• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2007年10月30日

『イギリス風景式庭園の美学-「開かれた庭」のパラドックス』 安西信一 (東京大学出版会)

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そうか、パラドックスを考えるのに庭以上のものはないわけだ

文化史家としてのぼくは、自分では娯しみのために何かの論を始めたつもりが、少し時間が経ってみると意外に大きな問題の糸口だったのかと知れてくる、といった位置づけにあるようで、たとえば小宮正安氏のヴンダーカンマー論など見て少しそうした感慨を抱いた話を前に記した。そのたぐいでは、俊才安西信一氏の博士論文たる本書などが代表的なもので、緻密に問題の所在が洗いだされているのを前に、自分が先立ってした議論がそうした繊細さを見事に欠いた大雑把な<暴論>でしかなかったことを思い知らされて呆然としてしまう。

主にイギリス18世紀について、それを今日際立って有名にしている特異な造園術の理論と実践を徹底して追った上、このテーマにとりついて離れぬ内と外の解決不能なパラドックス性という究極的構造を論旨に一貫させていて、一般になじみの浅いテーマながら紹介三昧から一挙に問題の核心へと、18世紀英国造園史研究が深まった感がある。博士論文と聞けば大体が今どき救いのない「紀要論文」の集積体で、おまけに研究助成の金をもらってというと、まあほとんど読む気がしないものが多い。その中で例外中の例外ともいうべき完璧のできばえである。

18世紀ピクチャレスク美学については、今年既に中島俊郎『イギリス的風景』が出て、この書評の場でも刊行の意義を言祝いだが、博士論文ゆえの執拗さと深い議論ということでは『イギリス風景式庭園の美学』だろう、懐かしいなと思っていたところ、2000年刊のこの本が名著復刊ブームに乗って重版され今年拝めることになったので、そのたぐいの本を3、4冊取り上げ続ける中、ぜひ取り上げ、改めて意義を顕彰してみたい。

最近の流れで言うと、大歴史家サイモン・シャーマの名著“Landscape and Memory”(1995;Hardcover1996;Paperback)を訳しながら(『風景と記憶』)、17世紀英蘭戦争当時、海戦維持に必須の材木確保ということから一大植林ブームがあり、中でもジョン・イーヴリンの『シルヴァ、或いは森林論』(1664)が問題と知らされ、おざなりなピクチャレスク造園論を概術してきただけという純粋培養の「美学者」タカヤマ・ヒロシは大きな衝撃を受けた。ピクチャレスク造園論自体、建築史家デイヴィッド・ワトキンの『イングリッシュ・ヴィジョン』の出る1980年代初めまで英本国にもロクな研究がなく、驚異や好奇ばかりを狙うこの不思議な作庭技法を、文字通り美意識の問題として追うばかりで、いろいろ切り口をつけたように言われるぼくの『目の中の劇場』にしろ『庭の綺想学』にしろ、時代のリアルな経済との関連で庭園史をきちんと記述する作業を怠ってきた。

なにしろピューリタン革命から名誉革命、立憲君主制確立にいたる弩級の「政治の季節」であった時、そこで精密化されていった庭園理論が「政治的」でなかったわけがない。たとえば遠近法という視線のあり方にしても、初期絶対王政期の馬蹄形の私設劇場に採用されて以降、政治の道具と化す。名著『政治的風景』でマルティン・ヴァルンケが列挙してみせたこういう風景政治学の最もけざやかな局面こそ、18世紀英国“horticulture”[造園術] に他ならない。ホイッグ党が政権をとると即トーリー党の庭師を解雇して自派の庭師を入れてまず庭をいじらせる珍妙な「風景政治学」があったことは、ぼくも取り上げて論じたが、ここまで風景と政治、そして経済といった「活動的生活 vita activa」が、じっと緑蔭緑想に耽って人生を、世界を考える「観想的生活 vita contemplativa」の場とされてきた庭に完璧に入り込んでいたのかと、改めて驚かされる大著である。

問題は1960年代に発する。最近落ち目の英文学研究だが、『英語青年』誌最近号でその救済者然と扱われている「文化史」的英文学再編制も、ぼくの仕事を引いてキーパースン圓月勝博氏が言うように、この界隈が当然主標的たるべきだ、とぼくは思う。一言もそうは言わずに安西氏の一著、アーリーモダン英国の「文化史」、もしくはカルチュラル・スタディーズの模範的鴻業となり得た。

史料に遺漏のない点は驚くばかりで、一次資料の博捜、普段顧みられることの少ない原テクストの読み込みはおそれいるし、有難い。ピューリタン革命時の、エデン神苑復興(『エデンの園』のジョン・プレストによると、王政復古とのみ訳される“restoration”は、当時かなりの人に神苑「復興」のニュアンスで受け取られていたという)プラス千年王国待望思想が育んだ庭園讃歌から、アディソン、ポープの二大蝶番を経て、公的利益をも考慮した「シヴィック・ヒューマニズム」なる大人の感覚で英国庭園思想が草創されたのが、18世紀後半にピクチャレスク庭園にいたり、「ケイパビリティー」・ブラウン、レプトン、そしてラウドンの諸理論をくぐることで、内と外との緊張を失い、ひたすら内にオタク化していくか、全世界を自分の庭として取り込む帝国の病に冒されるかに堕していく。庭を通して見た近代帝国成立のドラマが、今までそういう目で見られたこともない庭園理論の中小テクストの徹底した読みほぐしで描かれていく。

「復興」と並ぶもうひとつのキーワードが「協和」であり、そして不可能と知りつつ「協和」を成り立たせる構造(特に「内」と「外」)の「パラドックス」である。副題が謳うように、「開かれた庭」のパラドックスが、まさしく現代の「表層化したピクチャレスクの視覚習慣」を引き摺るランドスケープ・アーキテクチャーや環境芸術の中で危うくも解消されつつある。こういう危機意識が一篇の「博士論文」を、読書子一般が読み込むべきアクチュアルな作に変えた。

 特に庭園について問題なのは、その範囲が拡大し、内部と外部の差異がなし崩しにされることで、美的な貧困化・画一化・平板化に陥る危険である。単純に考えても、大規模な環境設計は自然の美的潜勢力(土地の精霊)を無視する確率が高い。さらに今、世界を席捲しているのが、表層化したピクチャレスクな風景式庭園であるならば、それは往々にして物の実体性を捨象した、単なるグラフィックな表面形式の偏重に陥ろう。そこにはもはや自然と人工の拮抗も、公共圏と私圏、有用性と美の力動的緊張もない。残ったのはただ、基本的に私的な住まい・レジャーの快適さと、それをも呑み込む肥大した私的商品経済である。こうした造園がどれほど拡大しようと、私的利害に貫かれた企業や行政機関等の巨大組織を巻き込むのみで、時間とコストを最小限に切り詰めたものにならざるをえない。その結果われわれが見るのは、暴力的に刻み込まれた貨幣の模像である。(p.245)

あまりに博士論文的予定調和の「危機ぶり」結論かもしれないが、それを導き出す一次資料のこれまた博士論文的な徹底して細かい読みの魅力が大きい。今や「文化史家」と化した感ある英文学者、富山太佳夫氏の言う「文化と精読」という文化史に必須の両輪の絶妙な動きの模範を、ここに見る。

17世紀英文学のキーコンセプトは暴力的「外」と対峙する度はずれた「内」の弁証法だと確信し、今、ロザリー・コリーの『パラドクシア・エピデミカ』(1966)を改めて訳し始めたぼくは、コリーが1660年代に庭の詩をいっぱい書いた詩人アンドルー・マーヴェルのパラドックス偏愛に堂々一冊の研究書を献げていたことを思いだし、天才的英文学者、故川崎寿彦氏の『マーヴェルの庭』を思いだした。川崎寿彦氏と並べ、「高山宏」の名を先蹤として顕彰している「あとがき」。今どき偉いっ。

次回はこの勢いで17世紀英国のパラドックス研究の本を、もう一点取り上げるつもり。

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2007年10月26日

『空間の文化史』(時間と空間の文化:1880-1918年/下巻) スティーヴン・カーン[著] 浅野敏夫、久郷丈夫[訳] (法政大学出版局)

空間の文化史 →bookwebで購入

第一次大戦は「キュビズムの戦場」だった

ヴォルフガング・シヴェルブシュに次いで、今一番あざやかに文化史の現場を伝えてくれる相手としてスティーヴン・カーンの名をあげたい。随分前に文化放送開発センタ-という聞き慣れない版元から『肉体の文化史』というカーンの本が出たが、地味な宣伝が災いして、得て然るべき評価が得られなかった(現在、法政大学出版局りぶらりあ選書に収録)。それが、法政大学出版局から、『時間の文化史』『空間の文化史』、そして『愛の文化史』(〈上〉〈下〉)と続々と訳され、読者の好評に迎えられた勢いで再刊されたりしたので、その気になれば、この優れた文化史家の仕事は、その全貌を日本語で読み知ることができる。

