書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『キャンディとチョコボンボン』収録「いまあじゅ」大矢ちき(小学館文庫)

キャンディとチョコボンボン

クリックで大きい画像を表示

→クリックして画像を拡大

「いまあじゅ」pp.254-255

→紀伊國屋書店で購入

名作「いまあじゅ」で、マニエリスムがメディアの問題になった

小学館文庫に大矢ちきが二冊入った。『おじゃまさんリュリュ』『キャンディとチョコボンボン』。日本漫画史がマニエリスムと交叉した一瞬を見せつける貴重な逸品「いまあじゅ」が『キャンディとチョコボンボン』で再び読めることの興奮。今回文庫でたった16ページの「いまあじゅ」を、いってみれば漫画漬けの大量消費状態の中、メディアとしてのコミックスが内容ばかり、それも漫画社会学といった観点でばかり問題にされている今、若い読者が見て、何をどう感じるかに、ぼくはとても興味がある。世代の差ありや、と。

一人の美少年が、想像したことがそのまま現実となる幼児期の万能感覚を喪って――それは左眼の事故による失明を通して起こる――青年になってしまい、いつもこの喪失感とノスタルジアに苦しんでいるという、いかにも「青い」話。それを一人の少女も出てこない、「花の24年組」好みの女人結界ギムナジウム世界で、明るい一方の少年と、暗い本好きの「委員さま」の対立と、甘くも狂おしい融合の物語として描くといえば、やおいのはしりかという具合だが、こともあろうにマンガを通してゼーレ(魂)の冥府降下という神話的・元型的な物語を追ってみるという、およそ物語なるものの根源とでもいうべきでき方をしているので、今頃の腐女子マンガ読者たちが「いまあじゅ」をどう読むか、これは是非にも知りたい。

実存主義という深み志向の哲学が1950~60年代に流行ったが、これと漫画が交叉したのが岡田史子(ふみこ)だとすれば、マニエリスムと漫画が接点を持ったのが大矢ちきということになる。たどん目の主人公たちが生きることの意味を前に重くたたずんでしまう岡田史子が、主題の要求する絵としての下手さでぼくなどを魅了したのとぴったり裏腹に、大矢ちきは空前絶後の絵の巧さで“impressive”だった。紙の上に線を圧し刻むプレス(圧)も、そして読者の脳裡にインプレッションを彫り刻む圧力においても、という意味である。

愛知芸術大学で大矢ちきが線の扱いと伝説的な色の巧みな扱いを勉強していた頃は、ぴったりマニエリスムのブームに当たっている。「いまあじゅ」で、自分の甘美なるべき幼児の頃をいま自分の内なる迷宮として抱える主人公は、自らの裡に降下していくわけだが、自らその説明をして、「ぼくはぼくの鏡のうちへと降りる。死者がその開かれた墓へと降りていくように」というシュルレアリスム詩人ポール・エリュアールの詩を引くのだが、雑誌『りぼん』新年号に「いまあじゅ」が初出された1975年という象徴的なタイミングでは、身芯にG・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』(1957。邦訳1966)を思いだした読者が少なくなかったはずである(それは、まさしくエリュアールのこの一行から始まっていた)。

ダ・ヴィンチ構想の八角形の迷宮を究極の標的として、迷宮と化す人間の世界内存在の意識を、ハイデッガーヤスパースの存在分析哲学の手法をもって追う『迷宮としての世界』が、1970年代初めの才媛画学生の座右になかったとは考えにくい。主人公の分身とおぼしき美少年が主人公に「ねえ知ってる?ダ・ヴィンチ八角形(オクタゴン)の鏡の迷宮を築こうとしたのを?」と言い放ちさえしているからである。ここまで徹底してやられながら、大矢ちき(は勿論、岡田史子)に一言の論及もなかった澁澤龍彦の存外な感度の悪さを何だろうと思うのだ。

そしてその分、改めて愛すべき橋本治先生の批評的感度の鋭敏に脱帽する。大矢ちきの人物たちの唇に、『ガラスの仮面』の人物たちの髪の色に、『クリティック』の四方田犬彦が加えた透徹した分析に匹敵する分析を加えた名作、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(1979。のち河出文庫)で、橋本治は大矢ちきの「ポップ・マニエリスム」を論じている。ホッケだの、ハウザーだの、ワイリー・サイファーだの、詳しくはそちらを読んでとか、一見無責任だ。

「私はメンドクサガリ屋なのだ。だからそれを、当の大矢ちき嬢御本人に説明していただく――

“らららものすごい寝ぞう みんながひっちゃかめっちゃかにもつれてるよ マニエリスムね” “ぎゃっ鍵が髪の中にまじゃこじゃになっている マニエリスムだ!” “よいさ よいさ まるでちえの輪みたい マニエリスム・・・ムス” 出典 『ルージュはさいご』

――要するにマニエリスムとは、ゴチャゴチャのことなのだ」

といった軽い口調だが、「美しき手法」の域に達した大矢ちきのコマ割りの奇想、絵と字の絶妙な離合と融解など、マニエリスムをメディア論、「フィグーラ」論に開く天才の所業としか形容しようのない世界をマニエリストと断じたのは、さすがに「大」橋本治ならではのスマッシュ・ヒットである。ぼくがNTT出版の論集『コミック・メディア』で日本漫画のマニエリスムを論じて、男は宮西計三、女は大矢ちきを取りあげることになるのも、下敷きとして橋本治の大矢ちき論「世界を変えた唇」が先行していたればこそであった。

→紀伊國屋書店で購入