• 愛読者諸兄諸姉。週2回(火・金)ということで2007年5月にスタートしたぼくの書評ですが、近々100回目を迎えるところで一応決着ということにさせていただきます。

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  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
    ―ぼくの中に貪婪の書評魔が帰ってきた―

    かつては一日に一冊読んだ。そして気に入ったものがあれば諸誌紙に週二、三冊は書評を載せてもらっていた。書評に名を借りた論文というスタイルで、よくものを書いた。読みについても魔と呼ばれ巧者と言われ、達人の名をたまわった。十年も前のことである。 長い長い中断が入った。

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  • 紀伊國屋創業80年記念・連続セミナー“9 days talk live”
    「学魔・高山宏、知の系譜と人文科学の未来を語る」
    2007/9/8(土) 13:00~15:40 新宿・紀伊國屋ホール
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2007年07月27日

『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』ルイス・キャロル[作]/ヤン・シュヴァンクマイエル[挿画](エスクァイアマガジンジャパン)

ヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展
~アリス、あるいは快楽原則~

2007.8/25(土)~9/12(水)
11:00~20:00 (最終日~18:00)
ラフォーレミュージアム原宿 TEL.03-3475-0411

不思議の国のアリス 鏡の国のアリス
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動きだす絵、それがアニメーションの定義と思い知れ

まさしく20世紀半ばの東中欧みたいな上意下達、朝令暮改の大学「改革」の密室政治で、制度というもののグロテスクリーを日々いやというほど味わわされた2006年の年度末だったから、ルイス・キャロルの専門家にしてヤン・シュヴァンクマイエルのアニメの紹介者の一人ということになっているぼくにして、シュヴァンクマイエルが『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』に改めてオリジナル挿絵を提供したアリス本が出たことを知るのに少し手間暇がかかった。2007年が明けてアワをくって探本したが、『不思議の国のアリス』はアッという間に在庫切れ。が、噂の本のこと、すぐ初版二刷として落掌、『鏡の国のアリス』と併せて、2007年最初にページを繰った一冊とはなった。

いまシュヴァンクマイエル・ファンである人の過半が、シュヴァンクマイエルの『アリス』(1987)をきっかけにファンになってしまったのではないかと思う。アリスが迷いこんだ世界を何と呼ぶか、多くの評者がそれをグロテスクと呼んでいることを知ってはいても、具体的にどういう事態がグロテスクなのか、人間が人形になり、登場人物がぺらぺらの紙人形に化ける、この東欧版『不思議の国のアリス』で実感としてわかったという気さえした。

試みに世界の文学のことなら一応全部わかるはずの集英社版『世界文学事典』で「グロテスク」の項を調べて一驚を喫したことがある。それが地下宮殿に由来し、その宮殿の壁を飾っていた唐草模様の絵柄を呼ぶ名となった、といった語源縁起からはじめて、そういうデザインに対応した文学になら、たとえばラブレーあり、ゲルデロードあり、安倍公房ありといったようなことを、1960年代の「グロテスク」研究ブームの中で一応頭に入れていたわけだが、問題の大事典の「グロテスク」の項は、ラブレーも何も吹っ飛ばして、ひたすらポーランドをはじめとする東中欧の混沌と倒錯という現代文化の一局面のみ概説している。グロテスク観念をもっぱらドイツ・ロマン派の専売特許にしようとしたヴォルフガング・カイザー『グロテスクなもの』(1957。ホッケの『迷宮としての世界』と同年だ!)すら、形無しの体である。東中欧精神史が必要だ。

グロテスク観念と表裏にあるマニエリスムにしてからが、その観念を発見し、16世紀と20世紀を繋ぐ<乗数>とする契機をつくったのは、マックス・ドヴォルザークの『精神史としての美術史』(1924)であり、『ホガース』や『フュッスリ研究』を通してのフレデリック・アンタルのマニエリスム研究であり、そしてマニエリスムの芸術社会学を一手に引き受けたアルノルト・ハウザー。皆ハンガリーとかルーマニアとかの人間である。

もっと有名どころでは、まさしくグロテスクなシェイクスピア像を照射して20世紀後半演劇をアングラ劇場に変えたポーランド人、ヤン・コットの『シェイクスピアはわれらの同時代人』があり、そしてそういうシェイクスピアを20世紀不条理演劇と繋ぐその繋ぎ目にキャロルを配したハンガリー人、マーティン・エスリンの『不条理の演劇』を忘れることができない。皆1960年代に書かれ、ほんの少しのラグで日本語になっていった。

この身体と混沌に深くなじむ諸観念をたぶんグローバルに混ぜ合い駆使できた1960年代の相貌を、デジタリティの中にどうやって回復できるかに、凋落のみ言われる21世紀人文学蘇生の大ヒントがあり、そしてその中での<東中欧>マインドの果たした巨大な役割があるのだと思う。そう、ジョナス・メカスだって、いる。

ビデオ『妄想の限りなき増殖』中に「プラハからのものがたり」という短篇がある、ジェイムズ・マーシュ監督。ヤン・コットの『わたしの生涯』そのまま、ヒトラーとの悪戦、スターリンとの抗争、共産主義独裁と「プラハの春」・・・と、まさしく世界史的な政治的抑圧の時代を、ヤン・シュヴァンクマイエル(1934-)が経験し、その中でいかにシュルレアリスムがプラハに生ぜざるを得なかったか、そして「魔のプラハ」(アンジェロ・リッペリーノ)ではそれがいかにアルチンボルドのマニエリスムに遡らざるを得なかったかが、シュヴァンクマイエル自伝とないまぜに語られる。バルトルシャイティスもそうだったが、東中欧人文主義の異様な博識ぶりとは何かを、『シュヴァンクマイエルの世界』『シュヴァンクマイエルの博物館』(いずれも国書刊行会)の鮮烈なページを繰って考えよう。博学が可能にする混淆。それが即ちシュルレアリスムをマニエリスム直系の裔(すえ)としている。

天才アニメ監督による『アリス』は、キャロル原作の地下にグロッタ(洞窟)とヴンダーカンマーのマニエリスムを見せようとした。そのアニメから動きを奪うはずの今回の紙の上のアリス挿画の世界。マックス・エルンスト真似のコラージュの<静>を、下手ウマな動物たちの粗描きデッサンの<動>がアニメートさせる。そう、それ即ち“animation”の根本義に他ならない。本とビデオを往復すべき珍しい読書体験をすべし。


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