• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
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2007年10月12日

『20世紀』 アルベ-ル・ロビダ[著] 朝比奈弘治[訳] (朝日出版社)

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発明とモードに狂うのは内がうつろなればこその

たとえば知る人ぞ知る愉しい図版集、デ・フリエスの“Victorian Inventions”(邦訳『ヴィクトリアン インベンション』)をのぞくと、19世紀末人士が発明狂の新時代をどんな具合に夢みていたものかわかる。自転車、自動車、汽車、気球、飛行機のヴァリエーションから光学器械、蓄音装置、電話電信、ありとあらゆるものが、既に現実化したもの、ただ単に途方もない空想のもの、一切区別なくずらずら並ぶページは実に面白い。デ・フリエスの大冊は後に『創造の魔術師たち』と名を変えて別の版元から出た邦訳でも愉しむことができる。ガラス球の中でペダルを漕ぐとその球ごと進んでいく自転車だの、体の中を透視撮影だの、行き倒れ死体を適温で保存したものを身元捜しと称して路上の見世物にするだの、なかなか珍にして妙なアイディアに瞠目。あとの二者がそれぞれ、X線に、そしてパリ観光の目玉のひとつたるモルグ[屍体公示所]に実現したのはいうまでもない。

発明狂時代が「大改造」後のパリに展開、という物語は、ロビダの『20世紀』という小説に尽きる、と長くいわれてきた。おまけに時俗戯画家としても辣腕をふるったロビダその人が厖大に入れた挿絵の魅力は、本当にすばらしい。こういうロビダ伝説は、“Victorian Inventions”をそっくりフランス版にした感のある名画集『父祖たちの時代』をのぞいて、一層魅力的に見えた。文字通り空中楼閣林立の都市と化したパリ上空を行き交う大小の高速飛行器械、世界中のニュース、上演中の歌舞演劇をリアルタイム、お茶の間で見られる「テレフォノスコープ」等々が、デ・フリエス本の精密きわまる黒白図版と対照的にやわらかなカラー図版で目を愉しませてくれたが、そのあらかたに「画はアルベール・ロビダ『20世紀』より」なるキャプションがついている。一体、このロビダって誰だ?というところに、NHKの伝説的テレビ連続講義を『奇想の20世紀』と銘うった荒俣宏氏が、ロビダ、ロビダと連呼するに及んで、読みたくてたまらぬ幻の一冊となって、ここまできた。

兎角、絵入り小説ジャンルの面目躍如。今まで存在しないものを必死に描写する言語の無力がおかしい。横に付された絵でほとんど一瞬にわかってしまうのに。

ヒロインはエレーヌ・コロブリー。寄る辺ない孤児という最初の紹介にしていきなりはっきりと、この金髪の女学生が世紀末パリのカルチュラル・ヒーロー[文化英雄]と知れる。身よりなしという負の出発ゆえに、彼女が巧くやっていくほどに読者も慰撫される。

機械が溢れ返っているというばかりでない。政治、法律、金融からはじめて文学や音楽までがそれぞれの「機械性」を次々に暴かれていくというのが、このガジェット大好き小説が邦訳で500ページという長さになる理由である。機械と折り合い悪いエレーヌがいろいろ試み、経験した挙句、機械どっぷりの人種からは縁遠い「愛」を勝ち取り、結果、機械文化のプラス面とも巧くやっていくことになるハッピー・エンドの教養成長小説ということで、その意味ではまさしく同時代に出たエミール・ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』(邦訳:藤原書店)に一番近い。ドライサーの『シスター・キャリー』に、といってもよい。田舎ぼっと出の“ingénue”が機械機構の只中でのし上がっていく、19世紀末・女ピカレスク物語。たとえばゾラがパリ最大の百貨店をスティームと電気で動く巨大なマシーンとして書いていることはよく知られている。まずは、そういうグループの一冊、ということだ。

電気と圧搾空気によって文字通りチューブの中を超高速で走り抜ける汽車は、パリからマドリッドまで僅か一時間しか要しない。ここにひねり出されたよくもよくもという発明品のうち、今現在どれが実現し、どれが実現していないか考えてみると面白い、なんて書評がいくらも書かれるはずだが、しかし面白いのは、そうした発明の連続に付き合ううちにどうも紙面に漂遊しだす倦怠感の方である。どこかでワクワク感が薄れ、ふうんという感じでページがめくられ出す時、実はフロベールやユイスマンスがまさしく1880年代のパリの精彩の背後に看取した“ennui”を、読者も今ここで体感できている、というなかなか面白く、かつ皮肉な構造だ。

