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2007年11月02日

『パラドックスの詩人 ジョン・ダン』岡村眞紀子(英宝社)

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あまりにもみごとに閉じた<開け>の本

ロザリー・L・コリーといえば、ルネサンス後半(今日流にいうマニエリスム)におけるパラドックスの各局面での大流行を、ことに英国について論じた決定的な仕事であまりにも有名な研究者である。シェイクスピアについてパラドックスを見た(もちろんそれ以外の視点からもいろいろ論じられている)『シェイクスピアの生ける芸術』という大冊は現在某版元で邦訳進行中と聞くし、主著『パラドクシア・エピデミカ』はぼく自身、長年の約束を果たすべく、少しは暇がとれるようになったこの頃、意を決して河出書房新社から再度邦訳に挑戦中である。なにしろ「文化と精読」の両極にこれだけ達芸の人もいないし、庭狂いのアンドルー・マーヴェルの庭詩パラドックス(→先回書評を参照)を大著に仕上げた『我が「谺(こだま)する歌」』も併せれば、マージョリー・ニコルソン級か、ひょっとしたらフランセス・イエイツ級と、どこかでぼくが褒めそやしたこともある稀代のルネサンス研究家の驚くべき鴻業が、そう遠くない将来、本邦読者諸氏の愛するところとなろう。

そのコリー女史の「ルネサンスにはパラドックスの文学と称すべき伝統」ありとする主張を大枠に借りて、とびきり尖鋭なパラドックス狂いの詩人ジョン・ダン(1572-1631)のほぼ全文業をパラドックス駆使という観点から概観する、有難い本が出てきた。

ルネサンスのパラドックスを文芸評価の一大基準にして<批評>の優位をいち早く理論化したいわゆる「ニュークリティシズム」の運動にとって、パラドキシストであるジョン・ダンは一種スーパースターである。当然、本格的研究が出揃っているのかと思いきや、「ニュークリ」の日本における代表的存在、故川崎寿彦氏にはマーヴェルのそれあり、こちらは完成品に近いのに、『ダンの世界』は特段パラドックスに限った仕事ではない。マニエリストの鏡憑きぶりに立ち入った優れた研究書もあるが、ダン一人標的というわけではない。川崎氏と双肩と言われた故高橋康也氏の『エクスタシーの系譜』(コリーの主著と同じ1966年刊)が、英国ルネサンスのパラドックス「精神」については一番深いところに至ったものかと思うが、ダンは長大な系譜の一端に過ぎない。高橋氏の『ノンセンス大全』も同じである。

また、1970年代、マニエリスムが若い文学研究者たちのその若さに丁度いい感じで媚びた頃、河村錠一郎門下の加藤光也氏、篠田一士門下の故大熊栄氏など、ダン=パラドキシスト=マニエリストという図式でダンを読む研究者がたくさんいた(カッコいい英文学者はまずダンのパラドックスにまいらねばならない、という気分は今顧みても面白い)。では、ダン研究書が汗牛充棟とかというと、やはりそうではないことに、岡村氏の『パラドックスの詩人 ジョン・ダン』を見て、改めて気付かされた。ダンのほぼ全文業にわたって過不足なくパラドックスの巧みな利用を取り上げて一冊にまとめた仕事は、本書が最初である。一種ジョン・ダン辞典として重宝する。有難いと言ったのはそういうことである。

「愛と修辞のパラドックス」、「都市と諷刺のパラドックス」、「マニエリスムのパラドックス」、「近代と懐疑のパラドックス」、「死と宗教のパラドックス」、そして「無のパラドックス」という截然たる章立ては、随時利用させてもらうのにも非常に便利だ。座右に置こう。

「ジョン・ダンはロンドンに生まれ、ロンドンで育ち、ロンドンに生き、ロンドンで生を終えた詩人であった。ダンが生まれた1572年はロンドンの人口が急激に増加しつつあった頃である。1500年には5万人であった人口は、この頃には倍増し・・・」(p.62)、それがダンの『諷刺詩』に社会学的なパラドックス性を授ける、といった、主に神学や修辞学の形式的側面で考えていったコリーには欠けがちな視点が、「文化史」研究の今めいていて、勉強になる。

