• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2007年10月16日

『名編集者エッツェルと巨匠たち-フランス文学秘史』私市保彦(新曜社)

名編集者エッツェルと巨匠たち →bookwebで購入

編集とは発明、と言うのはなにも松岡正剛さんだけではなかった

フランス19世紀文化史には「発明」という観点からみて実に面白い画期的な着想がいくつもあって、ロビダの『20世紀』などいってみればその滑稽な集大成、かつそもそも「発明」とは何かの社会的コメンタリーたり得ているものでもあったはずだ。その書評でぼくは百貨店商空間と通販システムを発明したアリスティッド・ブシコーの第一号デパートを「発明」された「機械」とみたゾラの小説を引き合いに出して、ロビダがひねり出した幾十もの発明品と並べてみたが、実際、今われわれがあまりにも当たり前のものと感じ過ぎて文化史としてみる距離をとれないものたちが、それらの存在しなかった時代の中からゆっくり立ち上ってくるのを眺められるなら、実に新鮮に改めて驚くことができる。発明王たちの人物研究(prosopography)を今どきの大学での必修課目にせよ、と大学改革ブームの中でぼくが言ってきたのは、この辺である。

問題の時期のフランスを相手にさすがにナンバーワンの研究実績を誇る鹿島茂氏の仕事は、この点でも拍手喝采である。同じ新曜社から出ているウージェーヌ・シューの新聞小説の「発明」を論じている小倉孝誠氏の仕事なども良いが、やはり鹿島茂だ。早速ブシコーで要領良い新書一冊をあげたかと思うと、エミール・ド・ジラルダンの「新聞王」としての多面の才覚を新趣向の評伝に仕立てた。文化史もの今年最強の『ドーダの近代史』にしても、政治を自己愛に由来する表現行為の「発明」としてむちゃくちゃ面白い。中江兆民像を改めてフランスつながり像で発明した鹿島その人の頭のひらめきには脱帽だ。

鹿島氏が「金かせぎのマシーン」、バルザックの研究から出発したのは当然だ。この私市氏の大著もバルザックから出発している。出版・印刷の業者から出発しながら、やがて都市生活者の類型学というべき「生理学もの」(前回10/12の書評を参照)を発明、これに「再登場人物」の着想をまぶして相互相関する大小説群、「人間喜劇」サイクルをつくり出していった。以前にあったものを次々糾合して、今まで存在しなかったものをまさしく「発明」したわけだが、実はこのアイディア出現には編集者ピエール=ジュール・エッツェルが介在していた。あるいは発明そのものが作品のメインの売りとなっているヴェルヌの同様のシリーズ、「驚異の旅」叢書も、この同じエッツェルによる編集――というか自ら作家でもある人物による斧鉞の筆――なくば今日のような形になっていないはず。大革命後の動乱と市場経済化の稀にみる歴史激動期の約半世紀、ほとんどのフランス人文豪と深く交渉を持ったこのエッツェルという人間とは何者、という本邦初の評伝である。

二月革命に際しては大政治家としてルイ・ボナパルトと対峙してベルギーに亡命したなど、全然知らなかった。今改めて問題となっている著作権というものの確立に、バルザックとともに奮迅の戦いをした人。知らなかった。今「児童出版」なる観念そのものが当たり前なのも、この人物の「教育娯楽雑誌」プロジェクトが開けてくれた道なのである。知らなかった。日本でなら鈴木三重吉に当たる、と私市氏。おそらくは石井研堂にも当たると、ぼくは感じる。「子供」読者という観念を「発明」したのだ。

文学があまりにもはっきりと政治がらみである時期が相手。それを一人の共和派活動家でありながら文壇キング・メイカーでもある好個の人物を視点に据えて繋げきった。エッツェル研究はこれからだと私市氏はいうが、なんだかもう全部わかった気分になる力篇だ。

一番の読みどころはヴェルヌの文章が編集者(にして一人の作家でもある)エッツェルの意見で変えられていく現場。よほど六神通の存在だったのである。許したヴェルヌも偉い。

ぼく個人としては、エッツェルが本の挿絵に尋常ならぬウェイトを置き、次々登用したイラストレーターたち(『動物の私的公的生活情景』のグランヴィル、『パリの悪魔』のガヴァルニ等々)で19世紀フランス民衆絵画史のギャラリーができるかと思われるほど、視覚的センスを併せ持っていたことの分析が嬉しい。こうしてうまれたエッツェルの「発明」とはつまり、「テキストとイメージによる、パリの人種のコード化であり、分節化であり、定義化である」(p.110)というあたり、そもそもナダールの気球飛行によるパリのパノラマ写真の話で始まる呼吸、いずれも先回紹介したジュディス・ウェクスラーの名作『人間喜劇-十九世紀パリの観相術とカリカチュア』(ありな書房、1987)[原書"A Human Comedy : Physiognomy and Caricature in 19th Century Paris"] を随分愛用していただけたふうで嬉しい。

この書評シリーズのつながりでいえば、先の『人造美女は可能か?』中に精彩あった新島進氏によるヴェルヌ論が利用されていて、繰り返しいうが、新進の仕事を、一家成した大家がやわらかく取り込んでいく様子は、そういうことは珍しいだけに、珍重すべき景色である。

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