ぼくも、マラルメの詩『賽(さいころ)の一擲』の活字を取り巻く空白部分を、同時代のコンクリート工法による斬新な空間処理と並べて論じるカーンのぶっとんだ議論にすがって、拙著『世紀末異貌』所収の長いマラルメ論を書いてこの方、この人の仕事は大好きで、ずっと追い続けてきている。研究社からロンドンの前衛的出版社 Reaktion Books 刊の文化史の数点を選んで叢書として出す企画を立てた時、カーンの最近刊“Eyes of Love”(1996)に白羽の矢を立て、あまつさえ自ら全訳した(『視線』)。女が男に抑圧されてきた19世紀末以来の男尊女卑文化という図式が一般的な中、当時の多くの美術作品や小説中にしっかりした顔つきで正面を見据えるのはむしろ女の方が多いという現象が無条件に切り捨てられてきた不備と不公平を突き、ラカン心理学に拠るローラ・マルヴィー流の「見る男、見られる女」の二元論的ジェンダー視覚文化研究には偏りがあるとしたゲリラ戦の一書だった。唯我独尊の博読家ながら、作品は今や文化史のメインストリームにある諸書と何遜色ない。二冊も読めばどなたもはまるカーンだ。

シヴェルブシュの代表作と同じく、これも「書物復権」企画で、今年、久方ぶりに店頭で購えるようになった。ファン周知のように、もとは“The Culture of Time and Space 1880-1918”(Harvard Univ. Pr.、1983)として一冊本の大著だったものを、邦訳では前半を『時間の文化史』、後半を『空間の文化史』と二分冊化して刊行した、その一冊である。

一番近いのは、たぶんワイリー・サイファーの名著『文学とテクノロジー』、そしておそらくは『自我の喪失』の二冊である。19世紀末から20世紀初めにかけて、たとえばパースペクティヴ(遠近法)という外界の見方が実は普遍的なものではないことが暴かれ、むしろニーチェやオルテガ・イ・ガセー[ガセット] の有名な「パースペクティヴィズムの哲学」のような、世界を併存する多視点で眺める技術が哲学者に要求された。それがピカソ他のキュビズム美学やガートルード・スタイン等の文学作品にも顕著だというわけで、空間(空白部)の「積極的消極空間」としての評価――妙な用語だが、図に対して消極的なものと見られる地が実は大事とする評価の反転のことだ――を、オルテガ、ニーチェ、ピカソは当たり前として(サイファーは「きちんとした」文化史家らしく、ここまで)、びっくりするような広い守備範囲でやってのける。未来の文化史本の模範だ。

新しい構成要素としての否定性が広い範囲のもろもろの現象のなかに生まれてきた。物理学の場、建築のあき空間、町の広場、またアーキペンコの空無、キュビズムの相互流入空間、未来派の力線、舞台理論、フロンティア、国立公園、コンラッドの暗闇、ジェイムズの無、メーテルリンクの沈黙、プルーストの失われた時、マラルメの空白、ウェーベルンの休止、などである。こうしたさまざまな概念は、広範な領域の生活と思考から生まれ、また逆に生活と思考に影響を及ぼしたのであったが、ともかく、それほど多種多様な概念たちであっても、すべてに共通する特徴があった。従来は主役を補佐するぐらいの役割しか認めてもらえなかった、しいたげられた「空虚な」空間を立て直し、主役と同等に陽の当たる中心に据えたという特徴である。図と地、活字と空白、ブロンズとあき空間、それら両者が等価値になる、あるいは少なくとも意義深い創造に対して等しい貢献をするのであれば、従来のヒエラルキーもまたその価値の見直しにゆだねられる道理である。(pp.73-74)

哲学、物理学、文学、美術、技術、都市計画、群集とプライヴァシーの社会学と、まさしくカーネスク(カーン流)とでも呼ぶしかないおびただしい分野を次々横断しつつ、「空白」に続いては、「形状」が曖昧になる傾向、「距離」が無化されつつ、心理的には逆にいよいよ乖離の生じる傾向、そしてついには上から下へ、東方へと動く視線の「方向」がテーマとして次々に論じられていく。そして引き合いに出されるのが、国家の地理的位置、国家と国家の間の距離と国力の関係を扱う地政学になったところで、当然のように帝国と帝国主義の問題にも相渉る。マルクス、フロイトまでは付き合えても、流石のサイファーもここまで論はのびなかったはず。

カーンはそこまで至っても満足しない。こちらの分冊では当然メインのテーマではない『時間の文化史』の内容をも反映しながら、論の一切が、西欧史上、その時空に生じた最大の事件たる第一次大戦の戦場にと流れ込んでいく。外交処理があまりに高速大量の電信による情報の錯綜についていけなかったがための惨事であり、兵が互いの顔も知らぬ間に殺戮し合う未曾有の長距離砲の恐怖こそがそのポイントたるこの大戦争は、諸分野をひとつひとつカーンがたどってみせてきた時間と空間をめぐる同時代文化の諸相すべての総合的表現であり、行き着くべくして行き着いた凝集点であったことになる。空爆の飛行士が地上を見下ろして目にするであろう風景にガートルード・スタインはキュビズムを見、兵の迷彩にピカソはキュビズムを感じたが、そうだとして別にびっくりすることではなかったのである。

「肉体」や「愛」をテーマとするカーネスクな文化史も結局、第一次大戦がポイントだった。女たちが従軍看護婦となることで、女がはじめて男の身体をナマで見た、その経験が一切を変えたと言うのだ。考えてみればまさにその通りだが、コロンブスの卵である。ゲルニカの悲劇を描くピカソと、そのゲルニカ空爆をうんだ戦争機械が、「時間と空間の文化史」の同じ地点に立っていることの発見には、アッ!と言う他ない。見事な目次構成である。

カルチュラル・スタディーズ(cultural studies)や文化史(Kulturgeschichte)本格始動の1980年代、その出発点にしてもはやピークというべき名著をこうして偶然、二点続けて扱えた。着眼そのものの大胆さではシヴェルブシュに、次々出てくる材料や人名の遺漏のなさではカーンに軍配が上がる。当該テーマを追求するにこれは落とせぬという材料が、まさしく残らず出てくる有難い本だ。そういう厖大な材料同士がアレヨアレヨという間にどんどんつなげられていくのは、また言うが、批評的マニエリスムの驚異というべき作である。天才もいいけど、秀才もすてがたいなあ。

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2007年10月23日

『鉄道旅行の歴史-19世紀における空間と時間の工業化』 ヴォルフガング・シヴェルブシュ[著] 加藤二郎[訳] (法政大学出版局)

鉄道旅行の歴史 →bookwebで購入

マルクスもフロイトもみんなみんなレールウェイ

文化史を名のる本の例に漏れず注が充実して面白いので、そちらを読むうちに、シャルル・ボードレールを「チャールズ・ボードレール」とした表記に繰り返し出合うので、その程度の訳なんだと思った。その通りで本文訳はまずい。かなり直訳体の生硬な訳である。が、読めてしまうのが不思議だし、結構長年の愛読書のひとつである。初めて翻訳で読めたのが1982年。「文化史」とはどういうものか、このアプローチの未来における大きな可能性を学生に示そうにも、これは凄いと思える成功例がなくて困っている時、この本に出遭った。やがて店頭に姿を見なくなってからは重要な文章をコピーして学生たちに配るのが不便で嘆いていたら、今年で11年目となる9出版社共同の名著復刻企画「書物復権」対象書目として、法政大学出版局から、もう一冊のシヴェルブシュ本(『楽園・味覚・理性』)邦訳とともに再版されたので、喜んでとりあげてみたい。二著とも絶品だ。

初めて邦訳が出た時に「北海道新聞」から書評依頼があり、メインタイトルからして何故ぼくに、と訝しんだ。当時大学で同僚で、知らぬ人ない鉄道マニア、小池滋氏にまわるべき仕事と思った。まして「19世紀における空間と時間の工業化」なる副題をみると、小池氏ですら一寸ちがう位だ。だが、ぼくの興味やアプローチをよく知るつもりだと言い張る書評欄担当記者は、いやいや、先生向きと確信しますがねと仰有る。それで引き受けたのだが、その後のぼくなりに築くはずの文化史の行程を思うに、記者氏の功績や大だ。

兎角面白い。このシラけた題や副題にだまされて手を出さなかった人たちに、兎角読めと改めて勧める。19世紀欧米の文化諸相をひたすらに鉄道網の敷設、汽車とくに客車の工学的特徴など、「鉄道」の一点から次々と説き直していく。着眼点さえ見つかれば百年単位で複雑きわまる「文化」がひょっとして丸ごとわかった気分になれる、おそらくはいずれ「文化史」と呼ばれるであろうアプローチの醍醐味を、いきなりこの本で知ったが、当時それに匹敵し得るべきものとしては、エンゲルハルト・ヴァイグルの『近代の小道具たち』(青土社)があり、避雷針といった工業的な何かを手掛かりに近代文化史の魅力を存分に伝えていた。

