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2008年02月08日

『画文共鳴-『みだれ髪』から『月に吠える』へ』木股知史(岩波書店)

画文共鳴 →bookwebで購入

学と遊びが共鳴するこういう本をエロティックスと呼ぶ

ギリシア神話の記憶の女神ムネモシュネの9人の娘がそれぞれ芸術の9分野を1つずつ担当したことから、例えば詩と絵はシスターアーツ [姉妹芸術] と呼ばれ、もとをただせばムネモシュネなる「集合記憶」に発する同一の「表現衝動」(G・R・ホッケ)、同一の「芸術意思」(A.リーグル)が、たまたま違う表現形式をとったに過ぎない。こういう「精神史としての美術史」 (M.ドボルシャック)と呼ばれるアート観の中心的主題がシスターアーツ論であり、ホラティウスが発祥とされる“ut pictura poesis”[詩ハ絵ノ如クニ] というアプローチである。こういう大掛かりな比較芸術論のバイブルとされるマリオ・プラーツの大著『ムネモシュネ』を拙訳した時、ぼくはさんざん頭をひねって“ut pictura poesis”に「画文一如」という訳語を充てたが、木股知史氏考案の「画文共鳴」の方がアイオロスの琴めいて断然良い。今後は皆、これで訳語統一するように!

ヨーロッパでもプラーツ書より十年以上も早く、Jean H.Hagstrumの“The Sister Arts”(初版1958年)という基本的名著がある。ジャンル区分や超ジャンル論争の主戦場だった18世紀に紙数が費やされているせいもあり、その革命的意義がなかなか理解されない。シスターアーツ論など、たまたまこの詩とこの絵が似ている・似ていないという思いつきの集積で、とても文芸批評の名に値しないという、ルネ・ウェレックとオースティン・ウォーレンの共著『文学の理論』が、ウェレックのビッグネーム故に影響力を発揮して、いまだに詩や小説の「説明」に似たような絵を並べてみせるのは好事家的学者の「趣味」程度にしか見られない。英文学でいえば河村錠一郎、由良君美といった先人たちの敢為がそういう評価で今に至る。ぼく自身その一人と言われてもいて、つまりは文学研究の正統から見ると所詮、邪道外道なのである。そうでないはずということを示したいこともあって、当ブログで、荒木正純氏の芥川論を紹介したり、アメリカ文学に場を借りたマダム入子などの優れた画文共鳴論を続けて取り上げたりした。今後どうなるかというところに、実に見事なシスターアーツ論の大冊が出現。欣快事である。

「1900年代から10年代にかけて」の日本における「文学と美術をつなぐ表現史」を、自ら「開拓的」と号する300余ページの労作がやり抜いた。本当にシスターアーツ論の心得ある人間が日本を相手にするなら、問題になるべきは(1)宝暦・明和の江戸、そして(2)明治四十年前後すなわちこの『画文共鳴』が真芯に捉えた20年ほどのヤマである。画文共鳴の濃密なり切迫において、のんびり古臭い絵巻物など論じている場合ではない。このふたつの時期は、いうまでもなく出版メディアに「大」の付く変革が発生したタイミングである。(1)は錦絵をうみ、源内と応挙をうみ、(2)は木股氏言うところの「装幀や書物の形態、挿画などのイメージ的表現」の実験を許す出版メディアをうんだ。同じ紙葉上に文と絵とを併せ載せるメディアの仔細を巧みに論じさえすれば、ウェレック、ウォーレンのなんとも古臭い「絵と文学は別物」論などあっさり論駁できる。その辺の理論的せめぎ合いを一切知らない風情でいきなり核心をわしづかみする木股式は爽快だ。本書が示す通り、マスメディアの欲望と技術が、共鳴する画文にさらに共鳴した、まさしくそういう時代をバッチリ選び取った直観(プラス研鑽)の勝利だ。

