• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

    つづきを読む
  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

    つづきを読む
  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
    盛況のうちに終了しました。 講演レポートはこちらから-->

« 10+1 series 『Readings:1 建築の書物 都市の書物』 五十嵐太郎[編] (INAX出版) | メイン | 『綺想迷画大全』中野美代子(飛鳥新社) »

2007年11月09日

『歪んだ建築空間-現代文化と不安の表象』 アンソニー・ヴィドラー[著] 中村敏男[訳] (青土社)

歪んだ建築空間 →bookwebで購入

空間はどきどきしている/風船だ、と歌う大理論書だ

先回紹介の『建築の書物 都市の書物』に取り上げられた、現代文化における建築および建築学の位置を知る上で必須の100冊の中で、とりわけ読者に直接手にとってみたいと思わせたに違いないのが、アンソニー・ヴィドラー(1941- )の『不気味な建築』(原題 “The Architectural Uncanny : Essays in the Modern Unhomely”、MIT Press)である。別の本の解説のあちこちに参照対象として顔を出すので、どうやらガチガチの建築論とは少し手並みが違うらしいが何もの?と思う。

ポイントは、フロイト以下の心理学、いわゆる精神分析学が成立した19世紀末ぎりぎりの時期から1930年代ハイ・モダニズムにかけての約半世紀に、モダニズム観念をめぐって建築学そのものが成立したことにある。これは偶然ではないとして、「建築心理学」なる面白いジャンルに分類されそうなこの名著は書かれた。

フロイトの論文『不気味なもの』(1919)は、この十年ほど人文学畑でたぶん一番読まれたものではなかろうか。英語では、というかヴィドラーの英語原書では“the Uncanny”という語が充てられる「不気味なもの」のフロイトによるドイツ語原語は“das Unheimliche”で、日本語化された「ハイム」ですぐ見当がつくように「家でない」「家らしくない」、ひいては「くつろげない」という意味の語だからして、家屋論・建築論、さらに風景論・環境論・都市論に横すべりしていかないわけがない。今考えてみると気の利いた人間ならすぐにでも着手しそうなアイディアだが、実にヴィドラーの『不気味な建築』出現まで、建築に潜む疎外や恐怖、不安を論じ切ったものはなかったから、建築好きの人文学の徒はなべて、即とびついたものである。その続篇が『歪んだ建築空間』(原題 “Warped Space : Art, Architecture, and Anxiety in Modern Culture”、同じくMIT Press)で、訳者後書きによると、二冊一緒になった形で出してもよかったとヴィドラー自身語ったそうだ。今回、この続篇を取り上げる。

「歪んだ」に当たる原語は“warped”で、襞(ひだ)になった、褶曲したという意味らしいから、当然ドゥルーズとガタリの思想、殊にドゥルーズの『襞』がフロイトとともに一方の拠りどころになっていることが予想されるが、実際その通りで、バロックを二階建ての館に喩えたこのドゥルーズの記念碑的バロキスム論を建築畑の人間はこう読む、ということが実によくわかる「スキン・アンド・ボーンズ」という一文など、今のところ最高の『襞』論になっている。

全体は2部構成になっていて、第1部は、19世紀末に爆発したさまざまな恐怖症――フォボフォビア(phobophobia [恐怖恐怖症])なんてものまでうみだすほどの盛況ぶり――が公共の建築空間における建設ラッシュと重なるのがいかに偶然などではなかったか、フロイトの心理学と、それを取り込んで美術史・建築史を記述する基本コンセプトとしたドイツ系文化史の丁寧な系譜(ジンメル、クラカウアー、そしてベンヤミン)考が積み上げられていく。ぼくなど迂闊にして、ジークフリート・クラカウアーが建築家あがりだという大切なことをいまさら知って、いろいろ納得がいった次第である。これにギーディオンの空間論、ヴェルフリンのバロック論といったスイス系の空間文化論が重なっていく呼吸など、『建築の書物 都市の書物』で手渡されたシンプルな見取り図にそのまま分厚い肉付けがなされていく感じで、実に嬉しい。先回に続いて今度はヴィドラーを読み進もう、と考えたのは大正解だった。建築を学び、建築をやるとは、建築の部材や技法を知るより何より、まず「空間」観念に目覚めること、というのが建築モダニズムの変わらぬ骨子である。この一見当たり前のことが思想としての建築を知る上でいかに決定的なことであるか、『建築の書物 都市の書物』は一に掛かって教えてくれたわけで、やはりヴィドラーの前に読んでおいてよかった。

深淵を前にした戦慄と言えばパスカルだが、建築モダニズムの論がパスカル伝中の逸話(ベッドや崖から転落していくという悪夢に憑かれていたそうだ)に発して、空間(真空)恐怖と広場恐怖の分析を重厚に進め、先ほど触れた建築心理学のドイツ文化史家たちによる見事なバトン・リレーを描き切り、そして、建築と映画の強い結びつきを論じる。最後はこれも意外ながらジョルジュ・バタイユの建築論を下敷きに、「空間は古典的視覚の法則によって建設されたベンサム流のパノプティコン(円形刑務所)を瓦礫の山にしてしまう」と言い、「空間(エスパース)」は何となく空間というわけでなく、人間の心理的な深みを抑圧して惰性化・自動化する建築群の(いわば軽佻な)空間をむしろ根底から衝つべき永遠に脱構築的、脱権力的な力の場である、とする。建築界の論客たちによる論文の中には、実は不十分な論が能弁饒舌に語られ辟易させられるものも多いが、この点だけ押さえておけばそうはブレない。ヴィドラーのようにそこが明快、というか強靭な論者は珍しく、極端な話、20世紀建築学・建築史についてはこの一冊で十分かという気さえする。それが人々の不安を反映し、人々に不安を与える現代建築の負の局面を論じた本であるというのが、皮肉と言えば皮肉である。

