• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2007年11月27日

『わたくし率 イン 歯ー、または世界』川上未映子(講談社)/『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』川上未映子(ヒヨコ舎)

わたくし率 イン 歯ー、または世界
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そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります
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関西弁のマニエリスムかて、や、めっさ、ええやん

ぱらっとめくったページにいきなり、

それまでの季節を洗濯機に入れたのは二十歳のこと。それをきしめんにして、きざんで乳液にまぶす。で、君の粒だった背中を保湿したのもいつかの荒れ狂う最大の四月のことであった。

という文章があっては、取り上げる他ない。むろんT.S.エリオットの「残酷な四月」を知っていればの話でもあるが、この散文は完全に詩である。ランボーの「季節」(おお季節よ、おお城よ)と洗濯機との、きしめんとの無体な組み合わせは詩というものの機能をさえ定義している。このイメージの疾走は何なのかと思うと、「イメージが結ぶ早口で興奮してゆく物語が何十万回目の腹式呼吸を追い越してゆくのを」掴まえられない自分とあって、そのわけは「そいつの首ねっこを壁にぶち抜いて留める削ったばっかしのとっきんとっきんの鉛筆を持っていなかったからなのでした」。こういう感覚の人が鉛筆を「とっきんし忘れる」ことなく「物語」を「掴まえ」たらどうなるか、見られるものなら見たい。

それがミュージシャン川上未映子初の小説『わたくし率 イン 歯ー、または世界』である。2007年5月、「早稲文」こと伝統ある『早稲田文學』誌に掲載。断然異彩を放っていると見ていると、もう一篇と併せて同名で単行本化され、芥川賞にノミネートされた。そして、今年創設された坪内逍遥大賞で奨励賞を受賞した(大賞は村上春樹氏)。

身体という表の部分に担われる「わたし」、意識という中心なる「私」、そのふたつが巧い具合に混ざり合った、いわばあるべき「わたくし」の関係を問う。そしてそうした自分なる何かが養老唯脳論の言うように「脳」にあるのではなくて「歯」にある、自分は歯であるとすることで、世界を、関係を、意識を、愛を、歯と歯医者のメタファーで徹底して語り抜く大変カーニヴァレスクな奇想小説が綴られ始める。奥歯を見せ合う約束としての愛だの、口の中の口としての歯科治療室だの、感覚的でもあり、しかし実によく計算されたアナロジーの追求などは、もはやネオ・マニエリスム小説の名を献呈してもよい。フィリップ・ロスの『乳房になった男』とか松浦理英子の『親指Pの修業時代』(〈上〉〈下〉)でもよろしいが、身体部位とマクロな大世界との関係や照応で楽しませる奇想小説の、また一段と笑わせてくれる傑作を、ここにぼくたちは恵まれた。

ブッデンブローク家神話はじめトマス・マン文学の歯大好きぶりは名高いし、『グレート・ギャツビー』では奥歯をお守りにしているギャングを登場させたり、いろいろあるが、面白いことに歯狂いは断然1960年代対抗文化である。ギュンター・グラス『局部麻酔をかけられて』(1969)はどうか。アップダイクの『カップルズ』だの、ヴォネガットの『母なる夜』だの、すぐ思い出せる。ピンチョンの『V.』(〈上〉〈下〉)中の歯科医アイゲンバリューは、歯はイド、それを覆うエナメル質こそ超自我という妙にフロイト的な理屈を唱え、現に歯こそ持ち主の精神の指標と称して、精神分析ならぬ精歯分析(psychodontia)という理論を築こうとした。この辺になるとだいぶ川上未映子の世界に近付くが、ご本人に尋ねても当然知らなかった。歯に対する人間の応接の「観念史」などろくに存在しないが、奇想の系譜がないではない。日常化せるマニエリスムとでもいうべき自由な感覚で川上未映子の方がこういう奇想の系譜を自らの方に引き寄せているのが面白いし、すがすがしい。

身と心の二元論、また、その中間にあって身でも心でもあるいわゆるソマティックス(somatics)の領域にずっぽりの物語は、想像通り埴谷雄高の熱烈ファンの手で書かれた。養老孟司の愛読者でもあるらしい。というようなことを教えてくれるのが、2003年8月から2006年8月まで3年間のブログ日記を2006年末ぎりぎりに単行本化した『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』である。埴谷のハードと武田百合子『日日雑記』をトイレの中でまで読む作者は、意識の激しさと身体の愚直の間で巧みなバランスをとる人種だ。「逆も可、人生は両極を往き来するなんかの玉」など簡単にアフォリズムにされると、おじさん唸るよりない。読者のどなたかが「これはおじさんに愛される世界。今どきの若い人には一寸ね」と仰有っているのを小耳に挟んだのだが、確かに、確かに。例えば次の日記のくだり。

