• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2007年08月17日

『大発作-てんかんをめぐる家族の物語』 ダビッド・ベー[作] 関澄かおる[訳] (明石書店)

大発作-てんかんをめぐる家族の物語 クリックで大きい画像を表示
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『大発作』pp.304-305
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フランス版『ガロ』が、ベー・デーを転倒させてのデー・ベー

日本のマンガ、アメリカのコミックスとともに20世紀漫画史のひとつの極とされてきたフランスのバンド・デシネ、いわゆるB.D.(ベー・デー)は、「現代思想」を推進した理屈好き・論争好きのお国柄を反映して、ちょうどピーク時(伝説の編集長・長井勝一)の我が『ガロ』そのもののハードな思想性と、それが要求しやまぬ描法の実験性に大きな魅力を持つ世界であった。だから、大友克洋のAKIRAに一番大きく流れこんだ霊感の源がBDであり、AKIRAから流れ出るものに一番大きな霊感をさずかったのがまたBDのアーティストたちだったと聞いても、全然不思議じゃない。ダビッド・ベーが中心になって、フランス版『ガロ』というべきラソシアシオン社を1990年に創設せざるを得なかったのは、そういうBDが本来のハードなメッセージ性を喪って、極東のマンガやアメリカのコミックスに押されても仕方のない無力な状況に陥っていたことの証しだ。

本名ピエール=フランソワ・ボシャール(1959~ )、愛称ファフー少年が癲癇(てんかん)の兄ジャン=クリストフの発作発症(1964)から作品刊行時(2003)までの「大発作」にずっと付き合う闘病記録だが、幼少時からファフーは絵が巧く、また途中から20世紀後半の本好き少年の常道のように幻想文学のとりこになった挙句、兄との確執と深い共感の物語を世界に発信しようとする。

パリにひとりで生きている今、僕はすべてを語りたい。兄のてんかんのこと、医者のこと、マクロビオティックのこと、交霊術のこと、宗教指導者のこと、共同体のこと―

絵の巧いファフーのこと、この物語はBDにならざるを得ないだろうし、ファフーによれば「世界を代表する漫画になる予定だ」というので、プルーストの『失われた時を求めて』やアンドレ・ジッドの『贋金つくり』そっくりの入れ子箱の形になっている。まさしくBD版『失われた時を求めて』といってよい。現に作中のBD作家志望のファフーが、受難の民ということで急に好きになったユダヤ民族の代表的名ということからダビッド[ダビデ]の名を名乗り、かくて本当の人気BD作家ダビッド・Bとなって、ほらお手元のこの『大発作』を描いた、とそういう入れ子になっている。商業化したBDをもう一度転倒してしまうという気合がBDを逆しまにしたDB[ダビッド・ベー]の筆名になった、ともいえよう。なかなか洒落(しゃらく)な人物と見受けられる。

描かれている内容は洒落どころではない。発作がきて全身の強直性痙攣でどこにでもひっくり返ってしまう兄ジャン=クリストフが、近代医学の最先端治療(「気体脳造影撮影法」)から、それに批判的なドゥルーズ=ガタリ流の「反精神医学」までモダンな治療、ポストモダンな医学すべてに見放され、禅式「マクロビオティック」という食餌療法からシュタイナー学校からモーツァルト音楽療法、スウェーデンボルグ主義、薔薇十字、錬金術から、果てはヴードゥー教まで、エソテリック[秘教的]と呼ばれるありとあらゆる療法に手を出すが、どうやら自分を守るために癲癇を利用し始めさえしているジャン=クリストフには、すべて何の効果ももたらさないばかりか悪影響を及ぼし、癲癇と精神障害が交互に、また複雑に絡み合って、優しく看護してくれる一方の父母にさえ危害を加えるようになる。

物語の3分の1はこの兄の症状を追う。症状が巻を追うごとに悪化していくのに応じて、この兄の挙措表情を描く描線が太く粗く真っ黒になっていくのが、異様にプリミティーフな版画みたいで迫力がある。また3分の1は、身体の健康をめざす共同体が必ず精神の自己啓発を唱える動きと化し、そして階級をつくりだす権力闘争に堕し、教祖の自殺や逮捕に至るおなじみの行程を、飽きもせず繰り返し追う。フーコーやドゥルーズをうんだお国柄と時代であろう。

そして残る3分の1が、そういう不治の病の兄と関わる主人公/語り手の側に起こる変化をゆっくりと描く。どうやら弟にも癲癇の素因があるが、彼は早々とそれを絵の世界に「昇華」するコツを体得していた。それから夜の森の世界に魔じみた対話者を呼び出して対話することで日々の圧から逃げる術も得る。夜こそ我が鎧だと。

もはや想像がつくように、最後に癲癇という回路を通じて兄弟に深い和解が訪れるが、天空を行く馬上での対話が深く黙示録的で、ダビッド・ベーが『蒼ざめた馬』(1992)以降ずっとこの世界を引きずっていることを思い出させる。得体の知れぬ病が一貫して黙示録的なドラゴンとして描かれる。時にはそれは瘴気の渦流に変じて人の身体と化す。

そう、『ヨハネの黙示録』また癲癇者による作とされている(いま改めて注目のドストエフスキーも、そしてエドワード・リアまた)。そのこともあって、かつてこの病は“morbus sacer”[神聖病]と呼ばれた。神聖でも何でもない、脳内の機能障害として、ひたすら脳波波形の類型学に矮小化されてきたのが現下の対癇癪観である。そういう癇癪観が無力なのは、虎や兎として描かれるオリエンタールもしくはジャポネな(「僕らの新しい世界では、日本の物はすべてよしとされている」!)整体や気功の術が無力なのと同じなのだ。

大発作とは面白がって付けた名ではなく、癲癇の典型的症状を指す医学用語“haut mal”[全般性強直間代発作]の訳である。では、この原作の原題"L'Ascension du Haut Mal"の“ascension”とは何か。文字通りには「昇り」のことで、作中一貫して癲癇発作の進行が山登りに譬えられている。しかし、この語は何といってもキリストや聖母の「被昇天」を意味しないではおかないだろう。「至高の悪の高み」とか、文字通りにとればとれるし。深刻だが、洒落といったのは、この辺の面白さである。

全体の3分の1が、1880年から1964年に至る戦争の歴史の回顧である。この分量は意味深い。癲癇は個人的素因にやはり社会的変動が歪みを加えて生じるものとDBはいいたいのだ。そういう社会的病を一家族の「聖」史劇に「昇華」しようとした力わざだ。

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