ドイツの人文学に何か新しい感覚が芽生えつつあるということを伝えるこの二著は、しかし独立した読み物という限りにおいて「面白い本」という評価を得ただけで、大きな学問的胎動としては見られていなかった。それが2007年の今、ドイツ「メディア革命」というメディア論的学の再編成構想の十年を経て、厖大なアウトプットがはっきり21世紀型の文化史、文化学の一大星雲を形成し始めるのを前に、息呑みつつ、ジンメルやベンヤミンをさらに具体化し、面白い読み物にして媒介してくれたヴァイグルとシヴェルブシュの先駆性に改めて驚き、感謝する。

19世紀が鉄道ブームの一世紀であることを疑う者はいまい。産業革命のシンボル的存在だ。まさしくその産業革命の成果たる「工業」的所産としての蒸気機関車や客車、そしてレール敷設の解明が前半を占める。馬から蒸気機関車へ移る時の問題(今なおエンジンの発動力は「馬力」と呼ばれる)からはじめ、欧と米とでは鉄道文化が実はまるで逆の展開を遂げたということまで、創見の鋭さを印象づけない一章だになし。物からアウラを奪っていく「商品」の構造が、「空間と時間の抹殺」をもたらした鉄道システムになぞらえて翻訳されてみると、こんなにも分かり易いものなのか。あるいは精神的トラウマを言い、その療法をめざすフロイトの臨床心理学が、鉄道事故のもたらす外傷なき神経傷害への研究と表裏だったと言う。こうして19世紀末に社会を見るための二大理論と鉄道がこうも密接に関係していることを諄々と説き明かされてみると、もはや学知そのものが一種マニエリスム的組合せ術とさえ思えてくる。ぼくなど常々、死に体(たい)の現行人文学にマニエリスムをと言い続けてきたが、シヴェルブシュは好個の見本と言える。

が、圧倒的に面白いのは後半である。一つはもともと軍事用語だった「ショック(Schock)」という概念が、自らも間断なく振動をうむ厄介な機械でありながら、伝説的ともいえる緩衝機構のモデルにもなったプルマン・カーをはじめとする、豪華なインテリアでも知られる名作列車の構造を通して語られる部分。直近被弾による発狂(いわゆる「シェル・ショック」)とフロイト理論が第一次大戦を背景につながる、とする辺り、うならされる。

フロイトがノイローゼの性欲原因説を発展させていた満ち足りた平和の時期は、トラウマ概念の心理化と同時に、その概念の空洞化を押し進め、そして本来のトラウマ概念を彼に思い出させて、これに関心を抱かせるためには、世界大戦という現実の外傷的集団体験が必要だったのである。19世紀に、もし鉄道とその事故とがなければ、鉄道性脊柱および外傷性ノイローゼに関するショック理論が考えられなかったように、もし世界大戦がフロイトの体験の背景としてなければ、大量のエネルギーによる刺戟保護の破壊に関するフロイトの理論も、同様に考えられまい。(p.185)

専門書の体裁をとっているから少し専門用語に慣れさえすれば、言っていることはこういう大枠からさまざまなディテールまで、実にほとんど知的手品じみて面白い。

新しい概念間の組合せがうむ面白さ――差し当たり、文化史の魅力と呼べるもの――は、百貨店および現代的な「流通」と、駅、鉄道とのパラレリズムの説明で頂点に達する。

車室から見られるパノラマ的眺めは、物的な速度の結果ばかりでなく、同時にそれは鉄道旅行が質的に新たな装いで商品になったという新たな経済関係の結果として理解すべきものなのだ。鉄道旅行における風景の消失とパノラマ的再生とは、それゆえ構造的に百貨店における商品の使用価値としての姿の消滅に相当する。駅につけられた都市名は、商品に値札を張りつけるのと同じ過程を示すものである。(p.241)

たちまち風景論、パノラマ論、百貨店論に分岐発展させていくことができる重大概念錯綜のマトリックスと言うべき見事なまとめではないか。この「百貨店」および「流通」と題されたごく短い文章(pp.234~245)は、19世紀文化史(Kulturgeschichte)を志す者、その全文をしかと暗誦して然るべき卓絶した霊感に満ちた部分であろう。

そこでも、「百貨店の商品の外見と、鉄道の車室から見られた風景の外観という、この全く異なる二つのものを」結びつけることで全てが始まる。そう、文化史はマニエリスムを対象とするだけではない。自らアルス・コンビナトリア実践と化したマニエリスムそのものだということを、この本は教えてくれる。

ここまでやられると、鉄道文化史はもう先がないかと思っていたところ、David Bell, “Real Time:Accelerating Narrative from Balzac to Zola”(Univ. of Illinois Pr.)が出た。バルザック、スタンダール、デュマ、ゾラにおける馬車、電信、鉄道を、ミッシェル・セールの英語圏における第一弟子を任ずるベル氏らしくさらに熱力学を加えて論じる。仏語圏のテーマを英語でというので、おそらく独文の人たちは知らないはずと思い、老婆心でベル追加といこう。

次は全く似たような流れでスティーヴン・カーンの名作だ。

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2007年10月19日

マリオ・プラーツ編 『文学、歴史、芸術の饗宴』 全10巻 (うち第1回配本・全5巻) 監修・解説:中島俊郎/発行:Eureka Press

A Symposium of Literature, History and Arts.
Edited by Mario Praz [English Miscellany所収論文集]

A Symposium of Literature, History and Arts
詳細はこちら-->
■第1回配本 (1950年-1967年) 全5巻
 税込価格¥102,900 (本体¥98,000)
 在庫あり 書誌確認・購入は-->
■第2回配本 (1968年-1982年) 全5巻
 税込予価¥102,900 (本体¥98,000)
 (2008年秋刊行予定)

マリオ・プラーツ邦訳書一覧-->

あのマリオ・プラーツが中心でにらみをきかせた文と学の一大帝国

当ブログ愛好の明敏なる諸氏にはすでに御明察の通り、たまたま最近刊行、落掌の本をただ気紛れに取り上げているのではなく、そういう本で一テーマを構成するように選び、論じるなかなかきつい作業を書評子は続けてきたのである。機械と発明というテーマで16世紀から19世紀末までいろいろ拾ってきた。そういう連続線はなおシヴェルブシュやスティーヴン・カーンの19世紀文化史への評として続いていくはずのところ、ここで初めてどうしても一回、突然ふってわいた事件のため、少し中断させてもらえないか。マリオ・プラーツが精力的に編集した伝説の文学・美術研究誌“English Miscellany”(1950-1982)中の英語論文ばかり約230本を採りだして、『文学、歴史、芸術の饗宴』の名の下、全10巻として刊行しようという大企画がいよいよお目見えしたからで、これは大いに慶賀しなければならない。

なにしろ厖大な量の活字ゆえ、とりあえず今秋は第一期分(1950-1967)の全5巻。本体価格は松岡正剛『千夜千冊』級の10万円弱だが、どう評価するか。一世の大碩学プラーツについて、もはや何か言う必要もないだろうが、編集人、目利きとしても想像通りもの凄いものを持っており、特に英文学とイタリア文学との融通交流を一挙実現させることを目指した“English Miscellany”は、途中からジョルジュ・メルキオーリ他「プラーツ」組の面々に助力を求めながら御大が総力編集の腕をふるった、「名」や「超」の付く大ペリオディクルである。雑誌の性質上、半分はイタリア語論文であるが、なにしろ厖大活字量ではあり、読書人口というものをクールに考えて、英語論文のみ採った。といっても圧倒的な分量である。

1950年第一号、ということは、要するにシェイクスピア同時代の形而上派詩(ジョン・ダン、リチャード・クラショー他)に対するマリニスモ的関心がイタリアで急に盛り上がった時期。マリニスモとは少々耳慣れぬ語だが、マニエリスムの別名である。要するに、マニエリスム、バロックから19世紀末唯美派文芸へという、今日むしろ単純に「プラーツ」風と言ってしまえばいっそわかり易いような「負」の系譜からヨーロッパ文学を見ようという御大の「グスト」(“gusto”[趣味])がよく行き渡った雑誌である。「負」を改めて負として際立たせる「正」の系譜――新古典主義――への怪物的な造詣でもプラーツは有名だが、そちらへの目配りも周到で、かつて目にしたことはないが、正負よろしく均衡を得た一大比較文学論集の登場となった。