しかし、一気読了後に残るこの違和感は何だ。あれもある、これもあると分類、併記した挙句、これをまとめる「結」の部分が凄い。

 パラドックスは、それ自体がパラドックスである。「嘘つきのパラドックス」に見られるごとく、自己矛盾を内包する。真を述べればそれが偽となり、偽を述べれば、述べたこと自体が偽であり、ゆえに肯定と否定とが拮抗して、一点に解を見出すことができない。そこからパラドックスは自己批判となる。それ自体の方法や技法を批判し、その議論の限界を明るみに引き出す。かくしてパラドックスは同時に主体ともなり、客体ともなる。究極的には人間の悟性を弄ぶものとなる(。)(p.241)

すばらしいっ!と思うが、注(3)とあるので見ると、コリー主著の丸写しである。結論まで誰かをソースに引いてくるような応接の人間が扱って一番面白くないテーマが、パラドックスではあるまいか。違和感とは、象徴的に言えばこのことである。この本を書くことによって「限界を明るみに引き出」され、そのことにパラドキシカルに呆然とし、戦慄する著者の姿がどこにも全くないのだ。あらゆる静的なものを、まとまりつかなくても動へと開くのがパラドックスの真諦だと主張しながら、自らこれ以上ないほど予定調和へと穏やかに閉じてしまうとすれば、この本自体、なかなか皮肉なパラドックスである。本は閉じようとする装置であるから、こういうふうにパラドックスをテーマに選ぶ以上、「開け」を本自らにどう構造化するか、メタな頭が必要だ。この本は一研究者、岡村眞紀子にとっては年月かけた研究の一大レポートであるかもしれないが、選ばれたテーマはそれを許さぬ、なかなか性悪の相手。相手が悪かった。序文開巻の一行にいきなり、「最後にしか書けないのは序文である」という冴えたパラドックスを綴ったコリーの強靭な「ますらおぶり(strong limes)」を、メタフィクション感覚当たり前の<今>の研究者になら、やっぱりぼくは要求したいが、どんなものでしょう。

象徴的なのはマニエリスムの扱いだ。これも、今現在、2007年の我々が我がものとして得べきマニエリスム(もしくはネオ・マニエリスム)は「開かれた作品(opera aperta)」の原理なのだが、第三章「マニエリスムのパラドックス」は単純に、1970年代に我々が初めて読み知った随分古いマニエリスム観のおさらいでしかなく、マニエリスムがその前後の章ににじみ出ていく面白さなど、全く工夫の埒外なようだ。

なかなか微妙な偏見を少し混じえて言えば、関西系英文学界にかなり通有なでき方である。川崎寿彦、藤井治彦世代の独特に執念深いパトスが薄れたら、彼らの勉強家ぶりばかりが残る。東京の同輩たちへの対抗心も手伝って、えらく勉強家の論文の大量生産となる。いわゆるカルチュラル・スタディーズにおいても関西が強いのも、どうやらその辺である。

実は三分の一ほど読んだところで、関西の書き手と感じ、つい「著者紹介」を見たところ、京大出のバリバリ京都である。先回、安西氏の作品がいかに例外か記しおいたが、もはや紀要論文の静態など、狭い学会・学界の外では何の読書欲もそそらない。京都なら京都で、何故、蒲池美鶴氏が京大にいた時に出した『シェイクスピアのアナモルフォーズ』(→6月26日付書評)が全然引かれていないの?

その気になれば自閉し安息できてしまうのが、Kyotoの魔力だ。英文学にもどうやら京都学派というものがあって、御輿員三、寺田建比古といった筋金入りの大家をうみ出してきたはずだが、来年、縁あってぼくを非常勤講師に呼んでくれた若島正氏から、実は高山さんの話を聞いてもらいたい肝心の英文学の院生が在籍していなくて、と聞かされ、ぼく憮然としているところだ。

<開け>を忘れた英文学界に、他の事情も手伝って数年前、ぼくは「バイバイ」を告げた。そのあとの英文学界を予想させるに、パラドックスの、マニエリスムの、といった<開け>に賭けるテーマの、このいかにもウェル・メイドに閉じた本のページフェースは、なかなか象徴的である。学者でも、もっと乱れましょうぜ。

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