• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
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    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2007年08月24日

『働かない-「怠けもの」と呼ばれた人たち』 トム・ルッツ[著] 小澤英実ほか[訳] (青土社)

働かない →bookwebで購入

「働いて自由になれ」、アウシュビッツの門にそう書いてあった

グッゲンビュール=クレイグの『老愚者考』は、老人は老い故の愚行にどっぷりで少しも構わないのに何でこんなに「若いもんに負けるか」と気張るのか、と言う。「彼らは方向を見失っているのは若い人びとだと思っています。学生は何が大事なのかをもはやわかっていない、すべての価値は解体している、と老教授が嘆くのを、何度も耳にします」として、「しかし最も深い意味において、不安定になっているのは老人の方なのです」と、痛烈であった。特にこの老人の気張り方は、商売熱心なマスコミにあおられた、最近還暦通過の団塊世代、ニューシルバー・エイジに気恥ずかしいほど顕著だと笑っていたら、こういう気骨の折れる「老人のもつ集合的世界、集合的価値とイメージは、四十年前に支配的だったものです」とされていて、どうやらグッゲンビュール=クレイグのスイスあたりでも、団塊世代が老賢者という「腐敗した神話」を担っている悪者らしくて、笑える。

自分が賢者だと信じこんでいるこの世代が「カウチポテト」な息子娘を目にしたら、どうなるか。

それは全身反応だった。ドアを開けたり、地下の仕事場から上がったりした瞬間、私の顔はさっと赤くなり、鼓動は早まり、体内にはアドレナリンが氾濫した。たいていは踵を返してキッチンに入り、タイル張りの流し台を指でカツカツと叩くか、仕事場に戻って座り、気持ちを落ち着けるかしたものだ。私の父親の怒りは、彼を行動に、ときには暴力的な行動に駆り立てたが、私の怒りは私を困惑させ、身動きできなくさせた。どうしても怒らずにはいられなかったし、その怒りが私には理解できなかった。

これはアメリカ人社会学者トム・ルッツの好著『働かない』の冒頭部である。自分に対して自分の父親が持っていた怒りをいつのまにか今度は自分の息子にぶつけようとしている、ということにうっすら気付いて少し反省し、すると一体この怒りの正体とは何かという歴史的展望の中で見てみたいと思って(さすが学者だ)、怠けというテーマで史料を集め、怠け者の文化史にまとめたのが、この本なのである。いまどき一つの学問ができあがっていく理想的なあり方を示す本体の前に、親と子をめぐる日常の怒りと苛立ちのドラマが二流のホームドラマ然として蜿蜒と続くのが、一寸『リーダーズ・ダイジェスト』風で、凄く面白い。

某大学で、指定のテーマでレポートを書けないと観念した諸君はこの一年くらいで読んで面白かった本や映像についての感想文を書いて出せと言っておいたら、『働かない』を選んで、「気が楽になった」という感想を書いてきた者が随分いて、びっくりした。よく働く大学のよく働く学生たちじゃないか、と。

「節約の論理」(ワイリー・サイファー)がうまれた17世紀ピューリタニズムあたりが出発点かと思う。ぼくが英語で何かを勉強している人に一度は必ずする話だが、「リアル」という単語は1601年、「ファクト」は1632年、「データ」は1647年に初めて使われる。現実が数量化でき、断片的情報の蓄積が可能になった瞬間、無駄を出さぬ「節検」と、日々孜孜(しし)として倦まずたゆまずの「労働」が、エシックス(倫理)として確立したのであろうとは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』など読んでいなくても、大体の見当はつく。

それを裏の「働かない」という切り口で明快にしてくれたのは、本書が最初だ。1990年代にアメリカでニートやフリーターが問題になり類書がいろいろ出たとは言っているが、「ポスト・フォーディズム」の現代に向けての歴史的展望をここまで拡げた目配りは初めて目にするものである。「活力」に対する「倦怠」というテーマでは、Rinehart Kuhn,"The Demon of Noontide" という極めつけの名著があるが、「労働」に対する「怠惰」というテーマでは本書が画期。18世紀に英米文化史上初めて、怠惰こそ文化と称するアイドラーという族(うから)が登場して後、ラウンジャーやローファー、ボヘミアン、ソーンタラーにフラヌール、20世紀のビートニック、バム、ヒッピー、そして現在のニートに相当するスラッカーへと、系譜は連綿と続く。

労働と怠惰は弁証法的関係にあり、硬ばったり弛んだりの繰り返しである。ルッツ教授のカウチ息子もやがてハリウッドに職が見つかると、一日14時間のモーレツ勤労を平気でこなすようになったようだ。めでたし。

フロイトの「人間が労働を通して、地球上における己の運命を改善する力を手中に発見した時、別の人間が自分とともに働く者か否かという問題に無関心でいることができなくなった」(『文化とその不満』、1930)という言葉がすべてであろう。労働もまた「一面的な神話」以上のものではなかった、と『老愚者考』の著者とともに言おう。

ともかく、自分の日常に出発し、未聞のテーマを立ち上げていく学問や批評の一番健全なあり方のすがすがしいお手本を、久しぶりに見た気がする。

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