説にもチェスやコンピュータと区別つかぬ「詩学」があり得るのか。あり得ると言ったのがあの『青い花』のノヴァーリスだとノイバウアーに説かれて、昔ながらの「感情」べったりのロマン派観をなお抱き続けられるものだろうか。訳者原研二氏が次の標的にしているのはブレーデカンプのライプニッツ論の由。なんとも嬉しい流れである。

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2008年03月07日

『シラーの「非」劇-アナロギアのアポリアと認識論的切断』青木敦子(哲学書房)

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「疾風怒濤」を思いきって「ゴス」と呼んでみよう

ゲーテは尊敬するが、愛するのは誰かと言われればシラーである、というのがドイツ人の口癖だとはよく聞く話だが、一体、いま現在の日本にとって古くて遠いドイツロマン派の劇作家・詩人・歴史家ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・フォン・シラー(1759-1805)が大文豪だったという「噂」を聞かされても、どんだけっ、である。硬直した社会への抵抗を熱く説く革命文学者と聞くだに、ださっ、である。「疾風怒濤」運動随一の担い手だそうだが、もう疾風怒濤なんて字も響きもなんだかキモッ、である。ケータイ小説こそ新時代文学の息吹などと、かの「ニューヨーク・タイムズ」までが珍妙に褒め讃える我々のブンガク状況の中で、浪漫派、浪漫主義は、完全に死語である。

ひとつには、いわゆる独文学の世界にレベルを保ちつつ啓蒙の気概をも持ち合わせた人物がいないこともある。この2月に川村二郎氏が亡くなって、いよいよその感が強い。そうでもないかも、という動きを当書評の何回か前に少し拾って希望をつないでみせたが、大勢として独文低調の動きははっきりしている。種村季弘の五分の一のスケールの人物でもよい、一人くらい出てこい、というのが本音だが、こんなことを繰り言のように言うのも、ドイツ本国とドイツ語圏における人文学、精神史、文化学が、メディアやコンピュータの浸透を逆に追い風にして、質量ともに未曾有の発展を遂げているからである。このギャップが何ともいらだたしい。

表には出にくいが、博士論文にはなかなか優れたものがある。博論と聞いて即つまらないと感じるのは、まあ当たっていなくもないが、本欄でも実は既に二、三、一般読者にとっても面白い博士論文を取り上げている。

青木敦子『シラーの「非」劇』も、2005年に名古屋大学大学院に提出された博論「時計仕掛けの世界とマリオネット」に加筆して出版に至った大著である。博論タイトルからして此方の種村好みをチリチリ刺激する内容が想像されるが、単行本化された副題「アナロギアのアポリアと認識論的切断」が窺知させるように、博士論文かくあるべしの実に堂々たる学問的体裁も具えている。就職の便益のためと称し、文系博論も理系のそれに負けじと大量生産の悪弊生じ、あきれるようなものが書かれる傾向がある中で、久方ぶりに学問の誇りを感じさせてくれる労作だ。商業ベースに乗るわけないこの大作を、著者を励ましながら出版させた哲学書房社主、中野幹隆氏も流石のものだ。かつて時代の風とさえなった雑誌「パイデイア」や「エピステーメー」の名編集者だった中野氏の名に「故」を付けなければならないのは呆然たる事態だ。中野氏に差し迫った死を知る由もなく氏への謝辞を書き募る「あとがき」に感慨胸に迫るものあり。団塊と少し下の年老いた知的少年に熱くも爽やかな夢の「哲学誌」を次々送ってくれた天才編集者追悼のためにも、青木氏のシラー論を本欄で取り上げる価値がある。

