• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2007年08月28日

『道化と笏杖』 ウィリアム・ウィルフォ-ド[著] 高山宏[訳] (晶文社)

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人文学が輝いた栄光の刹那をそっくり伝える聖愚著

『老愚者考』のグッゲンビュール=クレイグが神話をめぐる日常的エピソードをスイスのローカルな話からとるのが珍しく、面白かったのだが、要するにスイスの心理療法家だし、チューリッヒのユング・インスティテュートの所長経験者だった大人物なので、至極当然のことである。河合隼雄氏や、ぼくも親しくお付き合いさせていただいた故秋山さと子女史など皆、チューリッヒのこの伝説的研究所に集って、セラピストの免状をもらっている。

そういう『老愚者考』であるからには、一人前の読書子が即思い浮かべねばならない文章がある。

 少し前のことだが、一人の男がチューリッヒの市街電車に乗り込んでくると、ハーモニカをとり出し、あちこち踊り回りながら愉快な演奏を始めた。時々休んでは窓から首を突き出して、通行人をひやかし、明け方の雄鶏のような鳴き声をあげるのだった。同乗の人々は振り向いては爆笑した。車掌は別段男に料金を要求するでもなく、さりとて追い払うでもなく、まるでその鶏男が以前からずっとそこにいて、何ごともない普段の風景の一部分なのだといった感じで、見て見ぬ振りをしている。乗車賃も払わぬまま跳びはね続けて、鶏男は車掌の前で歯をむいて下品に笑うと、かくて突然ひとつの舞台と変じたこの空間で二人、今や二人のフールと化したわけである。男はそれからその視線に我々をとらえると、もう一度鶏のように鬨(とき)をつくった。まるで我々の中に自分自身の姿を認めたのが嬉しくてたまらないといった風情で、その鳴き声が我々の笑い声の只中に響きわたった。

何故スイス、何故チューリッヒなのか。今時一寸おかしい人間がいて電車の中を少しだけ剣呑な小祝祭に変えるくらい、どの都会でもいくらも起こりうる事態である。しかし、いかにも聖霊降臨会が発祥し、トリスタン・ツァラのチューリッヒ・ダダが立ち上ったチューリッヒに相応しい鶏男出現だね、と流石のことを言ったのは、故種村季弘氏であった。ウィリアム・ウィルフォ-ド一世一代の名著、『道化と笏杖』冒頭の一文。それに対する名書評家、種村の余人にはあり得ぬ的確な指摘だった。ウィルフォードは名からしてゲルマン系ではない。カナダはシアトルの心理療法家なのだが、チューリッヒのユング研究所に行ってセラピストになった。秋山先生がたしか同時期に見かけたことあり、と仰有っていた。

ユングのいわゆる分析心理学、元型論は、用語も難しいし、第一、目に見えにくい現象を定型モデルを当てはめて説明するところが浮世ばなれしていて、なかなか学としても認められにくい。箱庭をつくらせるだのマンダラを描かせるだのといった「療法」に果たしてどれだけの効力があるのかも、実は見えにくい。自分たちの分かられにくさを意識して、やたらと一般向けにかみ砕いて説く解説書が多い。『老愚者考』など典型。かみ砕き過ぎて、本当は難しく理解せねばならないところ、簡単なたとえ話でスッと行く。結局、何だかふわふわして、理解できたのかどうか少々おぼつかない。

その対極にある硬派のユング派の絵解きが『道化と笏杖』である。1969年刊。ということは、山口昌男氏による道化論の画期「道化の民俗学」が雑誌『文学』に連載されたのと同時期。面白いことに全世界的に道化論がはじける四、五年間の、そのとば口に当たる。

集合無意識が沈殿するアーキタイプ(元型)と呼ばれる魂の領域がある。人間の自我を一個の球に譬えると、その昏(くら)い中心におどむ領域。表面に浮く日常的な自我を誤つこと常の小我とすれば、この深い異域にひそむもう一人の自我は大我なり、と、話は完全にウパニシャッド印度哲学のアナロジーである。小我の致命的誤りを元型が夢の中に元型的イメージを送ってよこすことで正そうとする。このイメージの解読者が即ちセラピストということになる。ユングが発見したアニマ、アニムス、老賢者といった元型に、後続のユンギアンが時々別の元型をつけ加える。『老愚者考』は最近稀なその成功例というわけだが、妙にエージング論ブームに媚びた「老」の要素をとっ払ったところで堂々一人立ちしたウィルフォード発見の「道化という元型」論は、遥かに普遍的なスケールの仕事だ。

1960年代後半、「魂の心理学」に人文科学全体が総力戦で当たった人文学栄光の刹那の、アプローチの自在、選ばれる対象の脱領域ぶり――シェイクスピア劇からサーカス・クラウン、北米インディアンから禅僧の機法一体まで、見境なし――両面における極致である。随分前の本だし、第一ぼく自身の訳で、書評者として少し心苦しくはあるが、『老愚者考』という格好な手掛かりを得た今こそ、じっくり読み込めるはず。こういう機縁も、この書評空間では大切にいたしたいと念ずる次第だ。

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