機械文明の陰の部分を既にわれわれは知ってしまっている。何の翳りもなさそうなこの『20世紀』(1883)には、『20世紀の戦争』(1887)、『20世紀、電気生活』(1892)という続篇があって、環境破壊と軍需産業ひとり勝ちの暗い予言はそちらにてんこ盛りなのだそうで、この『20世紀』は逆に徹頭徹尾明るい。そう解説にあるし、現にそういう「陽気な黙示録」(ヘルマン・ブロッホ)としての19世紀末を示す最高の作のように見える。見えるのだが、読者の退屈が体現するこの発明の強迫をうむ時代の倦怠こそが興味あるテーマのようにも思える。

・・・そこは<産業博物館>の正面入り口へと向かう<発明者たちの道>だった。
 ここにはあらゆる発明家たち、創意に富んだ人類の恩人たちの彫像がならび、その天才と努力とが生み出した成果を、訪れる人々に思い出させる。・・・電気と圧縮空気によるチューブの発明者の隣には、ミシンの発明者がいる。千里も離れた人の声を聞き、姿を見ることのできるあの驚異のテレフォノスコープの発明者は、ズボンつりの発明者とシチュー鍋の発明者のあいだに立っている。こうした組み合わせは、なんとも哲学的なものではないだろうか!(p.66)

文学の目的の定義たる手術台の上のこうもり傘とミシンの出合い(ロートレアモン伯)を思いださないわけにいかない。現にこの『20世紀』世界では文学は既成作のいくつかを「つなぎ合わせる」「濃縮作品」としてつくられ、楽曲にしても「すべては書き尽くされているがゆえに、今日の作家は昔のものを改修して使う」より方法がないという。マニエリスム的「驚異」と「発明」への偏愛が、こういう何もかもオリジナルなものが既になく、あるのは順列組合せの術でしかないことを意味する。「二次創作」肯定の21世紀劈頭の今そのものでなかろうか。19世紀末を舞台に、倦怠と発明の弁証法を書き込んだ名作とこそ評すべきだろう。

マニエリスムなるものの外見上の精彩がすべてそうなので、その意味で『20世紀』一作、特に画期的とも実は思わないし、仮に目先をちらちらさせるガジェットを今(少し不粋ながら)取りはずしてみると、これはまた19世紀パリの通俗文壇を席捲し、一貫した珍しくもないジャンル中の一冊というにすぎない。それは厖大な挿絵を点検すれば即一目瞭然なので、そのジャンルに名を与えるなら、専らバルザックとくっついてよく知られる“physiologies”[生理学]が近い。階級再編成の激動の世相に特有の職能・業態に対する異様な関心のあらわれ。ヒロインが大金持ちポント氏の後見の下、政界、法曹界、文学界・・・等、次々に自分の天職を求めて遍歴する職探しという仕掛けを通して、文字通り大都会パリ社会のパノラマないし百科が書き上げられていく。どういう階級、どういう職業の人間だから、こういう恰好、こういう立ち居振る舞いかという説明図や、いわゆるファッション・プレートが、実は珍妙な発明器械の絵と同じくらいあるのは間違いなくそういうジャンル的記号なのである。その辺、御大鹿島茂氏の仕事、たとえばバルザックの『役人の生理学』の訳が読めるし、同時代江戸なら「気質物(かたぎもの)」と称したはずの職能別外見指南書の流行を丁寧に分析したジュディス・ウェクスラー『人間喜劇-十九世紀パリの観相術とカリカチュア』(ありな書房、1987)[原書"A Human Comedy : Physiognomy and Caricature in 19th Century Paris"] をのぞいてみればよい。偏奇な発明にしろ軽佻な服飾モードにしろ、白々とした倦怠がつくりだすもの。われわれの世紀末そのものだ。

そういう意味で確かに凄い予言力を、この本に感じるべきかもしれない。朝比奈氏は、ゾラの『パリの胃袋』を訳し、ヴェルヌ、クノーを手掛けた最高の訳者である。

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