たとえば先ほど、メルキオーリのことを言った。この博読家の『ファナンボーリ(綱渡り師)』一冊訳された暁には、ペイターからヘンリー・ジェイムズまで、19世紀末にまぎれもない英語圏マニエリスムが存在したことが不動の事実となるはずだ。英訳もされたが、引かれて利用されたのを見たことがない。むろん大プラーツ級とはいかぬにしろ、プラーツ・タイプの何十人もの常連論者がぞろりと並ぶ総合目次には息を呑むほかない。

イタリア文学に強そうなことをしきりと書いていた故篠田一士氏のイタリア文学情報源は主にこの“English Miscellany”であったことを、ぼくは旧都立大英文科の伝説的書庫で知った。他に読む者ありとも思えぬ全30号に、この種の雑誌類には珍しく、すべて丁寧にペイパーナイフの刃先が入っていたのだ。

本当に230本の論文の一本一本が、プラーツ自身大好きな言い方だが、「珠玉」である。たとえば、かつて月刊誌『ユリイカ』が「文学と建築」の特集号を組むにつき、一本翻訳で論文をと言ってよこした時、“English Miscellany”が日本語に移し換えられるとどうなるか、この目で見たくて、第3号(1952)掲載のヨルゲン・アンデルセンの「巨大な夢」を同僚の井出弘之氏に訳してもらって載せたが、建築狂ホレス・ウォルポール、ウィリアム・ベックフォードが何故ああしたいわゆるゴシック小説をうみだすに至ったのかの実に華やかな大論文として日本にお目見えした。1980年代「ゴシック文学」ブームの中で別に珍しくもなくなった視点だが、1950年代にしてこのレヴェルの論文エッセーが満載されている。

別に昨今の英米文学のペリオディクル(“PMLA”、“English Literature”、etc. )を子供と言うつもりはないけれど、「英文学」が「ヨーロッパ文学」というスケールの中で捉えられていた時代の「大人の英文学」に魅了されるのも、カルチュラル・スタディーズ漬けで腑抜けになった英文学に喝を入れるのに好個かもしれない。ちなみに米文学についても姉妹雑誌“Studi Americani”があるが、こちらはプラーツその人の編集ではない。ペイパーナイフも入っていなかった。

ぼくの長年の知人が関西でやっているEureka Pressは、ピクチャレスク関係の復刻など試みるまことに奇特な版元。是非、もっともっとアッという復刻ができるよう、支持してあげたい仕事ぶりである。

期せずして、一時代を画した発明としての編集ということで、先回のエッツェル本の評につながったのが嬉しい。考えてみると、シニョール・プラーツ(1896-1982)だって19世紀人と言えなくもない(!?)




マリオ・プラーツ邦訳書一覧

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  1. 『官能の庭 マニエリスム・エンブレム・バロック』 若桑みどり・訳 (ありな書房、1992/02)
  2. 『ペルセウスとメドゥーサ-ロマン主義からアヴァンギャルドへ』 末吉雄二/伊藤博明・訳 (ありな書房、1995/02)
  3. 『綺想主義研究-バロックのエンブレム類典』 伊藤博明・訳 (ありな書房、1998/12)
  4. 『ムネモシュネ-文学と視覚芸術との間の平行現象』 高山宏・訳 (ありな書房、1999/11)
  5. 『肉体と死と悪魔-ロマンティック・アゴニー』 倉智恒夫/草野重行/土田知則/南条竹則・訳 (国書刊行会、2000/08)
  6. 『蛇との契約-ロマン主義の感性と美意識』 浦一章・訳 (ありな書房、2002/03)
  7. 『バロックのイメージ世界-綺想主義研究』 上村忠男/尾形希和子/廣石正和/森泉文美・訳 (みすず書房、2006/06)
  8. 『ローマ百景〈2〉-建築と美術と文学と』 伊藤博明/上村清雄/白崎容子・訳 (ありな書房、2006/09)


2007年10月16日

『名編集者エッツェルと巨匠たち-フランス文学秘史』私市保彦(新曜社)

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編集とは発明、と言うのはなにも松岡正剛さんだけではなかった

フランス19世紀文化史には「発明」という観点からみて実に面白い画期的な着想がいくつもあって、ロビダの『20世紀』などいってみればその滑稽な集大成、かつそもそも「発明」とは何かの社会的コメンタリーたり得ているものでもあったはずだ。その書評でぼくは百貨店商空間と通販システムを発明したアリスティッド・ブシコーの第一号デパートを「発明」された「機械」とみたゾラの小説を引き合いに出して、ロビダがひねり出した幾十もの発明品と並べてみたが、実際、今われわれがあまりにも当たり前のものと感じ過ぎて文化史としてみる距離をとれないものたちが、それらの存在しなかった時代の中からゆっくり立ち上ってくるのを眺められるなら、実に新鮮に改めて驚くことができる。発明王たちの人物研究(prosopography)を今どきの大学での必修課目にせよ、と大学改革ブームの中でぼくが言ってきたのは、この辺である。

問題の時期のフランスを相手にさすがにナンバーワンの研究実績を誇る鹿島茂氏の仕事は、この点でも拍手喝采である。同じ新曜社から出ているウージェーヌ・シューの新聞小説の「発明」を論じている小倉孝誠氏の仕事なども良いが、やはり鹿島茂だ。早速ブシコーで要領良い新書一冊をあげたかと思うと、エミール・ド・ジラルダンの「新聞王」としての多面の才覚を新趣向の評伝に仕立てた。文化史もの今年最強の『ドーダの近代史』にしても、政治を自己愛に由来する表現行為の「発明」としてむちゃくちゃ面白い。中江兆民像を改めてフランスつながり像で発明した鹿島その人の頭のひらめきには脱帽だ。

鹿島氏が「金かせぎのマシーン」、バルザックの研究から出発したのは当然だ。この私市氏の大著もバルザックから出発している。出版・印刷の業者から出発しながら、やがて都市生活者の類型学というべき「生理学もの」(前回10/12の書評を参照)を発明、これに「再登場人物」の着想をまぶして相互相関する大小説群、「人間喜劇」サイクルをつくり出していった。以前にあったものを次々糾合して、今まで存在しなかったものをまさしく「発明」したわけだが、実はこのアイディア出現には編集者ピエール=ジュール・エッツェルが介在していた。あるいは発明そのものが作品のメインの売りとなっているヴェルヌの同様のシリーズ、「驚異の旅」叢書も、この同じエッツェルによる編集――というか自ら作家でもある人物による斧鉞の筆――なくば今日のような形になっていないはず。大革命後の動乱と市場経済化の稀にみる歴史激動期の約半世紀、ほとんどのフランス人文豪と深く交渉を持ったこのエッツェルという人間とは何者、という本邦初の評伝である。

二月革命に際しては大政治家としてルイ・ボナパルトと対峙してベルギーに亡命したなど、全然知らなかった。今改めて問題となっている著作権というものの確立に、バルザックとともに奮迅の戦いをした人。知らなかった。今「児童出版」なる観念そのものが当たり前なのも、この人物の「教育娯楽雑誌」プロジェクトが開けてくれた道なのである。知らなかった。日本でなら鈴木三重吉に当たる、と私市氏。おそらくは石井研堂にも当たると、ぼくは感じる。「子供」読者という観念を「発明」したのだ。

文学があまりにもはっきりと政治がらみである時期が相手。それを一人の共和派活動家でありながら文壇キング・メイカーでもある好個の人物を視点に据えて繋げきった。エッツェル研究はこれからだと私市氏はいうが、なんだかもう全部わかった気分になる力篇だ。

一番の読みどころはヴェルヌの文章が編集者(にして一人の作家でもある)エッツェルの意見で変えられていく現場。よほど六神通の存在だったのである。許したヴェルヌも偉い。

ぼく個人としては、エッツェルが本の挿絵に尋常ならぬウェイトを置き、次々登用したイラストレーターたち(『動物の私的公的生活情景』のグランヴィル、『パリの悪魔』のガヴァルニ等々)で19世紀フランス民衆絵画史のギャラリーができるかと思われるほど、視覚的センスを併せ持っていたことの分析が嬉しい。こうしてうまれたエッツェルの「発明」とはつまり、「テキストとイメージによる、パリの人種のコード化であり、分節化であり、定義化である」(p.110)というあたり、そもそもナダールの気球飛行によるパリのパノラマ写真の話で始まる呼吸、いずれも先回紹介したジュディス・ウェクスラーの名作『人間喜劇-十九世紀パリの観相術とカリカチュア』(ありな書房、1987)[原書"A Human Comedy : Physiognomy and Caricature in 19th Century Paris"] を随分愛用していただけたふうで嬉しい。

この書評シリーズのつながりでいえば、先の『人造美女は可能か?』中に精彩あった新島進氏によるヴェルヌ論が利用されていて、繰り返しいうが、新進の仕事を、一家成した大家がやわらかく取り込んでいく様子は、そういうことは珍しいだけに、珍重すべき景色である。

