• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2007年08月14日

『ウィルソン氏の驚異の陳列室』ローレンス・ウェシュラー[著] 大神田丈二[訳] (みすず書房)

ウィルソン氏の驚異の陳列室 →bookwebで購入

そう、あのスタフォードも『驚異装置』展をロサンゼルスで開いた

ジョルジュ・ペレックの『美術愛好家の陳列室』を読みながら思い出さずにすまなかった本がある。もはや少しく旧聞に属すが、ローレンス・ウェシュラーの"Mr. Wilson's Cabinet of Wonder"(1995;Hardcover1996;Paperback『ウィルソン氏の驚異の陳列室』である。両方とも原題に“cabinet”を謳っており、これが西欧近代を「箱の思想」(横山正氏の名著の標題)の系譜と考えようとする場合のキーワードであることが判明してきたこの四半世紀の、ある文化史的切り口の中では完璧につながり、必ず一緒に並べて読むべきと思わせるので、ペレック作に引き続き取り上げる。

種村季弘先生との今生のお別れとなってしまった『ユリイカ』誌対談で、アメリカ文化における創造的詐欺の話をしていて、氏がそういえば読んだばかりの『ウィルソン氏の驚異の陳列室』という本が非常に面白かったと言われ、当該テーマの決定書らしいのに未読で、不明を愧じた冷汗三斗を懐かしく思いだす。E・A・ポーがマガジニスト(雑誌編集人)であり、故にマニエリストでもあったとするなかなか楽しい対談のさなか、種村氏がマガジンてもともとは倉庫のことだから、これはアメリカ版ヴンダーカンマーというわけだね、と一言おっしゃった。これで、アメリカン・マニエリスムという観念の成否をめぐって年来鬱々と悩んできたぼくは、一挙に愁眉を開いた。

ロサンゼルス郊外にジュラシック・テクノロジー博物館という施設がある。入ってみると「何ともいわく言いがたいジオラマ(好奇心をそそらずにはいないすてきなディスプレーの中に並べてあるのは化学物質で、ラベルによればチタンの酸化物、鉄の酸化物、アルミニウムである)」がある。「ある女の後頭部に生えた驚くべき奇妙な角」がある。テクノロジーの人工物と珍奇玄妙の自然物が混在している・現代に生き延びた16世紀マニエリスムのヴンダーカンマーという趣。あるかあらぬか、マニエリスム時代にそうした珍品コレクションの象徴だった「ノアの箱舟」の縮尺模型もちゃんと置いてある。アメリカ民衆文化の象徴たる「ダイム・ミュージアム」、「ペニー・アーケード」の世界。『バーナム博物館』『イン・ザ・ペニー・アーケード』にS.ミルハウザーが面白く描いている。

第一部「胞子を吸って」は、この個人博物館を創立経営しているデイヴィッド・ウィルソンという人物とその家族係累を紹介する。著者は有名なルポ・ライターというだけのことはあって、ウィルソン本人とのやりとり、資料による補充など巧いもので、『リーダーズ・ダイジェスト』のよくできた記事のように、すらすらと一人の奇人伝として面白く読める。それがウィルソン氏が「天命を受けた仕事の一部分は・・・人々を驚異に向かって再統合することなのです」と漏らすに至り、話が「草創期の博物館、16、17世紀にまで遡るウル・コレクション」に及んだところで第一部は終る。それらの原-博物館は

ドイツ語でヴンダーカマー、驚異の部屋と呼ばれることもあったが、ジュラシック・テクノロジー博物館は、大まかに考えて、驚異がその統一的テーマであるという点でまさにそれらに相応しい跡継ぎである。しかしそれは特別な種類の驚異であり、しかも不安定なのである。ジュラシック・テクノロジー博物館を訪れた人は絶えず自分が(自然の驚異を)見て驚くことと、(こんなことがありうるか)どうかいぶかしく思うこととの間でゆらめいていることを知るのだ。そしてウィルソンはときどきほのめかしているように見えるのだが、人間であることのもっとも恵まれた素晴らしいことは、まさにそのゆらめき、そのように楽しく錯乱しうる能力なのだ。(pp.61-62)

そして第二部「大脳の発達」は、問題の「草創期の博物館」の不思議なコレクションとその歴史的背景を、1980~1990年代に爆発的に出版されるようになったさまざまなヴンダーカンマー研究書の紹介を兼ねながら概観する。出発点は伝説的に浩瀚なインピー、マグレガー共編の『博物館の起源』(1983)。ヴンダーカンマーの汎欧的な盛行を扱った、今でも比類なき絶品資料。それに1991年、新歴史学・新美術史学が異文化(特に中南米)制圧というイデオロギー的側面を補った。S.グリーンブラットの『驚異と占有』(みすず書房)である。ジョイ・ケンセス差配の「驚異の時代」展も、アダルジーザ・ルーリもサイモン・シャーマも次々と紹介されていく。フランセス・イエイツ紹介の「註」など眺めるうちに、何が本文で何が「註」か曖昧になる(「ポストモダンは周期的に回帰する」というマニエリスム<常数>史観――結局、本書の肝――は「註」の中に出てくる!)。というより、この本の主人公たるウィルソン氏もその博物館もごっそり曖昧なのだ。途中でホウクス博物館というのが出てきて知らされるのだが、このルポ自体が“hoax”だった「らしい」!

ヴンダーカンマーに注目と、『魔の王が見る』、『綺想の饗宴』でガチガチ固く言い続けてきたぼく、相手が相手だけに「驚異」感のあるこういう紹介の新ジャンルがあったかと脱帽しつつ、遠方なれど同志ありと心底心慰められた次第である。傑作ランク(?)A。

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