第2部は「不気味なもの」、「歪んだ空間」を意識化した建築や都市計画を、ヴィト・アコンチ、レイチェル・ホワイトリード、マーサ・ロズラー、ダニエル・リベスキンドなどの実作に即して検討し、現下のサイバースペースにまで説き及ぶ。ハードな議論だった第1部の内容がいたるところで解きほぐされていく親切な構成の中で、フランセス・イエイツ流の「記憶術」や、ドゥルーズ一人ではない盛んなネオ・バロック感覚が現代芸術の現場においてどう実現されているか次々とわかって、もはや人文<と>建築など、<脱>領域をうんぬんしている場合ではないと実感できた。

 ぼく等の建築には身体にかかわる
 平面図がない、だが
 心理的な平面図はある。
 壁はどこにも存在しない。ぼく等の
 空間はどきどきしている
 風船だ。ぼく等の心拍は
 空間になる。ぼく等の顔は
 アパートメントのファサードになる。

天体の翼のインスタレーションで有名になったウィーンの建築家集団コープ・ヒンメルブラウによる詩(1968)だそうだ。1960年代、文学をやって建築を知らぬことが許されなくなる時代の始まりだ。“Ut pictura poesis”[文学は絵画に倣う] ならぬ、“Ut architectura poesis”のあり得べき広い新人文教養を、焦眉の急務として促す一冊。

 なぜならぼく等は欲しくはないんだ
 ぼく等を不安にするような
 あらゆるものを排除するような建築なんて。

少し懸念しながら読んだが、実に読み易くて、あるところからは一気呵成だ。「正篇」、即ち『不気味な建築』を少々古いとはいえ推してもよかったが、やはりヴィドラーはこの続篇『歪んだ建築空間』から入ることを勧めよう。『不気味な建築』の邦訳が絶望的にひどく、ほとんど読むに耐えないからだ。フロイトの不気味なもの論を、ネタになったホフマンのゴシック小説『砂男』(1818)に、また、ポー、メルヴィル、ユゴーに遡り、その上でル・コルビュジエ以下のモダニズム建築に秘められた不安と恐怖の心理学をあぶり出した瞠目の一冊を、キーワード“mise en abîme”[入れ子状] を「破産状態」と訳し続けるような無教養によってただのお笑い種に変えてしまった大島哲蔵という人物を、ぼくはいまだに許せない。1948年生まれというからぼくなどとほぼ同世代で、日本建築学界の大立者である由。鹿島出版の雑誌『SD』に書評を頼まれた際、あまりの醜態(一番大事な「序」4~5ページ辺りの日本語を見てすっと読める人がいるだろうか。原文と対照して「採点」してみたら100点満点中、32点!)に、原書は画期的名著、邦訳は画期的悪訳と記さざるを得ず、そう書いたところ原稿ボツになった(ぼくがボツ出したのは30年間で、これともう一本のみ)。個人的に何も含むところないが、建築を文化史の方に開いて成功した稀有の名著が相手である以上、かく致命的な低レベルでの「紹介」は償いの必要な文化的犯罪だ。大島氏は『建築の書物 都市の書物』の中で『不気味な建築』の紹介役を務めている。他にもこの名著に言及している各紹介者が多いが、彼らがぜひ原語で読んでくれていることを願う。ボードリヤール論かまびすしい頃、ボードリヤール邦訳の軒並みの壮烈な誤り(大事な箇所で“en directe raison de”[に正比例して] を「直接的理由あって」と平気で訳すなど普通)を怒ったことがあるが、こういう訳本でのみ議論がやりとりされていることを考えると、ぞっとする。

大島氏は『建築の書物 都市の書物』において「未邦訳ブックガイド――ポストモダン以降/あてどもないリーディングに向けて」というページを担当して、ペレス=ゴメス(Alberto Pérez-Gómez)など褒めるついでに、「デニス・ホリアー」(Denis Hollier)がジョルジュ・バタイユの反建築論を主題にした『反建築』(“Against Architecture : The Writings of Georges Bataille”、MIT Press)を取り上げ、「その内容は実際に訳出しないことには何とも言えないが、訳者の列に加わる者の予感としては最も手強いテクストに分類される」と仰有っているので、ぼくは笑った。そんなに入れ込むなら、これが英訳で、もとはフランス語、著者はれっきとしたフランス人、前衛きわまるメタファー論などで高名なドゥニ・オリエ(Denis Hollier)氏であることくらい知っておいて頂戴よ、とうすら寒い気分になって編集部にそっと知らせ、皆さんお手元の再版本では「ドニ・オリエ」となっている、とひと安心していた。が、今回の『歪んだ建築空間』でも、バタイユの「空間」讃美の論が問題になる大層重要な局面で、これはドゥニ・オリエが出てくるなと思ってページをめくると、これが見事に「デニス・ホリアー」(p.220)。中村氏は“en abîme”については「入れ子状」と訳せている(p.236)のに、のにっ!この業界、大丈夫なんでしょうか。翻訳アラさがしの別宮提督(!)のように、ぼくはえらくはありませんが、それにしても、しても・・・。

今、レヴェルの高い一般読者が読みたい建築論は、このヴィドラーとペレス=ゴメスの二人なのだから、取り扱いにもっと神経を使って欲しいね。それに、ペレス=ゴメスを褒めるなら、大島氏推薦の『建築と近代科学の危機』(“Architecture and the Crisis of Modern Science”、MIT Press)より絶対、“Polyphilo”(MIT Press)だと思うけどなあ。それにしても、兎角全部 MITプレス。1980年前後から、この版元の本は残らず読んでます。

→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/2299