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2007年10月12日

『20世紀』 アルベ-ル・ロビダ[著] 朝比奈弘治[訳] (朝日出版社)

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発明とモードに狂うのは内がうつろなればこその

たとえば知る人ぞ知る愉しい図版集、デ・フリエスの“Victorian Inventions”(邦訳『ヴィクトリアン インベンション』)をのぞくと、19世紀末人士が発明狂の新時代をどんな具合に夢みていたものかわかる。自転車、自動車、汽車、気球、飛行機のヴァリエーションから光学器械、蓄音装置、電話電信、ありとあらゆるものが、既に現実化したもの、ただ単に途方もない空想のもの、一切区別なくずらずら並ぶページは実に面白い。デ・フリエスの大冊は後に『創造の魔術師たち』と名を変えて別の版元から出た邦訳でも愉しむことができる。ガラス球の中でペダルを漕ぐとその球ごと進んでいく自転車だの、体の中を透視撮影だの、行き倒れ死体を適温で保存したものを身元捜しと称して路上の見世物にするだの、なかなか珍にして妙なアイディアに瞠目。あとの二者がそれぞれ、X線に、そしてパリ観光の目玉のひとつたるモルグ[屍体公示所]に実現したのはいうまでもない。

発明狂時代が「大改造」後のパリに展開、という物語は、ロビダの『20世紀』という小説に尽きる、と長くいわれてきた。おまけに時俗戯画家としても辣腕をふるったロビダその人が厖大に入れた挿絵の魅力は、本当にすばらしい。こういうロビダ伝説は、“Victorian Inventions”をそっくりフランス版にした感のある名画集『父祖たちの時代』をのぞいて、一層魅力的に見えた。文字通り空中楼閣林立の都市と化したパリ上空を行き交う大小の高速飛行器械、世界中のニュース、上演中の歌舞演劇をリアルタイム、お茶の間で見られる「テレフォノスコープ」等々が、デ・フリエス本の精密きわまる黒白図版と対照的にやわらかなカラー図版で目を愉しませてくれたが、そのあらかたに「画はアルベール・ロビダ『20世紀』より」なるキャプションがついている。一体、このロビダって誰だ?というところに、NHKの伝説的テレビ連続講義を『奇想の20世紀』と銘うった荒俣宏氏が、ロビダ、ロビダと連呼するに及んで、読みたくてたまらぬ幻の一冊となって、ここまできた。

兎角、絵入り小説ジャンルの面目躍如。今まで存在しないものを必死に描写する言語の無力がおかしい。横に付された絵でほとんど一瞬にわかってしまうのに。

ヒロインはエレーヌ・コロブリー。寄る辺ない孤児という最初の紹介にしていきなりはっきりと、この金髪の女学生が世紀末パリのカルチュラル・ヒーロー[文化英雄]と知れる。身よりなしという負の出発ゆえに、彼女が巧くやっていくほどに読者も慰撫される。

機械が溢れ返っているというばかりでない。政治、法律、金融からはじめて文学や音楽までがそれぞれの「機械性」を次々に暴かれていくというのが、このガジェット大好き小説が邦訳で500ページという長さになる理由である。機械と折り合い悪いエレーヌがいろいろ試み、経験した挙句、機械どっぷりの人種からは縁遠い「愛」を勝ち取り、結果、機械文化のプラス面とも巧くやっていくことになるハッピー・エンドの教養成長小説ということで、その意味ではまさしく同時代に出たエミール・ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』(邦訳:藤原書店)に一番近い。ドライサーの『シスター・キャリー』に、といってもよい。田舎ぼっと出の“ingénue”が機械機構の只中でのし上がっていく、19世紀末・女ピカレスク物語。たとえばゾラがパリ最大の百貨店をスティームと電気で動く巨大なマシーンとして書いていることはよく知られている。まずは、そういうグループの一冊、ということだ。

電気と圧搾空気によって文字通りチューブの中を超高速で走り抜ける汽車は、パリからマドリッドまで僅か一時間しか要しない。ここにひねり出されたよくもよくもという発明品のうち、今現在どれが実現し、どれが実現していないか考えてみると面白い、なんて書評がいくらも書かれるはずだが、しかし面白いのは、そうした発明の連続に付き合ううちにどうも紙面に漂遊しだす倦怠感の方である。どこかでワクワク感が薄れ、ふうんという感じでページがめくられ出す時、実はフロベールやユイスマンスがまさしく1880年代のパリの精彩の背後に看取した“ennui”を、読者も今ここで体感できている、というなかなか面白く、かつ皮肉な構造だ。

機械文明の陰の部分を既にわれわれは知ってしまっている。何の翳りもなさそうなこの『20世紀』(1883)には、『20世紀の戦争』(1887)、『20世紀、電気生活』(1892)という続篇があって、環境破壊と軍需産業ひとり勝ちの暗い予言はそちらにてんこ盛りなのだそうで、この『20世紀』は逆に徹頭徹尾明るい。そう解説にあるし、現にそういう「陽気な黙示録」(ヘルマン・ブロッホ)としての19世紀末を示す最高の作のように見える。見えるのだが、読者の退屈が体現するこの発明の強迫をうむ時代の倦怠こそが興味あるテーマのようにも思える。

・・・そこは<産業博物館>の正面入り口へと向かう<発明者たちの道>だった。
 ここにはあらゆる発明家たち、創意に富んだ人類の恩人たちの彫像がならび、その天才と努力とが生み出した成果を、訪れる人々に思い出させる。・・・電気と圧縮空気によるチューブの発明者の隣には、ミシンの発明者がいる。千里も離れた人の声を聞き、姿を見ることのできるあの驚異のテレフォノスコープの発明者は、ズボンつりの発明者とシチュー鍋の発明者のあいだに立っている。こうした組み合わせは、なんとも哲学的なものではないだろうか!(p.66)

文学の目的の定義たる手術台の上のこうもり傘とミシンの出合い(ロートレアモン伯)を思いださないわけにいかない。現にこの『20世紀』世界では文学は既成作のいくつかを「つなぎ合わせる」「濃縮作品」としてつくられ、楽曲にしても「すべては書き尽くされているがゆえに、今日の作家は昔のものを改修して使う」より方法がないという。マニエリスム的「驚異」と「発明」への偏愛が、こういう何もかもオリジナルなものが既になく、あるのは順列組合せの術でしかないことを意味する。「二次創作」肯定の21世紀劈頭の今そのものでなかろうか。19世紀末を舞台に、倦怠と発明の弁証法を書き込んだ名作とこそ評すべきだろう。

マニエリスムなるものの外見上の精彩がすべてそうなので、その意味で『20世紀』一作、特に画期的とも実は思わないし、仮に目先をちらちらさせるガジェットを今(少し不粋ながら)取りはずしてみると、これはまた19世紀パリの通俗文壇を席捲し、一貫した珍しくもないジャンル中の一冊というにすぎない。それは厖大な挿絵を点検すれば即一目瞭然なので、そのジャンルに名を与えるなら、専らバルザックとくっついてよく知られる“physiologies”[生理学]が近い。階級再編成の激動の世相に特有の職能・業態に対する異様な関心のあらわれ。ヒロインが大金持ちポント氏の後見の下、政界、法曹界、文学界・・・等、次々に自分の天職を求めて遍歴する職探しという仕掛けを通して、文字通り大都会パリ社会のパノラマないし百科が書き上げられていく。どういう階級、どういう職業の人間だから、こういう恰好、こういう立ち居振る舞いかという説明図や、いわゆるファッション・プレートが、実は珍妙な発明器械の絵と同じくらいあるのは間違いなくそういうジャンル的記号なのである。その辺、御大鹿島茂氏の仕事、たとえばバルザックの『役人の生理学』の訳が読めるし、同時代江戸なら「気質物(かたぎもの)」と称したはずの職能別外見指南書の流行を丁寧に分析したジュディス・ウェクスラー『人間喜劇-十九世紀パリの観相術とカリカチュア』(ありな書房、1987)[原書"A Human Comedy : Physiognomy and Caricature in 19th Century Paris"] をのぞいてみればよい。偏奇な発明にしろ軽佻な服飾モードにしろ、白々とした倦怠がつくりだすもの。われわれの世紀末そのものだ。

そういう意味で確かに凄い予言力を、この本に感じるべきかもしれない。朝比奈氏は、ゾラの『パリの胃袋』を訳し、ヴェルヌ、クノーを手掛けた最高の訳者である。

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2007年10月09日

『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』平野嘉彦(みすず書房)