オランダ黄金時代に大流行しただまし絵的静物画の巨匠ヘイスブレヒツの「だまし絵のだまし絵」を表紙にあしらっていることで既に明快なように、フーコーが近代エピステーメー論の主舞台とした17世紀、「表象」に生じた大変動が150年後のロマン派といかに深く共鳴したかを論じる。フーコーの『言葉と物』のシンボル的存在、ベラスケスの『侍女たち』をめぐるあまりにも有名な解釈合戦がシラー作『ドン・カルロス』の分析にフル活用されるが、そういったいま現在の人文学にとってとてもアクチュアルなシラー像、「われらの同時代人」としてのシラー像を青木書は存分に提示してくれる。

表紙と帯の関係も一寸だまし絵になっているあたり、中野氏のウィットを懐かしめるが、その帯に「本書はシラーのテクストを触媒に激発する21世紀思想の化学反応の場である。神の模写から、崇高な主体への構造変動を、解析しつくした力業。」とあって、内容これに尽きる。という以上に、「親和力」など「化学」に思想最大のメタファーを見たドイツロマン派の核芯を知る中野大人のウィットの鮮烈を感じた。

カントを読み「崇高な主体」にめざめることでシラーの劇作に生じた、前期と後期との「認識論的切断」を言う。「前期」を後期成立に至る過程という扱いから独立させ、新興市民階級が否応なく孕む両義性に見合ったものとしての悲喜劇ごっちゃ(もはや「悲」劇でなく「非」劇だとは、そういう意味)の「ゴシック的混合(die gotische Vermischung)」の徹底した分析が、シラーを現代演劇に一挙に近づけてくれる。「眼差し」のありようでいかようにも見える世界の混沌に悩み、「視」そのものを具体化させた演劇というもののさまざまな仕掛けを通して、まるで17世紀バロック劇場の人間のようにあたふたと振舞った「前期」のシラーの方が、カント体験以降の「主体」を云々する近代的シラーよりはるかに豊かに思えるという結論また、シラー好みの「どんでん返し」と言って言えなくもない。

「眼差し」をキーワードに、「ピクチャレスク」や「イリュージョニズム」への深い理解を武器にした新しい視覚文化論的な演劇論ということでは、フランス古典主義演劇をめぐる秀才、矢橋透『仮想現実メディアとしての演劇』と双璧であろう。副題にある「アポリア」をパラドックスと言い換えてもよい内容で、貴族と市民、善と悪といった対極が間断なく逆転する。パラドックスの演劇が問題なのであり、パラドックス関係を何冊か取り上げて調子が上がってきたその大喜利に、ドンとこの大冊で仕上げをしよう。演劇と「視」という問題に引っ掛けて、いよいよ本欄の本命たる視覚文化論の面白い本、大切な仕事の方に、以下徐々に目を向けてみる。

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2008年03月04日

『パラドックスの扉』中岡成文(岩波書店/双書 哲学塾)

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「知」は何かを明らかにしつつ、他の何かを覆い隠してしまう

書評シリーズとして持つべき選択と論旨の連続性を少し破って伴田氏による19世紀末の天才パズルメーカーの作品集を取り上げたのは、実はこの『パラドックスの扉』とペアにして考えてみたかったからである。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」理論やマトゥラーナの「オートポイエーシス」理論を易しく解説しようというバリバリの哲学入門書が示す「主体」だの「認識」だのというものが、要するに「パズル」に見えてくるかどうかだ。ひょっとしてそれは人々の持つ「哲学」なるものの既成イメージを貶下することになり、逆にパズラーたちの娯楽を不当に高く評価する暴挙と思われるかもしれないが、伴田氏のどこまでも軽そうに見える傑作パズル・アンソロジー中のパズルたちの多くは人間の「思い込み」の隙間に乗じる奇想であるという点で、そのものずばり、時代の「哲学」と正確にパラレルであったはずのものだ。ラッセルの階型理論やカントールのパラドックス、リュパスコのメタ論理学、そしてウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論といった、誰が見てもパラドックスの歴史であるものを論じながら、伴田氏がパズルと呼ぶよりはるかに多く印象的に「パラドックス」と呼ばれた、19世紀末から1930年代にかけて大流行した知的パズルのことが念頭になさそうな哲学入門は、今時やはりそれだけのものかな。そういう感覚があって、まず伴田氏の一冊を取り上げた。

