• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
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2007年12月04日

『秘密の動物誌』 ジョアン・フォンクベルタ、ペレ・フォルミゲーラ[著] 荒俣宏[監修] 管啓次郎[訳] (ちくま学芸文庫)

秘密の動物誌 →bookwebで購入

ホモ・フォトグラフィクムが一番性悪だった

いわゆる奇書である。二人のスペイン人写真家が1980年、取材で赴いたスコットランドの小さな村でペーター・アーマイゼンハウフェンという動物学者が遺した古い木製の棚を発見する。「剥製標本、地図、デッサン、写真、記録カード、X線写真その他の雑多な品物」を収めたその棚は、要するにポストモダンに蘇った「ヴンダーカンマー」である。家の持ち主の縁者に邪魔もの扱いされたそのキャビネに大いなる霊感を得た二人はそっくり譲り受けるが、そこには現在まで知られている動物のいずれとも違う奇妙奇天烈な動物たちのキングダムが、写真と「フィールドでのデッサン」を通して、確かな「存在」を主張していた。それが「<実在するもの>は、存在しうるものの小さな一部分にすぎない」というバルセロナ国立自然史博物館館長ペレ・アルベルクの言葉がエピグラフ<題辞>になっていることの意味である。

ちょうど20の「新種」が紹介される。ソレノグリファ・ポリポディーダは、この文庫本邦訳版の表紙に選ばれた脚をたくさん持つ蛇で、「爬虫類と飛べない鳥類との混合形態」と、その“description”[動植物の新種登録時の記載事項。「描写」ではない] にあり、タクソノミカル [分類学的] には脊索動物門・脊椎動物亜門・爬虫類、和名はダソククサリヘビ。表紙に掲載された写真は「攻撃直前の体勢」というキャプションの付いた一枚。影までちゃんと写っていてリアルな反面、12本の脚を妙にきちんと揃えたえらく真っ直ぐな姿は妙に変でマガイっぽい。そういえば20世紀最大のフェイク写真だったネス湖のネッシーに似た感じがある。和名の方だって「ヘビ」のくせにわざわざ「ダソク」なんて、「蛇足」でシャレ言ってんのか。

という具合で、もとのスペイン語原書の20種に日本語版でさらに3種が加わった23種の動物は、そのなかなか説得力あるヴィジュアルな「証拠」を通して、真実とは何、存在する/存在しないとは何、専ら存在するものを相手に真を語ってきた科学とは何、そして科学的真理を真理一般のひな型として妄信してきた我々の存在と非在をめぐる感覚そのものを問う。狙いは難しいが、やり方としては誰にでも一番わかり易い、愉快この上ないメタフィクション。実は大きな文化史的問題をいっぱい抱えたジョークブックである。「蛇足」と卑下した表象論の傑作だ。

バルセロナ生まれの写真家コンビは11年かけてこの本を出した。1991年刊。あのグリーンブラットの、「驚異」のマニエリスム美学が周縁に対する中心のいかなるコロニアリズムのアリバイであったかを指弾した“Marvelous Possessions : The Wonder of the New World”(1991;Hardcover1992;Paperback/邦訳『驚異と占有』)と同じ年である。自然(ここでは動物界)をポゼス(略取)する文化を、洒落な写真家コンビは、しかつめらしいカルチュラル・スタディを介せず、いきなりこみあげてくる笑いでやる。

生息地、捕獲年月日、全般的特徴、形態、習性の順にディスクリプションが典型的な記述で綴られる。問題の蛇足なヘビで言えば、その「全般的特徴」は「骨性の内骨格。肺呼吸。脊椎動物固有の神経系が見られる。生殖系を確認することはできなかったが、あらゆる点から見て卵生有性生殖・・・」といったスタイルで書かれていく。いくのだが、途中に、食べる相手に消化液をかけて相手が融けていく間に「特徴的な<グロブ・ト>という鳴き声を3拍:休止:1拍のリズムで声高に発しながら」相手の周囲をぐるぐる回るとか、そんな奴いねえよ、と言いたくなる珍妙な記述が挿まれる。ニセワルモノモリウサギの和名通り牙を持つウサギ、ペロスムス・プセウドスケルスは「毎日30回交尾するが、交尾に際して雄は奇妙な憂愁をただよわせたメロディーのある歌をうたう」んだと。カタルーニャヒクイオオトカゲなる和名のピロファグス・カタラナエは口から火を吐き出すのだが、「口から吐き出す火の大部分は、自分が息を吸いこむたびにふたたび飲みこまねばならず」これが自分でも「不快らしく」、また火事にならぬよう消火に便利な水際を好む。真面目なディスクリプションのどこかに必ずニ、三行挿まれる、どこか愚かなホモ・サピエンスの営みを思いださせる逸脱部分がおかしくてたまらない。