第I部は与謝野鉄幹・晶子夫妻をめぐる動き、第II部は「象徴主義再考」を謳うなら避けられぬ蒲原有明周辺の動き、第III部は「装幀や書物の形態」といった木股氏のいわゆる「画像世界」の創出と言えばこれに尽きる『月に吠える』を舞台にした朔太郎と版画家田中恭吉、恩地孝四郎の深々とした交渉を、それぞれ縷説する。日本近代におけるシスターアーツと言えばロセッティ狂いの蒲原有明ははずせないし、『月に吠える』の画文共鳴ぶりは神話的ですらある。『みだれ髪』については先達芳賀徹氏によるシスターアーツ論の傑作『みだれ髪の系譜-詩と絵の比較文学』があり、「詩は絵の刺戟から生まれたが、その詩は別の絵を生み、その絵はまた詩の別様の解釈をうながす、という詩画間の世紀末的近親相姦」なる、これ以上は無駄というシスターアーツの決定的「定義」さえあった。

目次としては革命的といえるほどのものはない。例えば漱石。木股氏には花のシンボリズムで息が詰まりそうな『それから』について『イメージの図像学-反転する視線』という見事な成果があるのだから、『草枕』ピクチャレスク論、『抗夫』サブライム論など、真にポップな画文共鳴論も、氏ほどの切れ者にはお願いしたい。それから、鏡花の『春昼』になぜ一行の言及もないのかなど、ぼく個人としては、これだけ1900~1920年の画文共鳴をやるなら少しだけ紙葉メディア論から逸れたところも、と求めたくもあった。ま、いずれ。

メディアが繋ぐ詩と絵という視覚については完璧だ。『みだれ髪』が三六変形判だったことの意味とか、石版木版の「版の表現の展開」をめぐる濃密な議論とか、もう一度言うが、長い間シスターアーツ論者を苦しめてきたウェレック、ウォーレンの呪いなど、「詩画集」という絶妙の場で工夫される印刷・出版のメディアの実験をきちんと論じさえすれば、すらすらと解けてしまう。これがおそらく著者が知らぬ間にやりおおせた最大の功績だ。竹久夢二ひとりとっても、夢見の美女を描いた絵師としてでなく、「文字の代りに絵の形式で詩を画いてみたい」という絶妙の台詞を吐くメディア・マンとして登場する。

象徴主義文芸のイメージ分析の最高水準は種村季弘がホッケの『迷宮としての世界』の「姉妹」本と勝手に見立てて訳したハンス・H・ホーフシュテッターの『象徴主義と世紀末芸術』に尽きるが、これを実によく消化した木股氏の、驚くべき資料博捜とバランスする「筆者の推測」がどれも唸る他ないほど面白い。『みだれ髪』の判型が「お経のかたち」に似ていると仰有る。なんだあと思っていると、次のように木股節としか称しようのない見事な修辞の寝技に持ち込まれてしまうのだ。

 ところで『みだれ髪』には、次のような歌が収められている。

 笛の音に法華経うつす手をとどめひそめし眉よまだうらわかき
 うら若き僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ

 青年僧は、仏道に帰依し、道を志す修業者であるが、経をくずす「ふり袖」や、写経の手をとめる「笛の音」は、彼を誘惑する記号として表現されている。道成寺伝承に代表されるように、修行に励む青年僧と誘惑する女人という組合せは、物語の発想の基本形の一つだと言ってもよいだろう。青年僧は、誘惑を拒み、「ふり袖」や「笛の音」が暗示する女人の影は、その拒絶を突き崩そうとする。

なるほど。しかし素晴らしいのはここから。

女性の官能の勝利を肯定的に高らかにうたう『みだれ髪』が、お経と同じかたちをしているとすれば、それはとてもアイロニカルな発想だと思う。なぜなら、誘惑者(歌集『みだれ髪』)と、それを拒むもの(経典)が、同じかたちとして表現されているからである。

ううむ、ううむ。こういう批評的エロスいっぱいの一冊。大好きだ。

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