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本当はフロイトその人が一番あぶないのかも

マラルメの「純文学」的難解詩にアキバ系人造美女の構造を見た立仙順朗氏のエッセーに感動させられた『人造美女は可能か?』を読んだ後、今年の新刊なら平野嘉彦『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』に手を伸ばさないわけにいくまい。『人造美女は可能か?』の陰の主役だったドイツ・ロマン派怪奇“Märchen”の名手、E・T・A・ホフマンの超難物奇作『砂男』(1816)の「人形」と「光学器械」を俎上に載せる。約百年間、難解とグロテスクリの故に忘却されてきたこの短篇に、眼の喪失=去勢恐怖というアッというエディプス複合的解釈を下して精神科医ジークムント・フロイトが精神分析的文芸批評に突破口を開いたこと(「無気味なもの」1919)はよく知られているが、百年を間に挟むこのふたつのテクストに焦点を当て、はからずも分析者フロイト自身、『砂男』で悲劇的な死に至る主人公ナターナエルとそう違わない「関係妄想」に陥っていたことを言う。その一方で、一見『砂男』と似た物語の展開と「人形と光学器械」の小道具を持つ乱歩の『押絵と旅する男』(1929)を『砂男』と比較して、実は「ヴェクトル」は真逆ではないかという指摘に至る。

『砂男』を訳し直した上、フロイトの如上問題作「無気味なもの」をも併せ訳し直し、両者の関係をいかにもフロイトマニアの立場から巧妙に説いた解題を付した種村季弘氏の企画力抜群な河出文庫版『砂男』(絶版が大遺憾)よりこの方、『砂男』ものでは一番の掘り出し物。高校生をターゲットにした叢書の一点としては大変すぎる本、というほどの意味である。

個人的には精神分析批評の手法にはつくづく嫌気がさして、まずまともには相手にしないぼくにしても、フロイトという異様な頭脳の中でネチネチと紡ぎだされてくる文芸理論の構造そのものは、これはまた格別に面白い。フロイトや愛弟子マリ・ボナパルトの精神分析的文芸理論の上澄みを便利な小道具として運用する一方の故澁澤龍彦流と違って、援用したフロイトそのものをホフマン的構造の中に取り込んで論の対象にしたところに、この本の輝く価値あり、と見た。独文的知とでも言える何かがあるのか、種村季弘流に近い。

『砂男』の粗筋はなかなか簡略には述べられない。複数の視点が互いに相対化しつつ錯綜するので、幾解釈も可能。とはつまり粗筋というのも一解釈である以上、正確な「事実」を述べる粗筋なる観念事態が宙吊り、ということになるからである。こういう作者をも読者をも巻き込む作品構造を、マニエリスト的瞬間のオルテガ・イ・ガセーやニーチェはパースペクティヴィズムと称したが、平野氏は「小説批評の重要なカテゴリーであるパースペクティヴ」をこそ問題にするのであって、従ってホフマン、乱歩の双生児的二作において、望遠鏡、双眼鏡という「光学器械」は「芸術の構造原理そのもの」を担い、「主題と構造の双方にかかわっている」ことになる。光学の喩えで言うなら、この複眼的、マルティプルな論の大小軸のタフな往復がはっきり見えるから、大に紛れず小に溺れぬ実にバランス良いホフマン論に仕上がっている。

『砂男』冒頭に闖入してくる怪人コッペリウスが、成人した主人公の会う晴雨計売りのコッポラと同一人物であるかは、実はわからない。名が類似しているというだけ。それが「換喩的連関」をどうしても「隠喩的連関」へと昂進せずにいられぬ主人公の「関係妄想」は二人を同一人物と見てしまうことから、墜死に至る錯乱にと追い詰められていく。

主人公ナターナエルを狂気にした望遠鏡だが、同じホフマンの『従兄の隅窓』では、広場を広やかに眺めわたす「市民社会の観相学」の具として機能し、悲劇の後の(ナターナエルのかつての許婚者)クラーラのささやかだがハッピーな小市民生活に連なるものの見方をもたらす。カフカの『変身』の幕切れそっくりという指摘は実に新鮮である。

乱歩の『押絵と旅する男』も同様に実に巧みに「人形と光学器械」というテーマで整理されていくが、要するにホフマンとはヴェクトルが逆というところがポイントである。蜃気楼の見せるパノラマ的拡大イメージの「近代」に背を向けて「覗きからくり」のミニチュア世界に身を潜める『押絵と旅する男』の中の「兄」の「古びて」見える外観に触れて、平野氏はこう結論づける。

日本の前<近代>への回帰は、「当時としてはとびきりハイカラな、黒ビロードの洋服」を着たモダニストを、「プリズム双眼鏡」という最新のアイテムをもちいて、「結い綿の色娘」が棲んでいる押絵の世界へと回収するという、きわめて逆説的なプロセスによって遂行されました。昭和初期に身をおいている「私」の眼からすれば、すでに古びた<近代>が、やはり古びた<近代>によって回収されてしまっている、というだけのことになりかねないのですが。いずれにせよ、そのような退行は、生成しつつある市民社会の認識原理を構築しようとしたホフマンとは異なって、すでに<近代>に背をむけてしまっている、往きて還らぬ、もはやあと戻りすることのできない方途であったことだけは、まちがいないようです。(pp.73-74)

洋風文物を大量に移入する一方で日本「近代」の「いよいよ亢進する歴史の跛行」というアポリアないしパラドックスが富山から東京への「夜汽車による帰り途」という行程にこそ象徴されるという見事な、コンテクストと細部分析両軸の一致とはなるわけで、久しぶりに幻想文学批評の読み応えある文章である。

今、独文といえば、「メディア革命」プロジェクト下のフリードリヒ・キットラーであり、ヘルムホルツ文化・技術センター周辺に集まる21世紀標準の新人文科学の動きであって、キットラーやブレーデカンプの名が出てくるだけで、人文系他分野の人間はいきなりおそれいるしかない。ホフマン、乱歩を講じ切ったあとの第三講の実質的主人公がキットラーである。先に言ったように、ホフマンの主人公の病根を分析中のフロイトその人も「隠喩的連関」に囚われていて、本当は相反する役割を分担している「父親たち」をすべて同一視している。『砂男』冒頭は錬金術の実験の場面らしいのだが、

魔術的、呪術的な<知>は、この小説のいたるところに瀰漫しています。あるいはナターナエルの<妄想>の所産とも思える、そして、この作品を分析しているはずのフロイトまでもが駆使しているところの、「類似性」を契機にして網の目をひろげていく、あの「隠喩的連関」が、その正体です。(p.118)

こういう「魔術的、呪術的な<知>」に戻った乱歩、「差異化」へと逃れたホフマンという対比になるわけだが、フロイトがそうやって「魔術的」にごっちゃにし同一視した「父親たちの差異化に成功」したのがキットラーである、とする。こういう「フロイトの願望」、「フロイトの思考の特徴」そのものを、ホフマン、乱歩を通して洗い出す意図をもった第三講は「高校生が読んでわかりやすい」かどうかには疑問があるが、多面に過ぎて入りにくいフロイト心理学と、その文芸批評の中での位置については最近稀にみる明察といえる。

「いささかの文化史的考察」も含むという前書きにわくわくしていたら、サイレントからトーキーに移る頃の映画史のことらしく、ホフマンにしろ乱歩にしろ、映画的なものも含め広い「見る」営みの考察に淫した相手なのだから、ラカンを重くみる平野氏のこと、マックス・ミルネールの『ファンタスマゴリア』(ありな書房)、それからホフマンからフロイトに至る目と眼差しの問題を初めてという目次立てで精査したマリア・タタールの『魔の眼に魅されて』(国書刊行会)の二著のみは、いくら「二次文献はあえてほとんど利用しなかった」とはいっても、掲げてほしかった。こういう素晴らしい本の登場をこそ期待してこの二名著の逸早い邦訳を実現しておいたぼくなればの望蜀の思いである。

近々、三谷研爾氏が編んだ『ドイツ文化史への招待』(大阪大学出版会)を評すつもりだが、英語圏・フランス語圏になかなか育たぬ「文化史」。細かい語句にこだわりつつの批評から深いキットラー文化史への理解も含め、いよいよこの面白いドイツ文化史への受け皿となり得べき世代が登場、と言いたいところだが、平野氏は既にカフカ研究他で一家なす知らぬ者ない御大。1944年生まれというから松岡正剛さん世代。立仙順朗氏といい、若者真ッ青のやわらかな自在境ではないか。いつも拠るのが『平凡社大百科事典』というのも、高校生向きに気を回したなかなかのご愛嬌で、笑える。兎角、本当は凄い本。

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2007年10月05日

『人造美女は可能か?』巽孝之、荻野アンナ[編](慶應義塾大学出版会)

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オタク死んでも、やっぱマラルメは残るぞかし

いってみれば機械マニエリスムが16世紀に始まったことを教えてくれる最近刊に次々と啓発された後、その20世紀末~21世紀初頭における再発を一挙総覧できるのも、有難いし、面白い。それが慶應義塾大学藝文学会2005年末の恒例のシンポジウムのプログラムに多少の稿を加えての今回作。

