• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2008年01月18日

『知の版図-知識の枠組みと英米文学』鷲津浩子、宮本陽一郎[編] (悠書館)

知の版図 →bookwebで購入

ルース・ベネディクトの『菊と刀』に心底恐怖した

なにしろ凄いタイトル。魅惑そのもののタイトルの一冊。荒木正純氏経由、同じく悠書館ということで続けて読んでみた。編者の一人、鷲津浩子氏は、アメリカ文学をやる人たちに一番欠けている認識論的知――エピステモロジー――のアメリカ知性史というべきものを今のところちゃんとやれそうな稀有の才として、ぼくなどがその異風作『時の娘たち』を愛読している相手なので、これは見落とすわけにいかない。想像通り、筑波大学系の人脈が核なので、批評理論のメッカを自称する読み手集団の実力の現状を見、場合によってはぼく自身の長年の筑波嫌いを改める機縁にもなるかと期待して読み始める。

この種の論集・論叢が増えた。いわゆる大学改革の中で研究業績が評価基準としてますます重要になり始めたこと、暇なくなかなか煮詰まらなくても短めの分量で「進行中の大仕事」のワンステップでございますという形で免罪符をいただけそうなこと、みんなで渡ればこわくないという集団依存の心理、いろいろある。

もちろん、成功作も多い。高知尾仁編の『表象としての旅』のように、当該テーマの多面性を遺漏なく多面として捉え、編者差配の最強メンバーに寄稿依頼して、個人単著にはあり得ぬパースペクティブを獲得したものもあるし、同じことをなお壮大なスケールで続ける慶應義塾大学出版局「身体医文化論」シリーズ(〈1〉〈2〉〈3〉〈4〉)などは驚異の充実ぶりだ。人文書院に編集者松井純氏がいた時の『文化解体の想像力』『カラヴァッジョ鑑』2点は批評アンソロジーの極致を極め、執筆寄稿に加われなかったことが恨みとさえ思えた大傑作だ。

要するに編者のイニシアティブの一点にかかる。テーマから大きく逸脱したものについてはいっそ落とすかという(難しい!?)決断まで含めて。あるいは原稿を依頼する時の編者もしくは編集者のパースペクティブの強固、そして各メンバーに対するその説明。平凡社がかつて『ヴァ-ルブルク学派』とか『エラノスへの招待』といった名論叢をうみだしたのは二宮隆洋氏のそうしたイニシアティブによるものだった。読者まかせという遊びの部分が極力少ないのである。遊びそのものは悪いとも言い切れないが、論叢の場合、それはイニシアティブを欠く拡散でしかない。逆に例えば特集雑誌をも歴たる論叢にしおおせる例としては、石原千秋・小森陽一郎両氏が動かした「漱石研究」(翰林書房)や、篠原進氏が見上げた覇気で身銭を切る「西鶴と浮世草子研究」(笠間書院)その他をあげる迄もない。

で、本書あとがきを見て、編集方針を知ろうとする。機器やネットといった道具、インフラが時代の知の内容そのものを変える、とある。かつて一人の著者単独の叢績にエンゲルハルト・ヴァイグルの『近代の小道具たち』という名名名作があって、月刊「現代思想」連載中からめったにないはまり方をし、青土社から単行本化されたその日に一冊購った記憶がある。避雷針といった「小道具」十ほどを通して、文化史の秀才、シヴェルブシュやロザリンド・ウィリアムズでも一冊費やしそうな内容を一章ずつに封じこめた偉大な作品だったが、それほどの評価は受けなかった。少し早過ぎた本である。

今ならばという期待を抱いて本書を頭から読み始めると、さすがに編者あとがきを記した鷲津氏の『白鯨』論は、19世紀半ばの「船舶の位置確定」の水準と、エイハブ船長の船がその水準からどんどん遠ざかっていくように見えるところに秘められた作者の反時代的意図を追う中に、航海機器の精度に仮託された知と無(反)知の問題が浮かび上がる。

茫漠として人跡未踏の世界における知は地理から当然歴史の問題に移る、そこのところは山口善成「旅する歴史家」論文がアメリカ中を旅しながら「記憶」なき地にそれを創出していった歴史家フランシス・パークマンの鴻業を紹介して、注で明示されているようにサイモン・シャーマの名作『風景と記憶』が穴として残した部分を補って貴重。「旅する知識」による領略といえば必ず想起される「オレゴン街道」。オレゴン街道といえば必ず出てくるパークマンのことを、シャーマは怪物的大著中、僅か3行しか書けていない。訳者としてこれって何だと思っていたところへの山口氏の善戦、サンキューである。

二作とも結論は今や何だか予定調和だが、<知の版図>に即した誠実な作として楽しめた。しかし、イーハブ・ハッサン氏の地図論は全然いただけない。講演されなかった講演原稿の訳という不利はあるにしろ、例えばヒリス・ミラーの“Topographies”(邦訳『批評の地勢図』)とか、地理や地勢をめぐる文化史のこのところの進歩ぶりを考えると、何とぼけた牧歌調かと思ったし、真打ち荒木正純氏の「ジョイス<レースの後で>の交通表象」は死にそうに細かいテキスト読みをじっと我慢してついていっても、それが<知>の大きな問題の何かに巧く接続していかず、“car”を馬車、自動車いずれととるかという翻訳者のつらい「知」の現場に同情するところで終わってしまう。これはきっとぼくの頭が少し悪いせいかもしれないが、章立ての順番を考えた方が良かった。

