• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

    つづきを読む
  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

    つづきを読む
  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
    盛況のうちに終了しました。 講演レポートはこちらから-->

« 『南総里見八犬伝 名場面集』湯浅佳子(三弥井古典文庫) | メイン | 『綺想の表象学-エンブレムへの招待』伊藤博明(ありな書房) »

2007年12月28日

『クロモフォビア-色彩をめぐる思索と冒険』 デイヴィッド・バチェラー[著] 田中裕介[訳] (青土社)

クロモフォビア →bookwebで購入

ロラン・バルトもバフチンもいろいろ

そうだなあ、詩人の平出隆さんとか写真家でキュレーターの港千尋さんあたり、色について書くとこうなるかな、というエッセー。お二人は偶然多摩美の同僚ということだが、「感性」ばかりか相当な「知識」もおありだ。この『クロモフォビア』はまさしくそういう本である。読み易いし、第一、小体(こてい)に見える本だから、肩に力を入れず気楽に読めばと勧めながら、「色彩が西洋文化の運命と一体」(p.27)とか、「色彩の物語には、たいてい何かしら黙示録的なものがひそむ」(p.72)といった基本的認識が決してぶれない壮大な文化論であることに、読後、改めて驚いている。

色を憎んだプラトニズムの長い伝統に、1660年代、ニュートン他の虹とスペクトルの光学が時代の<表象>革命に大いなる力を与えながら、「和音」好きのニュートンが複雑多彩の色世界を結局7色に整理してしまうことで、勢いを得た「他者」抑圧の伝統(つまり近代)が加わったが、1960年代、ウォーホルやイヴ・クライン、フランク・ステラらの全く別の色彩観によって完全に覆滅させられるのみか、あっさり二千色をうみだせる「色彩のデジタル化」によって、言語からの色彩の解放はなお進行中である、とする。

大枠から見れば、ワイリー・サイファーの『文学とテクノロジー』などに近く、ある意味「他者性の回復」をテーマにした予定調和本なのだが、考えてみると、色彩については従来、色<対>線ないし色彩<対>構図という二項対立の中でのみ思考され、色彩が「きわめて特異な他者」であったし今もあるという大きな枠組みでの議論は、この本が最初である。

日中の生活でも夜中の夢でも、私たちは色彩に刺し貫かれている。単に色彩に取り巻かれているのではない。私たちが色彩そのものなのだ。(p.100)

「色彩そのもの」であるはずの我々は、文字すなわち線と化して、色彩としての自らを落(堕)ちた部分、堕落した半分として切り捨て、その切り捨てられた部分は「他者」として「女性、東洋、化粧、幼児、野人、麻酔」といったものと重ねられてきた。というので、順次、女性として、東洋として、化粧として憧憬されつつ軽蔑されてきた色の世界が論じられていく。アンリ・ミショーのメスカリン、ハクスレーのペヨーテは猛烈に多色な幻視をもたらしたが、「麻酔」というのはそのことを指す。「色彩という麻薬」なのだし、エイズで死んだデレク・ジャーマンの見事な一文が引かれているが、「色彩はクイア」なのである。いま現在のポストモダンの批評風土に至る色彩の「黙示録」が、カラーが「隠す」を意味する「コロレム」という語に発し、ファルマコン(癒し)でもあったという古代から蜿蜒と語り起こされる。

小さい大著だが、兎角スタイルが良い。

 芸術についての本を書くことになると私は思っていたが、それは単にこれまで私の書いたものの大半が芸術についてのものであり、色彩についての本では芸術について言うべきことがたくさんあろうと思われたということにすぎない。そうはならなかった。書き進めるにつれて、芸術はどんどん遠ざかった。芸術理論と少なくとも同程度には、文学、哲学、科学に言及し、また絵画や彫刻以上に映画、建築、広告について言葉を費やした。これは充分に正当なことである。色彩は学際的なのだ。他で何かを「学際的」という言葉であしらうのには私は違和感を覚える。私は色彩の異様さを守りたい。その他者性には重みがあり、他者性の商品化には結びつかない。学際的なものが毒抜きされた反学問的なものであることも多い。色彩は反学問そのものである。(p.140)

結構だ。色彩論としても、(白というその名からしてぴったりな)シャルル・ブランという理論家の『デッサン技術の法則』(1867)を手掛かりにしただけでも貴重だし、ユイスマンスの退嬰小説『さかしま』にも、ル・コルビュジエの建築にも、「色」から見た全く意表つく別の文脈が与えられていく。ロラン・バルト、ミハイル・バフチンといった互いになかなかつながりそうにない現代批評の最重要人物たちの仕事が「色」をめぐって見事につながっていくのには目を瞠るばかりだ。バフチンの紹介者でもあったジュリア・クリスティヴァがキーになっているのは、彼女が「東洋」の「女性」であるからだ、とかとか、現代批評そのものが「色」というテーマで逆にぴたりと整理されていくのが絶妙。ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』(1987)からなんと『オズの魔法使い』(1939)へ遡及する映像史中の色の議論もよくできている。

リチャード・クラインの『煙草は崇高である』以来の、成功した現代批評の実践本として珍重したい。前に取り上げたトム・ルッツの『働かない』にも通じる批評の達芸。

さらに「色」気が加わっているのは無論のこと。訳者は「高山宏」の仕事を「色」でまとめる面白い感覚の人らしく、訳文も洒脱。いかにもReaktion Booksの本らしい名作である。

→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/2447