巽孝之氏の編というので、見ぬうちから安心。序に「わたしたちの人造美女エンサイクロペディア」を謳うが、書き手・読み手として以外に、編む人としての巽氏の目配りぶり、遺漏なき網羅への意志を誰よりも愛ずるぼくなど、目次案をじっと眺めて、もはや画期書と納得した。1954年にフランスで刊行されるや近現代セクシュアリスム論のバイブルと呼ばれて、東野芳明や澁澤龍彦といった論者の決定的霊感源ともなったシュルレアリスト作家・批評家、ミッシェル・カルージュの名著『独身者の機械』“Les machines celibataires”の主張を前提にした上で、2007年に向けその先へ出ようとした一冊である。精神の不毛と愛の不能が機械をうみ機械狂いに反映されていく、という今時最大のテーマのはずが、根幹になってくれそうな議論が、依然カルージュ本以外にない。見るに見かねて(仏文の人間でもないのに)ぼくが訳したのが遅くも1991年。考えてみるとサイバーパンクの熱い議論はその辺からなので、この恥ずべき文化的ラグは怪我の功名だったのかもしれないと、本書を読みながら微苦笑のぼくでありました。

収録作「ヴェルヌとルーセル、その人造美女たち」(新島進)が、このカルージュのアプローチを巧く整理する役で、それによると、カルージュがデュシャン、カフカの共通項として析出した独身者性(celibacy)とは「愛と生殖の拒否」、「機械的工程としてのエロティシスム」、「女性との関与や交感の不可能性を模している機械」というふうにまとめられる。あの超の付く難解書を巧く読んでいると感心したが、新島氏のコメントや良し。巽序文をさらに凝縮した一文を全巻要約として、引く。

 カルージュの「独身者の機械」論はそれ自体が刺激的な論考であるが、戦後の高度成長に伴うハイテク産業の発展と、これに無縁でない独身者文化の成熟のなかで、ながながとその命脈を保つことになる。1975年には「独身者の機械」展がヨーロッパの複数都市で行われ、翌年にはカルージュ論が増補改訂した新版が出版された。
 また80年代半ばに世界の文壇を騒がせたサイバーパンクSFも独身者文化と高い親和力を持っていた。仮想現実やサイボーグといったガジェットからもそれは必然であったろう・・・
 そしてサイバーパンクSFで幻視され、消費された記号に「ハイテク国家ニホン」があった。現在、アキバという聖地を持ち、非婚・晩婚化と少子化が止まらず、ピグマリオン/独身者の欲望が全開になっている人造美女の帝国。この地でのカルージュ受容は速やかに行われた。その中心人物こそが――球体関節人形史と同様――澁澤龍彦であり、彼はカルージュの論考に刺激を受け、自らの人形愛論を構築していくのだった。(pp.38-39)

寄稿者全員に、この「人造美女文化で明らかに世界の最先端」が日本という認識と、「現代のオタク文化」と論者各自のテーマとを必ず結びつけて論じなければという強迫が徹底している。

だから、場としての日本の特権視ということで、名著『現代日本のアニメ』のスーザン・ネイピアによる寄稿文「ロスト・イン・トランジション」も、one of manyという感じで余裕をもってふむふむ、と楽しめる。「日本が世界中のどの国にもまして1853年以来明らかにトラウマ的な移行の数々を経てきた」。あまりにも当たり前のことと見えて、こう批評的にまとめられると、アッ、ふうんである。激しい移行のうむ「空虚に対する一種の自己防衛手段」として、「移行対象」として、アキバのもろもろ、「かわいい」あれこれは、このニホンに大繁殖する他ない、と、『新世紀エヴァンゲリオン』や『イノセンス』といったアニメを使い、宮台真司や東浩紀を使ってやられると、別段何を今さらという感じもなく、巧いまとめだなと素直に勉強した。ガイジンが澁澤を云々しているのを初めて見て、それだけで時代を感じる。『ユリイカ』2005年5月号が「人形愛」特集号で、一読、挙げて若者文化がシブサワを大賛美。S.ネイピアが『ユリイカ』を熟読している図、愉快。このところのオタク寄りを昔の愛読者たちからいろいろ言われてきた『ユリイカ』。だが確かに新生面を開いた。時代が、そうさせる。

見事な目次の下、あとは各論。独身者の機械といえばホフマンの『砂男』が不可欠。これは『メトロポリス』の女ロボットとの系譜で識名章喜氏が巧く書いている。『砂男』のナタナエルの墜死を、クライストの「操り人形論」を使って、「重力に罰せられた」のだとまとめるウィットは、当たり前と見えて創見。「萌え」をドイツ・ロマン派でやったのがホフマンといわれて痛快だった。ホフマンとくればポー。これは系譜化の天才、巽氏の領域。実に広い目配りで危なげない中にも、「ポーをドストエフスキー経由で摂取したモダニズム作家ウィリアム・フォークナー」などという文章が輝く。余人にかなうわざでない。

人造人間といえばフランケンシュタイン・モンスター。高野英理氏の「ゴシックの位相から」はそこから始めて、意外に陳腐なのかなと読み進めると、日本における稚児愛、そして少年天皇をめぐる天皇観の問題へと深まり、「主体を完全に捨象した絶対の客体としての<不可能な自己>」こそがこの問題の核芯とする。美少女アンドロイド(ガイノイド)問題はどうもこの一句に集約される。カルージュ名著の増補改訂版には、独身者機械の神話とは即ち常は隠されて見えない“object”の浮上だと主張する新たな長文補遺があったが、このことだったかと、やっと腑に落ちた。高野英理氏の最新刊『ゴシックスピリット』(朝日新聞社、2007)を読みながら、ゴスロリの「歴史的」考察ということではこれも忘れがたい『テクノゴシック』(ホーム社、2005)の著者、小谷真理氏も並んで一文を寄せている。アーサー・ゴールデンの原作小説を映画化した話題の『さゆり』の芸奴世界の偽物性が『ジュラシック・パーク』(1990)のテーマパーク性と通じるという議論が、テーマパーク化した日本を分析するスーサン・ネイピアの論と反響し合う。巧妙なテーマと人との配置の下に、第一級論者の寄稿文がこういう感じの反響を繰り返し、論集にありがちな掻き集めの散漫と無縁なのが良い。

個人的にいえば、ただ一人戦前派、自ら「旧人」と名のる慶應義塾大学「名誉教授」、立仙順朗氏の巻頭論文「マラルメの効用」の効用に感激した。実は問題のシンポジウムはパネリスト一同コスプレで行ったらしく、荻野アンナ氏紹介のその場のやりとりは、元祖ゴスロリ宝野アリカ氏の学者コンプレックスが笑える場違いとともにご愛嬌なのだが、そういう仮装大会の中でただ一人、端然と平服で坐す老体の威風になぜか感激してしまう。

マラルメといえば、およそアキバと一番遠い、まさに純文学中の純文学と思われている。その優秀な研究者が、パネリストたち共通の関心事たるアニメを借りようとしてショップに赴き、ネイピア『現代日本のアニメ』を読んで改めてマニエリスム的優美をもって鳴るマラルメの秀什「エロディアード」を読み直すとなれば、この頃、何のかんの言って似たようなことを要求されることの多い身としては、どきどきしてページを繰る他ない。四捨五入して七十(失礼!)という学匠が、「ほとんど勝ち目のない賭け」と仰有りながら、「言語サイボーグ」だ、「言語という人形遣いプログラム」だの口にされるので、何と危うげなことを、と思って読んでみると、定型詩はそのものが独身者機械なのである、とちゃあんと説得されてしまう。「テクストの快楽という、われわれのオタク的状況そのもの・・・」。なあるほどね。超難解詩人が「現代のオタク文化」に「はしなくも」通じるという指摘さえ薄氷を踏む思いでできてしまえば、あとは修練積んだマラルメ詩愛好家の自身に満ち満ちた解説のわざ全開。にわか勉強でも、実力ある人の文化論は、やはり凄いものだ。二世代も三世代も若い人たちとの「ほとんど勝ち目のない賭け」に結局、立仙氏が勝った。男だ女だではなく「言語というもの自体が実は精巧な機械、一種のプログラム」(新島論文)という認識で共通するフランス系批評の説得力が大きいのも、面白い。立仙論文はそこをズバリ。立仙論文を一番頭に置いた巽氏の編集判断に非常に興味がある。問題作の年表や相互関連略図などもよくぞ付けてくれましたで、カルージュ本付録の同種年表を現在にまで展げてくれて貴重。兎角、サイバー文学に関心ある人には必携の一冊と見た。

