• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2007年08月10日

『美術愛好家の陳列室』ジョルジュ・ペレック[著] 塩塚秀一郎[訳](水声社)

美術愛好家の陳列室 →bookwebで購入

全美術史を壺中に封じる、これも「記憶の部屋」だ

大きな部屋の壁一杯に何十枚かの絵が掛けられている、考えてみるほどに奇妙な絵の一枚や二枚、誰しも目にしたことがことがあるだろう。壁の一部がいわゆる加速遠近法でぐっと奥に向かってへこんでいく、その筒状の奥まる壁面上もびっしりと絵でおおわれている。空間に隙間を残すのを嫌がる近代ヨーロッパ文化の<真空恐怖>をそっくり絵にしてみせたようなこの画題を、ガレリア(ギャラリー)画、画廊画といって、17世紀から19世紀にかけて長く流行した。一番有名なのは、18世紀中葉、ローマ画壇の最高位を極めたジョヴァンニ・パオロ・パンニーニの一連の画廊画。これを表紙にあしらった Annalisa Scarpa Sonino, "Cabinet d'amateur"(Berenice)なる巨大画集一冊繙読すると、ほとんど、お願いもう許してモードになること必定である。有名な絵を何十枚もミニチュアにして模写したものをびっしり詰め込んでみせる大型の絵を何百点か、描きこまれたミニチュアの一点一点が誰の何という絵か同定しながら見させられると、西欧近代とは何なのかという大きな問いにまで行かざるを得なくなる気分だ。

現在の視覚文化論隆晶のきっかけをつくったジョン・バージャーの名著"Ways of Seeing"(1972;Hardcover1995;Paperback『イメージ』が、レヴィ=ストロースを引きながら「所有形式としての」油絵、そしてその堆積としての画廊画を論じた1970年代初めにして、画廊画がブルジョワ階級の所有欲の表れだということを指摘済み。そして最近、そうやってうまれた絵画が自らが所有形式のひとつであることへの自意識を深め易いメタフィクショナルな制作行為であったことが、たとえばルーマニアの美術批評家、ヴィクトル・I・ストイキツァの『絵画の自意識』(1993。邦訳ありな書房;2001)で動かぬ事実となった。パンニーニのピクチャレスクなローマと16世紀のアントウェルペン・マニエリスム画派が<画廊画>への関心であっさり通底する。絵とは何、描くとは何、それを評するとは何、美術史学とは何。絵画という表象をリフレクト(反省)するに、考えてみればこれだけぴったりの画題はないだろう。

そこにきちんと照準を合わせたのが、想像通り<ウリポ Oulipo>グループの鬼才、ジョルジュ・ペレックの"Un cabinet d'amateur"(初版1979/1997;Broché2001;Poche)だった。今回翻訳の原作。ウリポとは順列組合せ数学に高度の知識を持つ文学者集団。『文体練習』で同一情景を何十通りかの文体で書き分ける芸当に出たノーベル文学賞受賞者レイモン・クノーが中心。周縁には『宿命の交わる城』と『マルコ・ポーロの見えない都市』、「文体練習」的文学の二大名作を書いたイターロ・カルヴィーノ。そのカルヴィーノが、次は美術館展示の絵を自在にリシャッフルすることで、順列組合せ小説を書いてみたいと言い遺したまま、他界。残念でならなかったところ、この『美術愛好家の陳列室』がその遺志を完全に実現してくれた。

物語は、醸造業者ヘルマン・ラフケ所有の一枚の画廊画に誰の何の絵が描きこまれているかの分析と描写がコアである。描いた画家はハインリヒ・キュルツ。どこかで誰かが描いた絵をキュルツがミニチュア化して、問題の『美術愛好家の陳列室』という絵の中に模写していくのだが、模写といっても原作とどこか微妙に違っている、それはどこか探せという趣向もあるらしい。しかも、ミニチュアにして入れられた絵もまた一幅の画廊画になっていて、その中に何十枚かの絵を含んでいたりする。

画家は絵の中にこの絵自体も描き込んでおり、陳列室に腰かけた蒐集家が、部屋の奥に視線を向けて見ているその絵には、絵画コレクションを眺めている蒐集家自身が描かれているうえ、彼が眺めている絵もすべてあらたに模写されているといったぐあいで、絵画コレクションは精確さをいささかも失うことなく、第一次、第二次、第三次と縮小してゆき、ついにはカンヴァス上に見えるのはあるかなきかの筆跡だけになってしまう。

縮小が内向するばかりか、蒐集家の死に際しては、部屋自体がこの絵と寸分違わぬ(蒐集家その人をも含む)状況にされて永久封印される。絵が絵の外に向かって増殖しもするのが面白い。

問題の絵が贋物だったことが判明、というのが、この作品のアクションと言えば言える。そうなると一種推理小説風だから、粗筋にはこれ以上触れない。大体が“amateur”(「素人」という意味ではない)という存在が面白い。“cabinet”の文化史が面白い。両方とも豊かな文化史的観念であったことが判ってきたのが、やっとこの四半世紀。「キャビネ(ッ)ト」ひとつとっても、たとえばマニエリスムの驚異博物室から電子ブリコラージュの箱型デヴァイスとしてのPCまで何とか一本の線に繋げようとしている一大文化史家バーバラ・M・スタフォードの批評の鍵語がいつも「キャビネット」だ。

全美術史の営みを130ページに封じ込めたこの作自体がキャビネットだという壺中天のパラドックスが「パラドックスの文学(R・L・コリー)」の一大痛快作をうんだ。

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