• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
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2007年09月14日

哲学の歴史〈4〉「ルネサンス 15-16世紀」伊藤博明(中央公論新社)

哲学の歴史〈4〉 →bookwebで購入

哲学されなかったもののなかった三世紀をねじふせる

不況の時には哲学がブームになるとは昔からよく言われてきたことだが、若い人に哲学を教える名手だった池田晶子氏の茫然自失させる急逝が契機になり、松岡正剛氏が今時の「17才」には一寸無理という17才向きの哲学の編集工学書が呆れるほどのロングセラーになったり、広義の哲学ブームがあるようだ。先日の朝日新聞でも何故このブームとして哲学関連書や企画の好調ぶりを伝えており、その筆頭に中央公論新社創業120周年記念出版「哲学の歴史」全12巻プラス年表・索引別巻という大企画のスタートの上首尾が寿(ことほ)がれていた。ぼくもある巻にささやかなエッセーを寄稿している御縁で早々と何冊か通読したのだが、第4巻「ルネサンス 15-16世紀」を取り上げてみる。

理由がある。この書評シリーズで既に褒めてきた博学博言の伊藤博明氏責任編集とある。書肆ありな書房で出るルネサンス・オカルティズム関連のヴィジュアルな研究書の大半を訳し、ヴァールブルク著作集を監訳ずみの氏が責任編集ということで、この半世紀、一変したといってよいルネサンス哲学研究が一挙に「ポップ」に見えてくるかという期待が持てたし、当然大きく扱われるべきジョルダーノ・ブルーノをご存知『ロバのカバラ』の訳者たる加藤守通氏が書くというし、実は哲学のインフラとして決定的な出版メディアについては我が朋友たる偉大なユマニスト、宮下志朗氏が寄稿と聞いて、熟読しないわけにいかない。第一、ついこの間、中沢新一『ミクロコスモス』〈1〉〈2〉を取り上げたが、その標題にバルトークを介して、ピーコ・デラ・ミランドラやカルダーノ、テレージオに繋がる自然哲学者、中沢のありようが、いきなり透けて見えた。どうしても今回はこのルネサンス哲学史を見るのが筋だ。

主体は1500年代。それに、クザーヌスからピーコ・デラ・ミランドラの1400年代が付く。1400年以前ではいきなり冒頭にペトラルカ。尻の方はフランシス・ベイコンから、ついにデカルトまで。大半が文業でばかり声名高いペトラルカが何故この本に、というところから、なかなか秀逸の監修ぶりが窺える。「哲学と文学の統一」者として扱われる。

哲学、哲学してあまり哲学脳をしていない読み手を悩ませる監修や分担論者各人の記述でないのが、有難い。今の時点でルネサンス哲学といえば、フィチーノ、ピーコ、そして遡ってクザーヌス辺りの、いわゆる隠秘哲学、ネオプラトニズム思想の線が真芯に出てくるはずだが、どう国家を経営すべきか(マキアヴェッリ、ジャン・ボダン)、立派な市民とはどうあるべきか(ブルーニ、パルミエーリ)といった実際的な思想と哲学が区別できない、宗教(ルター)と広濶な人生観想(エラスムス、モンテーニュ)と哲学が未分化な界域が次々と展開され、今われわれが哲学と呼んでいる世界がいかに根拠なく狭いものになってしまっているかに思い至って、愕然とした。トマス・モアの『ユートピア』を論じる高田康成氏のいうフィロソフィア・キウィリオル(philosophia civilior 市民哲学)が、国家経営術と(狭義の)哲学に分裂したところに、現代世界の政治の貧あり、と感じる。

今時当然というべきかもしれないが、隠秘哲学と「市民哲学」が良い具合に交錯して進んできた――時系列的にもテーマ的にもこれ以上ない順序だ――展開は最後、自然哲学(カルダーノ、テレージオ、ガリレオ、F・ベイコン)で終わり、そしてデカルトの実はルネサンスを引きずった側面を見て終わる。構成完璧。

完璧といえば巻末文献一覧も、ごく最近の学界動向まで丹念に拾って素晴らしい。クザーヌスの「無知の知」(「覚知的無知」と訳すべき理由を、八巻和彦氏に教えられて目からウロコ)論を中心に、それこそペトラルカやモンテーニュといった、哲学とするには厄介な相手を次々、一冊の哲学書にライン・アップした稀代の名著、ロザリー・コリーの『パラドクシア・エピデミカ』(1966)を思いださないわけにいかないが、この本など落ちているのは伊藤氏としては抜かったか。

たとえばアルキビアデスのシレノスの逸話が何度か引き合いに出される。プラトンの『饗宴』に出てくる醜怪な老人の人形ながら、割れると「中には神々しく光り輝く神の像が安置」されているという内/外の対立/一致のシンボル。たとえばエラスムスの『格言集』を論じる月村辰雄氏の絶妙の一文は、こうだ。

これが『格言集』の最大の魅力なのだが――「しかし、これらの人物にもまして、キリストこそは最もシレノスに近いのではないか」と、突然キリスト教の問題に話題を転じて読者を驚かせる。キリストは人々からは蔑まれ、嘲りを浴び、十字架の上で最も惨めな死を迎えることになったが、しかしその死によって人々に救いをもたらした。その内面において栄光に輝いているのだと、キリスト教の立場から霊的な意味が取り出されることになる。こうして、異教的な知識とキリスト教の教えとが、比喩的な意味のレベルにおいて接続を果たしている。異教の著作についての豊かな知識がキリスト教の教えを導く手助けをしているという意味で、これを人文主義的方法と称することができるであろう。また最終的にいかに豊かにキリスト教的意味を導くかが問題となっているという意味で、これをキリスト教的と称することができるであろう。・・・(p.323)

相容れぬはずの多様な要素が、この「キリスト教的人文主義」のようなアマルガムの大渦小渦をつくったのが、要するにルネサンスの哲学なのであり、それをペトラルカから、真空発見のトリチェリまで追跡し切ったRosalie Colie, "Paradoxia Epidemica" が文献に欠けているのが、あまりにも勿体ない。アマルガメーティングな時代の哲学のパラドックス狂い。「哲学」としては初めてという強度のマルティン・ルター論を書いた清水哲郎氏による、ルターの「神学的逆説(theologica paradoxe)」論は、逆にコリーもまっ青。一番読み出のあるルター論、ブルーノ論、カルダーノ論、皆、逆説の哲学なるが故の面白さとみた。これは何が何でもコリーを日本語にしようと、この本を手に改めて決心した次第。

昔、カント哲学者、黒崎政男氏が、哲学はヴィジュアルに示せないもんな、とぼくに嘆いてみせたことがあるが、そんなことはない。とりわけ、ルネサンス/マニエリスム期のヴィジュアル・シンキングの度は凄い。そこの紹介の第一人者たる伊藤博明、岡田温司、両氏の役割がコラムに封殺されていることが、口惜しいといわばいえる、本邦哲学界のメディア感覚であろうか。それはルネサンス最末期を飾る哲学と美学の接点――マニエリスムの「内的構図」美学――が今時、完全に欠落してしまっているところにも通じている。哲学を「イメージの回廊」というコーナーにしてみせるのは敢為と思うが、これは、とりわけヴィジュアル・シンキングの強かった18世紀を扱った「哲学の歴史」第6巻などそうだが、難しい(B・M・スタフォードに学べ。そのために、ぼくが急いで訳したのに)。望蜀妄言多謝。

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