ひとこと。ここまで完璧にやるのなら、どうして、Felicia Miller Frank, "The Mechanical Song : Women, Voice, and the Artificial in Nineteenth-Century French Narrative"(Stanford Univ. Pr.、1995)という究極の一書がどこにも出てこないのか。仏文のヒトのあらかたが英語が苦手だからといったつまらぬ理由で、こういうニッチーな名作が次々忘却されていく。なんなら訳そうか。今回作のキーのところにありながらカルージュの名作邦訳が出版社の恣意で知識市場から姿を消して久しい。新島氏あたり新訳して、息長く出してくれそうな別の出版社から出し直してみてはくれまいか。凄い本を出したら、本屋は出し続ける責任がある。『独身者の機械』は絶対その種の本なのだ。

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2007年10月02日

『愉悦の蒐集-ヴンダーカンマーの謎』小宮正安(集英社新書ヴィジュアル版)

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ヴンダーカンマーを観光案内してくれる世代が出てきた

16世紀という不思議な時代の「手」と機械――職人たちのマニエリスム――というテーマで取り組んだ本が、少し見方を変えると期せずして一シリーズとして出てきた動きにつき合ってきたが、その仕上げにぴったりという一冊が、ぴったりのタイミングで読める。それが今回とりあげる『愉悦の蒐集-ヴンダーカンマーの謎』

山本義隆『十六世紀文化革命』(〈1〉〈2〉)、また『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』が少々ごってり没入させる大冊であったのに比べると、先回の『ダ・ヴィンチ 天才の仕事』同様、図版フルカラーでとかく見せる/魅せる。16世紀――もう少し今に近い側でいうアーリーモダン――を徹底して見せようという美しい本で、視覚的インスピレーションの宝庫というだけでも一冊買って手許に置いておきたい。これが千円というのが一昔前では信じられない。印刷文化の進歩と新書ブームのお蔭だ。

この書評シリーズでも執拗にチェックしてきたヴンダーカンマーの文化史のさまざまな側面をほとんど余さず要領よく整理してくれるのが有難い上に、今時の美術館めぐりガイドブックのノリで、著者自身がヨーロッパ各ヴンダーカンマー巡礼をして、それぞれの現在のたたずまいで紹介してくれているのが、類書(といっても、そうあるわけでない)に絶対ない魅力だ。ヴンダーカンマー研究書は、ぼく自身、一時かなり蒐めたものだが、肝心の図版類はどれもこれも似たようなもので、あまりインスパイアされることがなくなっていた。見たこともない視覚材料で網膜がおかしくなるのは斯界御大のパトリック・モリエスの"Cabinets of Curiosities"で、2002年。眺めて嬉しいという点では、小宮氏の本はお世辞でなく、それ以来の嬉しさである。文化史ファン必携。タイミングや良し。

驚異博物館と訳されることが多かった“Wunderkammer”は1964年、故澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』に「妖異博物館」の訳語で登場し、盟友種村季弘訳のG・R・ホッケ『迷宮としての世界』(邦訳1966年)に「驚異博物館」の訳語として出て、1960年代末からのいわゆる澁種文化最大のキーワードということで、本邦読書界には結構いいタイミングで入り込んだのだが、この珍物収集施設に力を与えていたと例えばホッケが言う、マニエリスムのGeistesgeschichte(精神史)が学者の一部にアピールしだしたのは、やっと1990年代に入ってからのことだ。

ホール天上からでかいワニがぶら下がっている。互いに脈絡ない天然産物、人工産品、天然か人工かもわからない物が、カテゴリーも用途もよく見えないまま一見雑然と集められている。宇宙がそういうものだとするプレニチュード(充満)の神学的宇宙観から、16世紀から一世紀半かけて新旧両価値の大交代中に目覚める世俗的「好奇心」へ、という展開を時系列に沿って追う中に、そういう変化がこれ以上ない形ではっきり読みとれるものとしてのヴンダーカンマーの姿を浮き彫りにする。世界史だの哲学史だので認識されつつあるこうした「歴史」の知識も、見る素材、変わった手掛かりから見直すとこんなにも新鮮、という新歴史学の爽快味も伝わる。これが18世紀半ばの博物学、とりわけ分類学流行を経、ナポレオンの「略奪美術館」(佐藤亜紀氏の名著標題)を経て、ヴンダーカンマーが没落するところまで丁寧に追う。いずれ松宮秀治『ミュージアムの思想』(白水社)を取り上げるが、小宮本もミュゼオロジー(ミュージアム史)として長大な歴史的展望をちゃんと具えていて、図版の売りに引っ張られるばかりの軽薄書とは全然違う。

小宮氏は『オペラ楽園紀行』で集英社新書と縁を持った。オペラ狂いのドイツ文学者だから、ドイツが本場のGeistesgeschichteにいずれ展開せざるを得ない人種。ぼくの周りでいえばモーツァルト狂の原研ニ氏などの同族かと思われる。大体がヴンダーカンマー研究は、ドイツでは1920年代、1950年代に展開され、英米圏などはるかに遅れてやっと1990年代という形勢なのだが、その独語圏で最初にヴンダーカンマーをテーマにしたユリウス・シュロッサーが美術史でいえば「ウィーン派」だったというなにげない指摘に、小宮氏の持つ今後の底知れぬ広がりが窺える。同じウィーン派1920年代を牽引していたのが、ずばりマニエリスム概念を初めて打ち出した『精神史としての美術史』(1924)のマクス・ドヴォルシャック [ドボルザーク] だったことを考え併せてみれば、わかる。

そんな難しいことはよい。ドイツ音楽史家としての造詣が活きるのも、小宮氏の拠る奇著『グロテスクの部屋』(作品社)の原研ニ氏と同じだ。『ダ・ヴィンチ 天才の仕事』で一番驚かされたのは楽器をグロな怪物のデザインにしたという流行だったわけだが、怪物的世界を調和に変えるもの即ち音楽、という構造をデザインに寓意化したのだと著者に言われて、至極納得がいった。中でもびっくりしたのは「自動作曲機」のことで、次のようになる。

・・・宇宙を思わせる巨大な箱の中に、音の高低や長さ、和音を記したカードが入っていた。そしてそれらを自由に組みあわせれば、一つの曲が完成する仕組みになっていた。カードに記されている情報は人間が考え出したものでありながら、組みあわせの過程において多くを偶然性に頼り、人間の思惟が入り込む余地を排する。その結果、おそらく宇宙に鳴り響いているのと同じ音楽を、この世界の存在である人間も享受できるはずだった。
 自動作曲機も、現在からみれば過去の遺物にすぎない。だが一方で、実に現代的な発想のアイテムでもある。情報の組みあわせによって、一篇の曲が出来上がる。それは、コンピュータが自動作曲する様を彷彿させるだけではない。機械が自動的に筆記をしたり作曲をしたりするというアイディアは、20世紀のシュルレアリストたちにとってもインスピレーションの源であり、現代のアート・シーンにも大きな影響を及ぼしてきた。
 ヴンダーカンマーの音楽コレクションに込められた、世界の調和、宇宙の調和への想い。それは、形を変えながらも、尽きることのない力を保ち続けている。
(p.76)

ヴンダーカンマーがマニエリスムのアルス・コンビナトリア原理でできていることを音楽を通して説いた面白い一文で、現代とのつながりも意識されている。ガイドブックというなら、その域を超えている。

と、そこまでは感心一途なのだが、参考文献にどうしても少し文句がある。1990年代いっぱい、このテーマの欠落を一人で補ってきたつもりの高山宏のかなり多量なはずの材料に一言の言及もないのは、度量の狭さか、ただの無知か。エルスナー、カーディナルの『蒐集』はどうしたのかな?1969年という、このテーマの未来にとってなかなか印象的な年に生まれたこういう新世代のためにという一心で訳したスタフォードの『アートフル・サイエンス』にしても、ウィーンの薬種屋のキャビネットに生じたヴンダーカンマーの最期を扱い、まさしく小宮正安のような人のための材料提供だったのに、この無視もしくは無知って何だ。無念である。パトリック・モリエスの驚異博物館論は見たのだろうか。あるいはアダルジーザ・ルーリの(挙げられているものより後の)遺稿は?ルーリのこの本はたぶん小宮書のデザイニングに影響あったはず、そう、R・J・W・エヴァンズは?

ま、望蜀の妄言か。自らの足でヨーロッパに飛び、自らの目で見てきた絶対の強みは、爽やか、かつ貴重だし、参考資料書目の最期にウェブサイトが紹介されるあたり、この世界にも当然の新世代の風だ。老兵去るべし!原とか小宮といった人たちに、いま爆発中のドイツ「メディア革命」の息吹きをどんどん伝えてほしいなあ。

それにしても「現代版人間ヴンダーカンマー」こと編集者椛島良介って、どういう人なんだろう。アラマタの他にそんな人、いたんだ!ヴンダーバール!

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