アメリカ通でもなくアメリカを越えた<知>の問題を考えるなら、第I部「旅する知識」より断然、第II部「制度としての枠組み」である。個人的には、アメリカ哲学協会と祖型たる英国ロイヤル・ソサエティの関係に見るパラドックス(「起源への過剰な配慮」)を論じる佐藤憲一「起源付きのアメリカ」は、御本家のことばかりやってその系について完全に無知だった自分自身の虚を突かれて有難かったが、白眉は編者、宮本陽一郎氏のタイトルからして嬉しい「大学と諜報」の全35ページ。ひいっ、と息詰めて読んだ。

巽、越川、宮本という俗っぽい括り方の「アメ文三羽ガラス」のイメージ。父君陽吉氏にはアップダイクやセルビーの読み方を教わったが、軽妙な喋りに洒落たズボン吊り姿が印象的。というようなことがいろいろあり呑気な秀才一族と思っていた自分の軽率を、思いきり恥じた。「私の祖父である画家宮本三郎は戦時中に『山下・パーシヴァル両司令官会見図』を始めとするいわゆる戦争記録画を制作し、戦時中の名声と戦後から見た汚点を残している」という一文を初速の動因としている論文、一体どういう風に転んでいくのか、息を詰めてページを繰る他ない。この「従軍画家の遺族」の一人たる宮本陽一郎氏は「アメリカ軍による戦争記録画の接収が異様に早い段階で始まっていること」を訝しみ、調べ始める。そして現下のイラク戦争下、ブッシュ大統領がイラクの「民主化」がいかに可能かを説くのに太平洋戦争後の日本の民主化の成功を例に引いたという事件を糸口として、本論の実にスリリング、かつ今日本において「知」に関わる全ての人間が頭に入れておくべき秘められた学問史の一局面が、少しずつあぶりだされていく。第二次世界大戦中の二つの米国政府情報機関、OSS(Office of Strategic Services、戦略情報局)とOWI(Office of War Information、戦時情報局)がアメリカの学問界の最優秀部分をいかに壮大な規模で糾合し、重要部門として利用し尽くしたかという報告。

山本五十六はじめ海軍を中心とするアメリカ留学組は米国の軍事力を知っていたがため開戦に反対し続けたものの陸軍に押し切られた、という話は有名だが、日本人の習慣からメンタリティまで学者集団が日本映画その他の材料を文字通り人文・社会諸学の学際的アプローチによって分析し、これを前線でフルに活用していく様子を、もし日本の学者たちが知っていたら、日本の学界また開戦に反対しただろうと想像させる。日本人のメンタリティ研究として誰もが知るルース・ベネディクトの『菊と刀』も、まさしくこうした動きの中でできた成果だった。グレゴリー・ベイトソン、エルヴィン・シュレーディンガー、ジークフリート・クラカウアー、フランツ・ノイマン・・・と錚々たる協力学者の名が出てくる毎に、エラノス会議やヴァールブルク研究所といった20世紀の知的コロニー史がそっくり反転したネガと見えてくるように思うのは、ぼくだけだろうか。アインシュタインが原爆で日本をねじり伏せる結果になったように、「日独伊のみならず地球上のあらゆる地域に関して、情報をデータベース化して、必要があればいつでも軍事外交において利用可能な状態を作るというメガロマニア」もまた日本をねじり伏せた。それのみか天皇制存続をうち出し、「教育制度にまで遡って日本を逆洗脳し戦前を消去するという発想」までうんだ。いま現在の我々日本人の腑抜けぶりは、これら「ニューディーラーであると同時に冷戦戦士」たちの引いた青写真なのだ、と宮本氏は言う。

およそ65年前にすでにアメリカ合衆国の学者たちによって織り紡がれていた。オイディプスのように、あるいはピンチョンのエディパのように、私たちは決して知ることのできない起源――私たちの知識の枠組みそのものの起源――を探究していくという宿命を免れない。(p.212)

これが編者あとがきであったら、どんなに怖い一冊であったかと思う。現下叫ばれている産学官協同路線にしろ、あるいは「学際」にしろ、出自がいかに生臭いものであるか、ほとんど初めて知らされて思いきり考え込んだ。人文学が役に立ったんだ!そしてそれはとても剣呑なことだったんだ!

「役に立たない」人文でいいんだ、とさえ思う。第III部「エピステーメとしての<アメリカ>」のアメリカ音楽、女性差別告発、日系三世詩人の詩と知をめぐる三篇がいかにも平和な時代の人文学に見えてくる。一篇一篇は新発見あり、誠実な正義感ありの力作なのだが、今に関わる日米の「知の版図」として宮本論文が指し示したものの後では牧歌的。前に紹介した圓月勝博氏もいかにも秀才らしいキャラクター論を寄せているが、この本の中では浮いてしまう。「知」とは何か、きつく問う一冊とはなった。

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