このピロファグス・カタラナエが火を吐く現場写真が一枚、「消火に努める」お笑い写真が一枚、掲載されている。バカバカしいと思っても写真があるとまず信じてしまう(この場合なら、その後に笑ってしまう)我々のメディア的惰性が笑われていることになる。「存在するとは写真にうつるということである」というボルヘスの言葉がこの本の出発点だと書かれているが、二人の写真家のウィットからこの本がうまれた意味はひとえにそこにある。アーマイゼンハウフェン博士の突然の失踪ということもあり、キャビネの資料はかなり不完全で、ディスクリプションが全然ないのに写真やデッサンがあったりする。どういう相手か知りたいが言葉とヴィジュアルのどちらを欠いても何か物足りない、と感じさせられる時、我々は「言葉と物」(M.フーコー)、言語中心主義と視覚中心主義の均衡や緊張の問題に見事に絡めとられており、この本が1980年代に形づくられて1991年に出た理由がよくわかる。上述のグリーンブラットもそうだし、例えばバーバラ・スタフォードの仕事(“Voyage into Substance” 1984/『実体への旅』として拙訳進行中)と雁行し、我々が既に読み知っているところで言えば、ローレンス・ウェシュラーの『ウィルソン氏の驚異の陳列室』とのあまりの相似形ぶりに驚くはずである。なんだか馴染み深い世界だ。

写真や絵を見てフウンこういうものかと思う相手に名がつくと、ミコストリウム・ウルガリス、アナレプス・コミスケオス、ポリキペス・ギガンティス、ヘルマフロタウルス・アウトシタリウス・・・と舌を噛みそうな言語表象の一大迷宮である。エドワード・リアが『ナンセンス博物学』(“Nonsense Botany”)で嗤いのめしたこの世界は、1750年代にかのリンネが発明したニ名法に基づいて学名が設定される世界である。その1750年代初めに大英博物館法ができ、つまりはヴンダーカンマーのマニエリスム文化が終わった。そこからはじっくり時間をかけて自然界万般への「略取」が始まった。動物園や植物園の歴史、ぼくがこれからしばらく付き合おうと思うミュージアム一般の歴史を見、図鑑の文化史、ペット狂いの歴史を見れば一目瞭然だ。名作『見るということ』において激しい動物園批判をしたジョン・バージャーは『イメージ』中にキャプションの付かぬ写真だけの章を構えて読者を揺さぶったが、彼のこの二つの仕事をそっくり一冊でやり遂げた『秘密の動物誌』を読むことで、その意味が改めてよくわかった。この本は一方でウェシュラーに、もう一方でジョン・バージャーに非常に近いところにある。

いわゆる偽書である(かどうかは貴方の受け取り方次第だ)。動物を離れたところではロミの『突飛なるものの歴史』に似ているし、なぜか同じくドイツ系の博物学者を著者に擬した(天才伴田良輔氏の)『女の都』に極めて近い。いきなり擬書・偽書と知れてしまうが、動員されるメタフィクティヴなニセ写真の類の面白さを楽しむことができる。

言葉のいい加減さを悪く言いながら、言葉のないヴィジュアルだけのケースでも我々がいかに不安になるか、いくつかの動物の項でわかる。エレファス・フルゲンスなんて、写っているのはどう見てもただの象なのに、本が本だから何かきっと変な動物だと思いたがってしまう我々。リアのナンセンス博物学を相手にした時と同じで、ただアハアハとだまされ読みでも全然かまわないのかもしれないが、やはり著者がウィッティなフォトグラファーである点にこの本の究極の意味があると、もう一度繰り返しておこう。例えば心霊写真がそうだが、相手の存在、不在と重なるように、ないものを<視>を介して存在せしめるメディア(巫女/媒体)の策略の方が気掛かりになってくるのである。

どこまでがフェイクなのか段々わからなくなる。二人のスペイン人はそもそも実在するのか、ボルヘスは本当に如上の名文句を吐いたことがあるのか、これひょっとしてアラマタールム・ヒロショールムの脳髄の産物ではないのか。確かだと自信を持って言えるのは、「原著者」二人による巻末の「製作ノート」に示された

<リアリズム>ならびに<写真イメージの信憑性>だけではなく、さらには<科学的言説>ならびに<あらゆる認識形成メカニズムに潜む技術や策略>までをも考え直してみよう

という真っ当な提案は見事に伝わってくる、ということだ。

ケンタウルス・ネアンデルタレンシス。半猿半馬の怪獣の誇り高い雰囲気を伝えるニセ写真は遠くへヒトが捨て去ってきた気高さを伝えて、個人的にはこの数頁だけで一冊買う。

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