「哲学をやるにも歴史は大切です」と中岡氏は言うが、その歴史がいわゆる歴史年表上の辻褄合わせ――ヒトラー政権とハイデガー哲学、etc.――では、しょせん旧套哲学史の枠から出ることはできまい。今や、パズル、ゲームと交錯する文化史レベルでの哲学史なり哲学入門が考えられてよい。ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は難解は難解だが、その辺の感覚がとてもポップだった。そこで狂言回しを務めたキャロルが言った「人生そのものがパラドックス」という言葉をキーワードにして進む伴田本には途方もない広がりがある。

実はデュードニーたちが練り上げたパズルは「数学的レクリエーション」と呼ばれ、ルネサンス以来、広く「パラドックス(アンド)・プロブレム」なる一大知的ジャンルに属していたものだが、その辺を一挙に明るみに出したロザリー・コリーやバルトルシャイティスの研究にちゃんと触れながら、「知」全体の中にいわゆる「哲学」を位置づけようとする哲学の人間がなかなか出てこない。ミッシェル・セールの『ライプニッツと数学的モデル』は、バルトルシャイティスの『アナモルフォーズ』をモデルにデカルト時代の哲学史を書き直したものだが、セールその人が旧套哲学においてはみ出し者扱いの現状では、致し方ないわけか。

そういう途方もない開け方からすると、『パラドックスの扉』は、プラトンのイデア哲学から「生の哲学」、オートポイエーシス、環境生命科学、知識社会学へと、まるで月毎で慌しい月刊誌『現代思想』の特集号を十号分、二十号分読んだように「現代思想」と哲学が接する部分についての展開が速く、びっくりさせる割には、あまり開けていない印象だ。しかし、パスカルの「繊細の精神」がデカルトに対峙したあたりから始まる近代哲学史の概要については、出るべき名はきちんと出てくるし、頭でっかちな欧系哲学史にどかんと風穴を開けるプラグマティズムへの共感など、個人的にも著者の頭と感性の爽快味は大いに気に入った。なかなか柔軟なヘーゲリアンである。ロマン派哲学の百科全書趣味も、威圧的なヘーゲルの「多感な二十代の・・・テクスト」をこそ好きで、「30歳のハイデガー」をこそ好む「知と愛」の熱き哲学者というところも、一般啓蒙の「塾」の語り部としては大きな魅力だ。

哲学史を「境界設定」のパラドックス、「知的操作の不可視化」のパラドックス・・・と、次々に「知のパラドックス」の「自己増殖」の歴史として書き直す口語体、フォーラム [広場] の対話体のテキスト。ぼくなども面白くてだいぶ開発した授業語り起こしの形式。読む分には肩こらず幾らでも読める。易しく語っている途中に意地悪な質問がぽんぽん出てくる呼吸が面白く、そして突然難解な専門家口調になって、「この辺で今日は切り上げます、あとは自分でじっくり考えてみてください」で終わるパターン。このいい加減さが、ソクラテス以来、「対話」というこれ以上ないほどパラドキシカルな――絶対を嗤う相対主義的な――議論進行のやり方であることを、知り抜いている著者ならでは、とわかると、全巻一挙納得である。天才的塾生の「ねじくれたプラスティックのハンガーが怖い/正せば壊れる気がして」という秀句ひとつ前にして「知についておしゃべりすればするほど<真理>は遠くなる」と呟く著者の、十分に風の通る頭脳に乾杯。「などといいつつ、このような本を執筆し、公刊することのパラドックスについては今は問うまい」、と。好ましい精神の健全さである。

ちなみに初版1998年。「9・11」前だ。「文明の衝突」の大パラドックス抜きに哲学はもはや語れない。

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