鳩よ、おはようカラスよ、おはよう。名前も知らんなんか茶色くてときどき見かける焼きおにぎりみたいな鳥よ、おはよう。工事現場のおっちゃんよ、おはよう。コンビニのやる気微塵も伝わらんちょっと栗毛で天パの兄ちゃんよ、おはよう。中也よ、おはよう、かの子よ、おはよう、ホッケよ、おはよう、おはよう。横光と森茉莉よ、おはよう。あなたがたは一生懸命書いた己の文章が没後このように東京の片隅の、ほんとの片隅の本棚で、なんのアレもなく半永久的に隣り合わせに棲息していることを、ま、知る由もないわよ。(2005年7月13日「絶唱体質女子で!」)

売れないヴォーカリストが人に言われて書いてみたら、こんな賞をいただいて、何も知らないし一所懸命頑張りますと、授賞式で挨拶していたが、冗談じゃない。「でかい」頭に猛烈なストックを「すこんと入」れていることははっきりしている。あまり「頑張」らないで、今のまま少し行ってみてくれ、と祈る。

この日記は相当面白い。結果的に随想集の体裁となり、現代の徒然草だ。「この恣意に始まって恣意に終わっていく人生」の中で一人のフツーの人間として精一杯生きていくあきらめ(明らかに究める、がその元の意味ではないんかしら、とぼくもついカワカミ調になってくる)と日々のひたすらさが良い。散文で終わる日もあれば、詩一篇の日もある。まるで一篇の短篇がすこんと入っている一日もある(玩具「シルバニアファミリー」の部品を買いに幼い姉妹で出掛けたのにおしっこを漏らした妹のために姉が持金全部使ってパンツを買ってしまう「キャロルとナンシー」など、笑い泣きして浄められずに済むか)。俳文の体言止めで終わる日のものは余韻を引く。アフォリズムはさらりと読めば良し、こだわるとどれも深い。

昔を思ってみいや。吐き気がするほど楽しいではないか。楽ではないか。生きているではないか。昔も一応、生きてたけども。(2004年12月22日午前4時)。

ミュージシャン「未映子」がスタジオ録音を進行し、サボテンを愛で、知人のパフォーマンスを見歩く日常が流れていく時間を、こうした日常雑感を深めたり深めなかったりするエッセーが断ち切る、つうか、ごちゃごちゃ混ぜこぜになる。ジャンル的にいえばこうして書きつがれる言語のレベルでも身体性がことほがれるのであろう。

今はやりだから少し大袈裟にいえば、ドストエフスキーの『作家の日記』のミニ版という味のエッセー集。

そしてそれに具体の人物を配して物語として動かしたのが問題の歯の小説と、「奨励」された以上、息詰まる期待感にもひしがれず身体を通しての関係観主題を、さらに一段グロく切なく書きついだ第二作「乳と卵」(『文學界』2007年12月号。すぐ書店へ行くべし、べしっ!)である。挿入される日記と物語本体の関係とか意識的にさぐられる方法への、「自同律の不快」を病む脳や意識へのマニエリストとしての引っ掛りを、「繋がり」や「結ぼれ」にすがる当り前の人間の当り前の体と日常が支える、や、包みとるこのなんかアレなバランスがこの今やハッキリ暫らく見なかった天才の本来の持ち味である。埴谷調のいわゆる形而上学的な議論を運ぶ大阪弁(河内弁)が、こういうカーニヴァレスクな「軽み」に、絶妙に力を与えている。

ぼくは他の選考委員に兎角「声に出して読め」と主張した。歯をテーマにする以上「口」の意味論も相当面白く深められる。口に器具の入る歯科はいきなりエロティックでもあれば、食物を言葉にしてフィードバックする大層文化的な場でも「口」はある。大阪はここでは食とお喋りが融通する「口」のメタファーなのである。歯科の治療室が大きな口に、大きな舌に感じられてきて、口の中の口という「入れ子」が想定されるが、それがメタフィクションの喩でもあると気付かない「おぼこな」新人作家の「ふり」が飽きずオモロイっ。それにしてもマニエリスムの詩性に弱いぼくなどは、あちこちにナニゲに散らされた「言葉にすると『象』もこんなに小さくなるのだね」「裏腹という素敵を垣間見る、いいね日本語文化」といった一行二行に串刺しにされるのだ。意識と身体が哲学し合う世界には「梱包された荷物みたいにどしんと夜が来る」。そこでは「向日葵は 夏の口/薔薇は四月の眼/お母さんは やさしかったなあ」。

ぼくは「三枝子」のお母さんの「トシエ」への、どこにもはっきりしている深い思いを、ひたすら愛する。大間抜けなマニエリストには奇跡の愛。「どうも奇跡、やあ奇跡」。

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